ep.113 メガネっ娘の一行を見たギャルは、言葉に負ける
白瀬栞は、朝から自分のノートが少し重くなった気がしていた。
もちろん、物理的に重くなったわけではない。
昨日の昼休みに書いた一行。
――黒瀬さんは、撮らなかったものも残せる人。
たったそれだけの言葉が、ノートの余白に残っている。
それだけなのに、鞄の中に入れている間も、机に置いている間も、妙に存在感があった。
見せるべきか。
まだ隠しておくべきか。
昨日は見せられなかった。
黒瀬琉衣奈は気づいていた。
栞が何かを書いたことも、何かを言いかけて止めたことも。
でも、黒瀬は急かさなかった。
――言える時でいいんじゃない。
その一言が、かえって栞を迷わせた。
待ってくれている。
だからこそ、いつまでも待たせたくない。
朝の教室は、いつも通りの音に満ちていた。
椅子を引く音。
鞄を机に置く音。
教室の後ろで男子たちが昨日の動画の話をしている声。
藤堂莉子が誰かに「それ絶対違うって」と笑っている声。
白瀬は自分の席でノートを開いた。
昨日の一行があるページではない。
別のページ。
それでも、手が落ち着かない。
シャーペンを持って、日付を書こうとして、少し止まる。
その時、教室の扉が開いた。
黒瀬が入ってきた。
今日も少し眠そうな顔をしている。
けれど、教室に入るとまず朝比奈湊の席を見る。
まだ来ていない。
次に、栞の方を見る。
目が合った。
「……おはよ」
「おはようございます、黒瀬さん」
いつもの挨拶。
でも、栞の声は少しだけ硬くなってしまった。
黒瀬はそれに気づいたらしい。
自分の席に鞄を置きながら、少しだけ眉を寄せる。
「白瀬」
「はい」
「今日も何か変」
直球だった。
栞は少しだけ目を伏せる。
「そう見えますか」
「見える」
「……見えるだけ、ですか?」
黒瀬は一瞬だけ言葉に詰まった。
それから、少し顔を赤くして視線を逸らす。
「それ、あたしのやつ」
「すみません」
「謝るの早い」
いつものやり取り。
けれど今日は、そのいつものやり取りすら少しだけ逃げ道のように感じた。
黒瀬は席へ座り、机の上にノートを出した。
以前なら朝にノートを出すだけで珍しかった。
今はそれが少し日常になっている。
黒瀬のノート。
余白にその日のことを残すノート。
栞の一行も、そこから始まった。
莉子が横からやってくる。
「るいな、おはよ。白瀬さん、おはよー」
「……おはよ」
「おはようございます」
莉子は二人の顔を見比べた。
そして、にやっと笑う。
「何かあった?」
「何もない」
黒瀬が即答した。
莉子は目を細める。
「その早さは何かある時のやつ」
「莉子、朝からうざい」
「はいはい。白瀬さんは?」
「え?」
「何かあった?」
栞は返事に迷った。
黒瀬がこちらを見る。
その視線が、少しだけ心配そうだった。
栞は小さく首を横に振る。
「まだ、ありません」
「まだ?」
莉子の目が輝く。
黒瀬がすぐに言った。
「莉子、そこ拾わない」
「えー、拾うでしょ」
「拾わない」
「るいなが止めるってことは、やっぱ何かあるじゃん」
「ない」
「ある顔」
「顔顔うるさい」
莉子は笑いながら引いた。
けれど完全には引いていない。
少し離れた席で、まだこちらを見ている。
朝比奈湊が教室に入ってきたのは、その直後だった。
「おはよう」
「おはようございます」
「……おはよ」
黒瀬の声は自然だった。
だが、そのあとすぐ湊へ視線を向ける。
何か確認するように。
湊も黒瀬を見る。
昨日の夜、二人は栞のノートのことを話したのだろう。
それが何となくわかった。
栞は少しだけ胸の奥が温かくなる。
自分の書いた一行を、まだ見せていないのに、二人は待ってくれている。
それが嬉しい。
そして、少し怖い。
一限目の授業は、いつもより長く感じた。
ノートは取った。
授業内容も理解している。
けれど、ページの下の余白が気になる。
昨日書いた一行のページではないのに、どうしてもその言葉が頭に戻ってくる。
――黒瀬さんは、撮らなかったものも残せる人。
この一行を黒瀬が読んだら、どんな顔をするだろう。
怒るだろうか。
照れるだろうか。
「白瀬、こういうの強すぎ」と言うだろうか。
たぶん言う。
想像しただけで、栞の頬が少し熱くなった。
二限目の休み時間。
黒瀬が湊の席へ行っていた。
何か短く話している。
内容は聞こえない。
けれど、黒瀬が少しだけ栞の方を見た。
湊もこちらを見る。
栞は反射的にノートを閉じた。
黒瀬はそれを見て、すぐに何かを察した顔をした。
そして、戻ってきた。
「白瀬」
「はい」
「今の」
「今の?」
「ノート閉じた」
「……はい」
「見せたくないやつ?」
栞はすぐには答えられなかった。
見せたくないわけではない。
むしろ、見せたい。
けれど、見せるのが怖い。
「見せたいものです」
栞は小さく言った。
黒瀬が目を少し丸くする。
「見せたいのに閉じたの?」
「はい」
「何それ」
「私にもよくわかりません」
「白瀬でもそういうのあるんだ」
「あります」
栞は少しだけ笑った。
黒瀬は困ったような顔をした。
「……無理にとは言わないけど」
「はい」
