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『学校ではツンなギャルが、夜になると俺の部屋でだけ甘えてくる秘密は誰にも言えない』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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ep.115 図書室で、白瀬は黒瀬に本を選ぶ

 放課後の図書室は、教室より少しだけ時間が遅く流れている気がした。


 廊下の向こうからは、運動部の掛け声がかすかに聞こえる。

 吹奏楽部の音も、遠くで少しだけ重なっている。

 誰かが階段を駆け下りる音。

 昇降口のざわめき。

 夕方の学校には、まだたくさんの音が残っている。


 けれど図書室の中だけは、別の場所みたいに静かだった。


 白瀬栞は、返却された本を一冊ずつ確認していた。


 バーコードを読み、返却リストに印をつけ、棚へ戻す本を分類する。

 難しい作業ではない。

 けれど、丁寧にやらないとすぐに乱れる。


 その乱れを整える作業が、栞は嫌いではなかった。


 図書室の空気は落ち着く。


 紙の匂い。

 古い背表紙。

 窓から入る夕方の光。

 静かにページをめくる誰かの指先。


 いつもなら、それだけで気持ちが少し整う。


 けれど今日は、少しだけ違った。


 頭の中に、黒瀬琉衣奈の言葉が残っていた。


 ――大事じゃない、とは言えない。


 昼休み、藤堂莉子が「二人、もう普通に仲良くない?」と言った。


 黒瀬さんは即座に否定した。

 自分も、すぐに肯定はできなかった。


 けれど、完全には否定できなかった。


 友達と言うには、まだ少し照れくさい。

 ライバルと言うには、少し優しくなりすぎている。

 ただのクラスメイトでは、もうない。


 朝比奈くんが言った。


 ――まだ名前がついてない感じなんじゃないか。


 その言葉が、ずっと残っている。


 名前がついていない関係。


 それは不安定で、でも少しだけ大切なもののように思えた。


 栞は返却本の中から、一冊の本を手に取った。


 写真と短い文章で構成されたエッセイ集だった。


 表紙には、雨上がりの道に落ちた小さな葉の写真。

 中を開くと、ページごとに一枚の写真と、ほんの数行の文章がある。


 以前から図書室にある本だ。


 栞も読んだことがある。


 その時は、静かで綺麗な本だと思っただけだった。


 けれど今見ると、少し違って見える。


 写真に撮ったもの。

 写真には撮らなかったけれど、言葉で残したもの。

 その日の小さな気持ち。


 黒瀬さんのノートに似ている。


 そう思った。


 思った瞬間、栞はその本を棚へ戻す手を止めた。


 黒瀬さんなら、どう読むだろう。


 難しい本は、きっと警戒する。

 長い文章も、たぶん最初は面倒くさそうにする。


 でも、この本なら。


 写真が多くて、文章は短い。

 けれど、短いからこそ、余白がある。


 黒瀬さんのノートの余白に、少し似ている。


 その時、図書室の扉が静かに開いた。


 栞が顔を上げると、そこに黒瀬が立っていた。


「……白瀬」


「黒瀬さん」


 少し驚いた。


 図書室に黒瀬が来るのは、まだ珍しい。


 以前、本を貸したことはある。

 感想を言ってくれたこともある。

 けれど、自分からふらっと来る場所として図書室を選ぶようには、まだ見えなかった。


 黒瀬は扉の近くで、少しだけ居心地悪そうに立っている。


「何してんの」


「返却作業です」


「そっか」


「黒瀬さんは?」


「別に」


 即答だった。


 栞は少しだけ微笑む。


「別に、ですか」


「何」


「いえ」


「笑うな」


「すみません」


「謝るの早い」


 いつものやり取り。


 図書室の静けさの中で聞くと、少しだけ新鮮だった。


 黒瀬は少し歩いて、カウンターの近くまで来た。


 棚に並ぶ本を見て、少し眉を寄せる。


「ここ、静かすぎ」


「図書室なので」


「それはそうだけど」


「落ち着きませんか?」


「ちょっと」


 黒瀬は正直に言った。


 それから、栞の髪を見る。


 視線が一瞬、ヘアピンに止まった。


 栞は気づいた。


 けれど、今日は自分から報告しなかった。


 毎日言うと怒られるから。


 しかし黒瀬は、見たあとに少しだけ口元を動かした。


「……今日もつけてる」


「はい」


「いや、聞いてないけど」


「答えてしまいました」


「そういうとこ」


 黒瀬は顔を少し赤くして、視線を逸らした。


 栞は本を持ったまま、しばらく黒瀬を見た。


 そして、思い切って言う。


「黒瀬さんに、今なら読めそうな本があります」


 黒瀬の眉がすぐに動いた。


「また本?」


「はい」


「難しいやつ?」


「難しくありません」


「ほんと?」


「はい。写真が多いエッセイです」


「写真?」


