ep.117 放課後自習会、ノートの余白が増えすぎる
放課後自習会は、なぜか一度休むと少しだけ再開しにくくなる。
最初にそう言ったのは、藤堂莉子だった。
「ほら、筋トレと同じだよ。一回サボると次めんどくなるやつ」
教室の後ろの窓から夕方の光が入ってくる時間だった。
ホームルームが終わり、部活組がばたばたと教室を出ていく。帰宅組も、廊下に流れるように減っていく。
そんな中、莉子は机に頬杖をついたまま、妙に真面目な顔でそう言った。
黒瀬琉衣奈は鞄にノートをしまいかけていた手を止める。
「莉子、筋トレしてないじゃん」
「してないからわかるの」
「説得力どこ」
「サボる側の説得力」
「いらない」
黒瀬が呆れた声で返すと、莉子はけらけら笑った。
朝比奈湊は自分の席でプリントをまとめながら、そのやり取りを聞いていた。
今日は久しぶりに放課後自習会をやることになっている。
きっかけは、来週の確認テストだった。
小テストで少し点が上がった黒瀬は、以前よりも勉強に対して完全な拒絶をしなくなった。もちろん「やりたい」とは言わない。
言うはずがない。
けれど、昼休みに莉子が「今日やる?」と聞いた時、黒瀬はこう答えた。
「……やってもいい」
それは、黒瀬語では参加確定に近い。
莉子が即座に「はい決定」と翻訳し、黒瀬が「翻訳すんな」と怒り、白瀬栞が「私も残れます」と静かに頷いた。
それで決まった。
黒瀬は今も、やる気があるようには見せまいとしている。
けれど机の上には、数学のプリントとノートがすでに出ていた。
湊はそれを見て、少しだけ笑ってしまう。
黒瀬がすぐに気づいた。
「朝比奈、笑うな」
「まだ何も」
「顔」
「顔か」
「顔」
黒瀬はむくれた。
その横で、白瀬が丁寧にノートを開く。
「今日は、確認テストの範囲を整理してから、間違えやすい問題を見ていくのがいいと思います」
「白瀬先生、今日も仕切りが完璧」
莉子が言う。
「先生ではありません」
「でも完全に先生だよ。あたし、白瀬さんが板書始めても驚かない」
「板書はしません」
「黒板使わないタイプの先生」
「藤堂さん」
白瀬が少し困ったように言うと、莉子は笑って手を振った。
「ごめんごめん。じゃあ始めよ」
四人は机を少しだけ寄せた。
完全に向かい合うと目立つから、自然に集まったような形にする。
それももう、何度かやって覚えた距離だった。
黒瀬のノートが開かれる。
以前より見やすくなったノート。
白瀬のように整い切ってはいない。
字は勢いがあって、少し斜めで、ところどころ大きい。
けれど、見出しがある。
余白がある。
大事なところに印がある。
そして、その余白には、授業とは関係あるようでないような短い言葉が増えていた。
湊はそれを見ないようにした。
黒瀬が警戒しているのがわかったからだ。
「まず、ここからですね」
白瀬がプリントの一問目を指す。
「この範囲は、公式そのものよりも、どの場面でどの式を使うかが大事です」
「うわ、出た。どの式使うかわかんないやつ」
莉子が早速眉を寄せる。
「問題文の言い方で見分けられます」
「白瀬さん、問題文が日本語なのに急に暗号になる時あるよね」
「暗号ではありません」
「いや、暗号だよ。数学の問題文って、たまに日本語のふりした敵」
「それはちょっとわかる」
黒瀬がぼそっと言った。
莉子が指を鳴らす。
「でしょ? るいなもわかるでしょ?」
「わかるけど、莉子と一緒にされるのは何か嫌」
「ひど」
白瀬は二人のやり取りを少しだけ待ってから、ノートに簡単な表を書いた。
「では、問題文にこの言葉が出たらこの式、という形で整理しましょう」
「白瀬のノート、相変わらずきれい」
黒瀬が言う。
「ありがとうございます」
「普通に受け取るなって」
「褒めてもらえたので」
「褒めたけど」
黒瀬は少しだけ顔を赤くした。
湊はその横で、自分のプリントに線を引く。
「これ、ざっくり言うと、問題文の中で『何を聞かれてるか』を先に丸で囲むと楽かも」
「朝比奈先生、出た。ざっくり担当」
莉子が言う。
「俺、それ固定なのか」
「固定だよ。白瀬さんは地図担当、朝比奈くんはコンビニ案内担当」
「その例え、まだ生きてたのか」
「生きてる生きてる」
黒瀬がノートの余白に何かを書き始めた。
湊は見ないようにした。
けれど、莉子は遠慮がない。
「るいな、今何書いた?」
「何も」
「何もじゃない。今絶対『朝比奈、ざっくり担当』って書いた」
「書いてない」
「じゃあ見せて」
「嫌」
「書いたんじゃん」
