ep.116 借りた本の一ページに、ギャルは自分のノートを見る
黒瀬琉衣奈は、翌朝もその本を鞄に入れていた。
白瀬栞に図書室で選んでもらった、写真と短い文章のエッセイ集。
昨日の夜、朝比奈湊の部屋でカフェラテを飲みながら少しだけ読んだ。
そして、ノートの余白に一行だけ書いた。
――白瀬が選んだ本、悔しいけど少し好き。
今朝になって思い返すと、かなり恥ずかしい。
悔しいけど少し好き、とは何だ。
小学生の読書感想文でももう少し格好つける。
けれど、消す気にはならなかった。
あの一行は、昨日の夜の自分には確かに必要だった。
だから残した。
黒瀬は教室に入る前、鞄の中にある本の角を少しだけ指で確かめた。
持ってきた理由は、返すためではない。
まだ返さない。
読み終わってもいない。
ただ、何となく持っていたかった。
白瀬に「読んだ」と言うには早すぎるし、湊に「続きを読んだ」と言うのも妙に照れる。
けれど、鞄の中にあると少し落ち着く。
それもまた悔しい。
「……おはよ」
教室に入ると、少し離れた席にいる湊と目が合った。
「おはよう」
湊はいつも通りの声で返した。
それだけなのに、昨日の夜のことを思い出す。
本を開いたこと。
湊が黙って待っていたこと。
自分がノートに一行書いたこと。
それを見られて「いい一行だと思う」と言われたこと。
黒瀬は少しだけ目を逸らした。
「何?」
湊が聞く。
「別に」
「本、持ってきた?」
「……何でわかるの」
「顔」
「みんな顔って言いすぎ」
黒瀬はむくれた。
湊は少し笑った。
その顔を見て、さらにむかつく。
むかつくのに、嫌ではない。
最近、そういうことが増えすぎて困る。
席に着くと、白瀬が振り返った。
「黒瀬さん、おはようございます」
「……おはよ」
「本は、どうでしたか?」
早い。
直球すぎる。
黒瀬は鞄を机の横に置きながら、少しだけ固まった。
「まだ全部読んでない」
「はい」
「ちょっとだけ」
「はい」
「……悪くはなかった」
白瀬の表情が、ほんの少しやわらかくなった。
「それならよかったです」
「普通に嬉しそうにするなって」
「嬉しかったので」
「出た」
黒瀬は顔を赤くして、鞄からノートを取り出した。
本は出さない。
出したら、莉子に絶対見つかる。
そう思った瞬間だった。
「るいな、何か隠してる?」
藤堂莉子が横からひょいっと顔を出した。
「隠してない」
「今、鞄の奥に何か押し込んだよね」
「押し込んでない」
「本?」
「……」
「あ、本だ」
「莉子」
黒瀬の声が低くなる。
莉子はにこにこしたまま両手を上げた。
「はいはい、深追いしない。白瀬さんに選んでもらったやつでしょ?」
「知ってるなら聞くな」
「いや、るいながちゃんと持ってきてるのが面白くて」
「面白くない」
「面白いよ。前のるいななら、借りても家に置きっぱなしだったかもじゃん」
「そんなことないし」
「あるある」
莉子は笑う。
黒瀬は否定しようとして、少し止まった。
確かに、前ならそうだったかもしれない。
借りた本を持ち歩くなんて、面倒だと思ったかもしれない。
でも今は、持ってきている。
その事実が少しだけ恥ずかしい。
一限目の授業中、黒瀬はいつも通りノートを取った。
見出しを書く。
余白を残す。
わからないところに印をつける。
白瀬に教わった形が、少しずつ自分のものになってきている。
ただ今日は、授業の途中でふと鞄の中の本を思い出した。
写真と短い文章。
見えにくいものほど、あとでよく思い出す。
昨日読んだページの言葉が、頭の奥で残っていた。
黒瀬はノートの余白に、授業とは関係ない一行を書きかけた。
――見えにくいものほど、