 黒瀬の警戒が少しだけ緩んだ。


 栞は手に持っていた本を差し出した。


 黒瀬はすぐには受け取らなかった。


 まず表紙を見る。


 雨上がりの道。

 小さな葉。

 静かな色。


「……地味」


「はい」


「褒めてないけど」


「でも、黒瀬さんはそう言うと思いました」


「何それ」


 黒瀬は少しだけむくれながら、本を受け取った。


 ページを開く。


 一枚の写真。

 短い文章。


 黒瀬の目が、少しだけ止まった。


「文章、短い」


「はい」


「これなら読めそうって思った?」


「それもあります」


「それも?」


 黒瀬が顔を上げる。


 栞は少しだけ迷った。


 けれど、言うことにした。


「黒瀬さんのノートに、少し似ていると思って」


 黒瀬の手が止まった。


「……は?」


「写真と言葉で、小さな出来事を残している本なので」


「いや、あたしのノートは授業用だし」


「はい」


「鍋とか書いてあるし」


「はい」


「莉子うるさいとかも書いてあるし」


「それはまだ見ていません」


「あ」


 黒瀬がしまったという顔をした。


 栞は少しだけ笑った。


「書いているんですね」


「今のなし」


「無理です」


「白瀬まで言うようになった」


「黒瀬さんたちの影響です」


「責任取りたくない」


 黒瀬は顔を赤くして本へ視線を戻した。


 けれど、ページは閉じない。


 むしろ、少し興味があるように見える。


 栞は続けた。


「黒瀬さんは、写真に撮らなかったものも言葉で残せる人です」


「それ」


「はい」


「また言う?」


「はい。私は、そう思っています」


「普通に言うなって」


「すみません」


「謝るの早い」


 黒瀬は少しだけ困ったように本を閉じた。


 けれど、返してこない。


 栞はそれが少し嬉しかった。


「借りますか?」


「……借りろってこと?」


「無理にとは言いません」


「白瀬のそれ、逃げにくいやつ」


「そうでしょうか」


「そう」


 黒瀬は表紙をもう一度見た。


 指先で、雨上がりの写真の端を軽くなぞる。


「これ、返すのいつまで?」


「二週間です」


「長い」


「読み終わらなければ延長できます」


「白瀬が言うと、借りない理由なくなる」


「借りてもらえるなら嬉しいです」


「また普通に」


 黒瀬は小さく息を吐いた。


「……借りる」


 栞は少しだけ目を開いた。


「本当ですか?」


「嘘で借りないでしょ」


「ありがとうございます」


「何で白瀬が礼言うの」


「受け取ってもらえたので」


「そういうの」


 黒瀬は顔を赤くしたが、本をカウンターに置いた。


 栞は貸出処理をする。


 バーコードを読み、貸出カードを確認し、返却期限の紙を挟む。


 その動作をしている間、黒瀬は少し落ち着かない様子でカウンターの前に立っていた。


「黒瀬さん」


「何」


「読む時、全部をきちんと読もうとしなくて大丈夫です」


「え?」


「好きなページだけでもいいと思います」


「本ってそういう読み方していいの?」


「本によりますが、この本はそういう読み方でも大丈夫です」


「白瀬、意外とゆるいよね」


「そうでしょうか」


「うん。ちゃんとしてるくせに、変なところで逃げ道くれる」


 栞は少しだけ胸が温かくなった。


 以前、黒瀬は似たようなことを言ってくれた。


 逃げ道があるのに、逃げではない感じ。


 あの言葉も、まだ覚えている。


「黒瀬さんにそう言ってもらえるのは、嬉しいです」


「だから、普通に受け取るなって」


「嬉しかったので」


「それも聞いた」


 黒瀬は困ったように本を鞄へしまった。


 その時、図書室の扉がまた開いた。


 湊だった。


「あれ、黒瀬」


 湊は少し驚いた顔をした。


「図書室にいたのか」


「悪い?」


「悪くない。珍しいと思って」


「珍しいって言うな」


 黒瀬はすぐにむくれた。


 栞は少し笑う。


「黒瀬さんが、本を借りてくれました」


「白瀬!」


「言ってはいけませんでしたか?」


「いや、別にいいけど」


 黒瀬は顔を赤くして視線を逸らす。


 湊は少し嬉しそうに言った。


「いいじゃん。どんな本?」


「これ」


 黒瀬は鞄から本を少しだけ出して見せた。


 湊は表紙を見る。


「写真の本?」


「うん」


「黒瀬に合いそうだな」


 黒瀬が固まる。


「……何で」


「ノートの余白とか、最近の黒瀬っぽい」


「朝比奈まで」


「白瀬さんが選んだの?」


 湊が聞くと、栞は頷いた。


「はい。黒瀬さんに、今なら読めそうだと思って」


「いい本そうだな」


「まだ読んでないし」


 黒瀬はむくれた。


「でも、白瀬が押し付けてきたから借りた」


「押し付けてはいません」


 栞が静かに言う。


「黒瀬さんが受け取ってくれました」


「そういう返し、強い」


「本当なので」


「出た」