「莉子、うるさい」
黒瀬はノートを少し自分の方へ引き寄せた。
しかし白瀬が、ほんの少しだけ見えてしまったらしい。
静かに言う。
「黒瀬さん」
「何」
「『朝比奈、鍋ではなく丸で囲む』と書いてあります」
「白瀬、見えすぎ!」
黒瀬の顔が一気に赤くなる。
莉子が机を叩いて笑った。
「何それ! 鍋ではなく丸で囲む!」
「笑うな!」
「いや無理。るいなのノート、面白すぎる」
「面白くないし。復習用だし」
黒瀬はむくれる。
湊も少し笑ってしまった。
黒瀬がすぐに睨む。
「朝比奈も笑うな」
「ごめん。でも、後で見返したらわかりそうだと思って」
「……そういうこと普通に言うな」
「いいメモだと思う」
「二回言うな」
黒瀬はノートの余白を隠すように手を置いた。
けれど、その一行を消そうとはしなかった。
自習会は思ったより順調に進んだ。
白瀬が整え、湊が噛み砕き、黒瀬が文句を言いながら理解し、莉子が時々脱線する。
そして黒瀬のノートの余白は、問題を解くたびに少しずつ増えていった。
――ここ、白瀬に聞く。
――朝比奈の説明、今日は鍋じゃない。
――莉子、まだ寝るな。
――白瀬、説明中ちょっと楽しそう。
――朝比奈、褒めるタイミング変。
――公式より問題文が敵。
黒瀬は書いている途中で、自分でも少しだけまずいと思った。
余白が増えすぎている。
しかも半分くらい授業ではない。
けれど、不思議とやめられない。
あとで見返した時、たぶん問題のことだけでなく、この放課後の空気まで思い出せる。
白瀬のきれいな説明。
湊の雑だけど入ってくる例え。
莉子の眠そうな顔。
自分が少しずつわかっていく感じ。
それを残したい。
そう思うようになったこと自体が、少し変だった。
「るいな、手止まってるよ」
莉子が言った。
「止まってない」
「今、ノート見てぼーっとしてた」
「考えてただけ」
「何を?」
「……公式」
「嘘が雑」
「うるさい」
黒瀬はシャーペンを持ち直した。
次の問題。
白瀬が言う。
「これは、さっきと同じ考え方で解けます。ただし、最後の符号に注意してください」
「符号、また裏切るやつ」
黒瀬が言う。
「符号は裏切っていません」
「白瀬、それ前も言った」
「はい」
「覚えてるの?」
「黒瀬さんが印象的な言い方をしたので」
「普通に覚えるなって」
黒瀬は顔を赤くして、ノートに書いた。
――符号は裏切らないらしい。
莉子が覗きかける。
黒瀬はすぐに腕で隠した。
「莉子、見ない」
「ちょっとだけ」
「だめ」
「一行だけ」
「だめ」
「白瀬さんは見たのに?」
「白瀬は見えただけ」
「ずるい。白瀬さんだけ特別?」
黒瀬が固まった。
白瀬も少しだけ目を瞬かせる。
湊は思わず莉子を見る。
莉子は、自分で言ってから「あ」と少しだけ顔をした。
でも、すぐににやっと戻る。
「ごめん、今のちょっと面白かった」
「莉子」
黒瀬の声が低い。
だが、本気で怒っているわけではない。
むしろ、どう返せばいいかわからない顔だった。
白瀬は少しだけ考えて、静かに言った。
「私は、特別ではありません」
「白瀬」
「でも、黒瀬さんが見せてもいいと思う時が少しあるなら、嬉しいです」
黒瀬は完全に言葉に詰まった。
莉子が小声で言う。
「強い」
「莉子も言うな」
「いや、今のは強いって」
湊も内心そう思った。
白瀬のこういうところは、真っ直ぐなのに押しつけがましくない。
逃げ道を残して、でもちゃんと届く場所に言葉を置いてくる。
黒瀬はノートを見下ろした。
「……別に」
「はい」
「全部は無理だけど」
「はい」
「一行くらいなら、見てもいい時はある」
白瀬の表情がふっとやわらかくなる。
「ありがとうございます」
「礼言うなって」
「嬉しかったので」
「出た」
黒瀬は顔を赤くしながら、ノートの端を少しだけ白瀬に向けた。
見えたのは一行だけ。
――符号は裏切らないらしい。
白瀬はそれを見て、目元を緩めた。
「良いメモだと思います」
「それ、良いの?」
「はい。黒瀬さんが思い出しやすいなら」
「思い出せそうではある」
「なら、良いと思います」
黒瀬は少しだけ目を逸らした。
嬉しそうだった。
莉子が羨ましそうに言う。
「あたしも見たい」
「莉子は騒ぐからだめ」
「騒がない」
「絶対騒ぐ」
「半分騒ぐ」
「だからだめ」
四人の間に、少し笑いが落ちる。
自習会はそのまま続いた。
途中、莉子が本当に眠そうになり、黒瀬がノートの余白に「莉子、限界」と書いた。
それを莉子に見つかり、軽く揉めた。