そこまで書いて、慌てて止まる。
授業中だ。
しかもこれは数学のノートだ。
何を書いているんだ。
黒瀬は消そうとして、また止まった。
消したら、何となくもったいない気がした。
結局、その下に小さく書き足した。
――あとで考える。
これならまだ、勉強っぽく見える。
いや、見えない。
でもいい。
二限目の休み時間、白瀬が黒瀬の席へ来た。
「黒瀬さん」
「何」
「本、無理に感想を言わなくても大丈夫です」
「朝にも似たようなこと言ってた」
「はい。でも、念のため」
「念を押すな」
黒瀬は少しだけむくれた。
けれど、白瀬の気遣いはわかる。
感想を言えと迫っているわけではない。
読まなければならないという圧をかけているわけでもない。
ただ、受け取った本が重くならないようにしてくれている。
それが、白瀬らしい。
「……一ページだけ」
「はい」
「昨日、読んだ」
白瀬の目が少しだけ開く。
「どのページですか?」
「曇った窓と夕焼けのやつ」
「ああ」
白瀬はすぐにわかったらしい。
「見えにくいものほど、あとでよく思い出す、のページですね」
「覚えてるの?」
「はい。私も好きなページです」
「……ずる」
「ずるいですか?」
「白瀬が好きなページを、こっちも少し好きかもって思ったのが、何かずるい」
言ってから、黒瀬は自分で顔を赤くした。
何を言っているんだ。
白瀬は少しだけ黙った。
そして、静かに微笑む。
「それは、嬉しいです」
「だから普通に言うなって」
「本当なので」
「出た」
黒瀬は顔を逸らした。
だが、その反応を見ていた莉子が、遠くからにやにやしている。
「るいな、本の話してる」
「莉子、聞くな」
「聞こえたんだもん」
「聞こえすぎ」
「白瀬さんとるいなが本の感想で照れてるの、だいぶ良い」
「実況するな」
黒瀬はノートを閉じた。
けれど、莉子の言うことも少しだけわかる。
自分が白瀬と本の話をしている。
それは少し前なら、たぶん想像していなかったことだ。
昼休み。
黒瀬は思い切って、本を鞄から出した。
別に見せるつもりはなかった。
ただ、少し読みたかっただけだ。
焼きそばパンを食べながら読むのは行儀が悪い気もしたので、袋を畳んでから本を開く。
湊が気づいた。
「読んでる」
「見るな」
「いや、見えるだろ」
「見えるけど見るな」
「難しいな」
「難しいんだし」
湊は笑いながら、それ以上は覗き込まなかった。
それが少しありがたかった。
黒瀬はページをめくる。
写真。
短い文章。
また写真。
また短い文章。
派手な展開があるわけではない。
事件も起きない。
でも、ページをめくるたびに、何か小さなものが残る。
空の色。
濡れた舗道。
誰かの忘れ物みたいな傘。
窓辺のコップ。
文章は短い。
短いから、読み終えたあとに自分の中で少し広がる。
黒瀬はあるページで手を止めた。
写真には、机の端に置かれた二つのカップが写っていた。
片方は空。
片方には、まだ少しだけ飲み物が残っている。
添えられた文章はこうだった。
――同じものを飲んでいても、残る温度は少しずつ違う。
黒瀬は動きを止めた。
カフェラテ。
夜の部屋。
外のカフェ。
湊のスマホに保存された写真。
同じカフェラテでも、外で飲むのと夜の部屋で飲むのは違う。
昨日、自分が言ったことと少し似ていた。
黒瀬はノートを開き、余白に書いた。
――同じカフェラテでも、外と夜は違う。
書いてから、しまったと思った。
これは完全に授業と関係ない。
しかも湊に見られたら絶対に何か言われる。
そう思った瞬間、湊が横から声をかけた。
「何書いたんだ?」
「何も」
「今書いてた」
「授業の復習」
「昼休みに?」
「予習」
「どっちだ」