 黒瀬は困ったように言いながらも、本を鞄へ大事そうにしまった。


 湊はその様子を見て、少しだけ笑った。


 黒瀬が睨む。


「朝比奈、笑うな」


「ごめん」


「悪いと思ってない」


「半分くらいは」


「禁止」


 図書室でいつものやり取りをすると、少し声が響く。


 黒瀬はそれに気づいて、少しだけ声を落とした。


「……ここ、声響く」


「図書室だからな」


「それは知ってる」


 栞は小さく笑った。


 その後、湊は探していた参考書を借り、三人で図書室を出た。


 廊下に出ると、運動部の声が少しはっきり聞こえた。


 黒瀬は鞄の中の本を気にするように、肩掛けの位置を直した。


 湊がそれに気づく。


「今日、夜持ってくる?」


「何を」


「本」


 黒瀬は少しだけ固まった。


「……読むとは言ってない」


「借りたんだろ」


「借りたけど」


「カフェラテ飲みながらなら読めるかもな」


「勝手に予定に入れるな」


「嫌?」


「嫌じゃない」


 即答だった。


 言ってから、黒瀬は少し顔を赤くした。


「……便利ワード」


「便利だな」


「使うな」


 栞はそのやり取りを見ながら、少しだけ目を細めた。


 黒瀬が湊の部屋に行くこと。


 カフェラテを飲むこと。


 それはもう、三人の間で完全に隠しきれていない。


 栞は踏み込まない。

 けれど、知っている。


 その距離が少しだけ胸に触れる。


 でも、痛いだけではない。


 黒瀬が本を持って夜に向かう姿を想像すると、少し嬉しかった。


 自分が選んだ本が、黒瀬の夜の時間に入る。


 それは、少し不思議で、少し温かい。


 放課後の昇降口で、栞は黒瀬へ言った。


「黒瀬さん」


「何?」


「その本、無理に感想を言わなくても大丈夫です」


「え?」


「でも、もし何か残したくなったら、ノートの余白に書いてみてください」


 黒瀬は一瞬だけ黙った。


 それから、少しだけ視線を逸らす。


「……白瀬、そういうの上手くなったよね」


「何がでしょう」


「逃げ道つけて、でもちゃんと渡してくるやつ」


「黒瀬さんが受け取ってくれるので」


「普通に言うなって」


「すみません」


「謝るの早い」


 黒瀬はそう言って、少しだけ笑った。


 その夜、黒瀬は本を持って湊の部屋に来た。


 いつもの時間。


 いつものインターホン。


 いつもの「遅」。


 そして、今日は鞄から一冊の本を出した。


「持ってきたんだ」


 湊が言うと、黒瀬はむくれる。


「読むとは言ってない」


「でも持ってきた」


「確認」


「本の確認?」


「白瀬の選び方がずるい件」


「それ、確認なのか」


「文句」


「そっちか」


 黒瀬はソファに座り、クッションを抱えたあと、少し迷って本をテーブルに置いた。


 湊がカフェラテを出す。


 黒瀬はカップを両手で包み、本の表紙を見る。


「写真と短い文」


「うん」


「白瀬、あたしのノートに似てるって言った」


「似てると思う」


「朝比奈まで言う」


「でも、そう思う」


「……ずるい」


 黒瀬は本を開いた。


 ぱらぱらとページをめくる。


 雨上がりの道。

 誰もいないベンチ。

 夕方の窓。

 空になったコップ。


 それぞれに、短い文章が添えられている。


 黒瀬はあるページで手を止めた。


 写真には、少し曇った窓ガラスと、その向こうの夕焼けが写っていた。


 文章は短かった。


 ――見えにくいものほど、あとでよく思い出す。


 黒瀬はそれを読んで、黙った。


 湊は何も言わなかった。


 黒瀬が自分で言葉を探すのを待つ。


 しばらくして、黒瀬は小さく言った。


「白瀬、これ選ぶのずるい」


「どのへんが?」


「わかんないけど、何か」


 黒瀬はカフェラテを飲んだ。


「撮らなかった写真の代わりに、言葉で残すみたいな」


「うん」


「あたし、知らないうちにこういうの書いてたのかも」


「そうかもな」


「普通に言うな」


「でも本当だし」


「本当なら余計」


 黒瀬は本を閉じなかった。


 むしろ、そのページを開いたままノートを取り出す。


 湊は少し驚いた。


「書くのか?」


「……ちょっとだけ」


 黒瀬はノートの余白に一行書いた。


 ――白瀬が選んだ本、悔しいけど少し好き。


 書いてから、すぐに顔を赤くする。


「見るな」


「見えた」


「最悪」


「いい一行だと思う」


「言うな」


 黒瀬はノートを閉じた。


 でも、その一行を消そうとはしなかった。


 図書室で白瀬が選んだ本は、その日の夜、黒瀬のノートの余白にちゃんと一行を残した。


 写真と言葉。


 撮ったものと、撮らなかったもの。


 それをつなぐ小さな本は、たぶん白瀬栞から黒瀬琉衣奈への、静かな手紙のようなものだった。

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