「るいな、あたしのこと記録しないで」
「莉子も人のこと散々言ってるじゃん」
「あたしは口で言ってるだけ」
「もっと悪い」
「ひど」
白瀬が少し笑い、湊も笑った。
黒瀬はそれを見て、また余白に書く。
――白瀬、今日ちょっと笑った。莉子のせい。
「黒瀬さん」
白瀬が言った。
「何」
「今、私のことを書きましたか?」
「……書いてない」
「少しだけ見えました」
「見えすぎ!」
黒瀬は慌てて隠す。
しかし、顔が赤い。
莉子がにやにやする。
「白瀬さんのこと書きすぎじゃない?」
「書いてない」
「書いてる顔」
「顔で決めるな」
湊はそこで口を挟んだ。
「でも、勉強にもなってるし、記録にもなってるな」
黒瀬の動きが止まる。
「……何」
「黒瀬のノート」
「急にまとめるな」
「いや、いいなと思って」
「普通に言うな」
「でも本当に」
「本当なら余計だめ」
黒瀬はクッションがあれば顔を隠したかったが、今は教室なのでできない。
代わりに、ノートの端を指でなぞった。
「勉強にも、記録にも」
小さく繰り返す。
白瀬が静かに頷いた。
「黒瀬さんのノートは、黒瀬さんにしか書けないですね」
その言葉に、黒瀬はまた固まった。
今日の白瀬は、何度も刺してくる。
いや、刺すというより、そっと置いていく。
その言葉を拾うかどうかを、こちらに任せてくる。
黒瀬は少しだけ黙ってから、ぶっきらぼうに言った。
「……白瀬のノートも、白瀬にしか書けないでしょ」
白瀬が目を丸くする。
「そうでしょうか」
「そう。きれいすぎて、あたしには無理」
「それは、褒めていますか?」
「半分」
「半分でも嬉しいです」
「また普通に」
黒瀬は困ったように笑った。
莉子が二人を見て、満足そうに頷く。
「やっぱ仲良いよね」
「仲良くないし」
「仲良くは……」
白瀬が言いかけて、少し止まる。
黒瀬がそちらを見る。
「白瀬?」
「……名前がついていない関係です」
白瀬が静かに言った。
湊が以前言った言葉を、白瀬が使った。
黒瀬は一瞬黙ってから、少しだけ視線を逸らす。
「……それ、使うんだ」
「はい。便利なので」
「便利にするな」
でも、黒瀬は笑っていた。
自習会が終わる頃には、ノートの余白はかなり埋まっていた。
数学のメモ。
符号の注意。
白瀬の説明。
湊の例え。
莉子の眠気。
自分の文句。
余白のはずなのに、そこが一番黒瀬らしい場所になっていた。
帰り支度をしながら、黒瀬はノートを見て小さくため息をついた。
「余白、増えすぎ」
湊が言う。
「でも見返しやすそう」
「どこが」
「その日のこと、思い出せるだろ」
「……うん」
黒瀬は素直に頷いてしまい、すぐに顔を赤くした。
「今のなし」
「無理」
「知ってた」
莉子が横から言う。
「るいなのノート、いつか出版できそう」
「やめて」
「タイトルは『ギャルの余白』」
「絶対嫌」
白瀬が少し真面目に考える。
「でも、良いタイトルかもしれません」
「白瀬まで!」
黒瀬の声が夕方の教室に響いた。
夜。
黒瀬はノートを持って湊の部屋に来た。
カフェラテを両手で包みながら、テーブルにノートを置く。
「今日、増えすぎた」
「余白?」
「うん」
「見せてくれる?」
「……ちょっとだけ」
黒瀬はページを開いた。
全部は見せない。
でも、いくつかの一行は見せた。
――朝比奈、鍋ではなく丸で囲む。
――符号は裏切らないらしい。
――莉子、限界。
――白瀬、今日ちょっと笑った。莉子のせい。
湊は静かに読んだ。
笑いたくなるのを少しこらえた。
黒瀬が睨む。
「笑うな」
「ごめん。でも、いいノートだと思う」
「またそれ」
「勉強にも、記録にもなってる」
「それ、今日言った」
「もう一回言いたくなった」
「ずるい」
黒瀬はカフェラテを飲んだ。
「白瀬にも言われた」
「黒瀬にしか書けないって?」
「うん」
「そう思う」
「朝比奈まで」
「でも本当に」
「本当なら余計」
黒瀬はクッションに顔を半分埋めた。
けれど、ノートは閉じなかった。
「余白って、空けとくところだと思ってた」
「うん」
「でも、書くところだった」
「うん」
「勉強のためだけじゃなくて、その日のことを残すところ」
「いいな」
「普通に言うな」
黒瀬は小さく笑った。
「でも、ちょっとそう思った」
放課後自習会で、黒瀬のノートの余白は増えすぎた。
けれど、その余白に書かれた言葉は、公式よりも問題文よりも、少しだけ黒瀬自身に近かった。
そしてそのノートは、勉強道具であり、四人の時間を残す記録にもなり始めていた。