「うるさい」
黒瀬はノートを閉じた。
湊は少し笑っている。
その顔が、何となく全部わかっているようで腹立たしい。
でも、無理に見ようとはしない。
それもまたずるい。
白瀬はその様子を静かに見ていた。
「黒瀬さん」
「何」
「その本、黒瀬さんのノートに入り始めていますね」
黒瀬は固まった。
「……言い方」
「すみません。でも、そう見えました」
「見えすぎ」
「はい」
「認めるな」
白瀬は少しだけ笑った。
「もしよければ、あとでどのページが気になったか教えてください」
「感想言わなくていいって言ったじゃん」
「はい。言いたくなったら、です」
「逃げ道つけるの上手い」
「黒瀬さんにそう言われると、少し嬉しいです」
「普通に受け取るなって」
黒瀬はむくれた。
でも、昼休みが終わる前に、ノートの余白をもう一度見た。
同じカフェラテでも、外と夜は違う。
変な一行だ。
でも、自分にはわかる。
それでいいのかもしれない。
放課後、黒瀬は湊の席へ来た。
「朝比奈」
「何?」
「今日、行く」
「本の続き?」
「うん」
「カフェラテのページ?」
黒瀬が固まる。
「何でわかるの」
「顔」
「ほんと、顔って言いすぎ」
「あと、昼にカフェラテって小さく言ってた」
「言ってた?」
「うん」
「最悪」
黒瀬は顔を赤くした。
「カフェラテ」
「当然?」
「当然」
その夜、黒瀬は本とノートを持って湊の部屋へ来た。
ソファに座る。
クッションを抱える。
カフェラテを両手で包む。
いつもの流れ。
けれど今日は、テーブルに本が置かれている。
黒瀬は昼に読んだページを開いた。
二つのカップの写真。
湊も覗き込む。
「これか」
「うん」
「同じものを飲んでいても、残る温度は少しずつ違う」
「読むな」
「見えた」
「見えるけど読むな」
「難しいな」
「難しいんだって」
黒瀬はカフェラテを飲んだ。
「これ、ちょっとわかる」
「外と夜?」
「……うん」
素直に認めた。
「外のカフェラテは、莉子と白瀬もいて、ちょっと緊張して、でも楽しかった」
「うん」
「ここのカフェラテは、落ち着く」
「うん」
「同じカフェラテなのに、違う」
「ノートに書いてた?」
黒瀬は固まった。
湊はやっぱりわかっていたのだ。
「……書いた」
「見せて」
「嫌」
「夜でも?」
「……夜なら、ちょっとだけ」
黒瀬はノートを開いた。
余白の一行を指で隠しながら、少しだけ見せる。
湊は読んだ。
――同じカフェラテでも、外と夜は違う。
「いい一行だと思う」
「また言う」
「でも本当に」
「本当なら余計」
黒瀬はクッションで顔を半分隠した。
「白瀬の本、ずるい」
「今日も?」
「今日も。読んでると、勝手にノートに何か書きたくなる」
「いいことじゃないか」
「そうなの?」
「うん」
「……悔しいけど、少し好き」
「昨日の一行だ」
「覚えてるな!」
「印象に残ったから」
「ずるい」
黒瀬は顔を赤くした。
けれど、本を閉じなかった。
むしろ、もう一ページめくる。
そこには、雨のあとに光るアスファルトの写真があった。
黒瀬は少しだけ黙って、それからノートの余白にまた一行書いた。
湊は見ないふりをした。
黒瀬はちらっと湊を見る。
「見ないの?」
「見ていいのか?」
「……まだ」
「じゃあ見ない」
「そういうとこ」
「うん?」
「ずるい」
黒瀬はそう言って、少しだけ笑った。
借りた本の一ページに、黒瀬は自分のノートを見た。
写真に短い言葉を添えるように、ノートの余白にその日の気持ちを書く。
白瀬が選んだ本は、黒瀬の中の何かを静かに動かしていた。
悔しいけど少し好き。
その一行は、たぶん本の感想であり、白瀬栞への返事でもあった。