「見せるなら、今じゃなくてもいいし」
「はい」
「でも」
黒瀬は少しだけ視線を逸らした。
「見せたいなら、見る」
その言い方が黒瀬らしかった。
優しいのに、優しいと言われたくないような言い方。
栞はノートの表紙に手を置く。
「昼休みでも、いいですか」
黒瀬は一瞬だけ固まった。
そして、少しだけ頷いた。
「……いい」
昼休みまでの時間が、やけに長かった。
栞は弁当を食べながらも、何度かノートへ視線を落とした。
莉子はそれを見ていたが、珍しく強くは突っ込んでこなかった。
たぶん、何かを察している。
それでも莉子は莉子なので、小声で黒瀬に言った。
「るいな、今日静かだね」
「うるさい」
「静かにうるさいって言った」
「どういう意味」
「緊張してる?」
「してない」
「白瀬さんも緊張してるよ」
「……わかってる」
黒瀬の声が少し小さくなった。
栞には聞こえていた。
わかってる。
その言葉だけで、少し勇気が出た。
昼休みが半分ほど過ぎた頃、莉子が立ち上がった。
「ちょっと購買行ってくる。甘いの欲しい」
黒瀬がすぐに顔を上げる。
「莉子」
「何?」
「わざと?」
「半分」
「半分って言えば許されると思うな」
「許して」
莉子は笑って、ひらひら手を振った。
「五分くらい戻らないから」
「そういう気遣いが一番困るって言ってるでしょ」
「でも助かるでしょ?」
「……うるさい」
莉子は満足そうに教室を出ていった。
逃げ場が消えた。
いや、逃げ場を作られたのかもしれない。
栞はノートを膝の上に置いた。
黒瀬は少しだけ体をこちらへ向ける。
湊は自分の席にいる。
こちらを見ているが、余計なことは言わない。
栞はノートを開いた。
昨日のページ。
余白の一行。
字はいつも通り整っている。
けれど、自分の中では、いつものノートとは違って見えた。
「黒瀬さん」
「うん」
「一行だけです」
「……うん」
「昨日、黒瀬さんが見せてくれたので、私も」
栞はノートを差し出した。
黒瀬は、少し慎重にそれを受け取る。
まるで、薄い紙ではなく割れやすいものを受け取るみたいに。
黒瀬の視線が、その一行に落ちた。
――黒瀬さんは、撮らなかったものも残せる人。
黒瀬は動かなかった。
完全に固まった。
指先がノートの端を押さえたまま、数秒、何も言わない。
栞の胸が少し不安になる。
変だっただろうか。
大げさだっただろうか。
黒瀬には重すぎただろうか。
「……白瀬」
「はい」
「こういうの」
黒瀬の耳が赤くなっていく。
「強すぎ」
予想通りの言葉だった。
けれど、その声は少し震えていた。
栞は思わず、ほっとしたように息を吐いた。
「すみません」
「謝るの早い」
「そうですね」
「そこ認めるのも早い」
黒瀬はノートを見たまま、少しだけ眉を寄せる。
「撮らなかったものも残せる人って、何」
「そう思ったので」
「本当なので、じゃないんだ」
「今日は、少し変えました」
「変えても強い」
黒瀬はそう言いながら、ノートから目を離さない。
栞は静かに待った。
黒瀬が、言葉を探しているのがわかったからだ。
「……あたし、そんなちゃんとした人じゃないし」
「はい」
「はいって」
「黒瀬さんは、たぶん自分ではそう思わないだろうなと思いました」
「じゃあ何で書いたの」
「私には、そう見えたので」
黒瀬は口を閉じた。
また赤くなる。
栞は続けた。
「写真に撮らなかったのに、黒瀬さんは私が笑ったことを覚えていてくれました。それを、言葉に残してくれました」
「……うん」
「それが、とても嬉しかったんです」
黒瀬はノートを閉じそうになった。
けれど閉じなかった。
最後までその一行を見ている。
「白瀬」
「はい」
「これ、消さないの?」
「消しません」
「ほんとに?」
「はい」
「……あたしのこと書いてるのに」
「はい」
「恥ずかしくないの」
「恥ずかしいです」
栞が正直に言うと、黒瀬は少し驚いた顔をした。
「でも、消したくありません」
その言葉で、黒瀬の表情がまた変わった。
困ったような、嬉しいような、負けたような顔。
「……言葉に負けた」
「負けた?」
「白瀬の言葉、強い」
「勝ち負けではないと思います」
「ある」
「あるんですね」
「ある」
黒瀬はノートを返した。
その手つきは、やっぱり少し丁寧だった。
「ありがと」
かなり小さな声だった。
栞は一瞬だけ言葉に詰まる。
黒瀬が自分から礼を言った。
それが嬉しくて、また胸の奥が熱くなる。
「はい」
栞はそれだけ返した。
「どういたしまして」と言うと、黒瀬が逃げそうな気がしたから。
けれど、黒瀬はその短い返事にも少しだけ照れたようだった。
ちょうどその時、莉子が購買から戻ってきた。
「終わった?」
黒瀬が振り返る。
「莉子、タイミング測ってたでしょ」
「半分」
「やっぱり」
「で、白瀬さん、見せた?」
栞は頷く。
「はい」
「るいな、負けた顔してる」
「負けてない」
「白瀬さんの言葉にやられた?」
「莉子、黙って」
「はいはい。じゃあ当たりだ」
莉子は楽しそうに甘いパンの袋を開けた。
湊も少しだけこちらへ近づいてきた。
「見せたんだ」
「はい」
栞が答える。
黒瀬がすぐ湊を見る。
「朝比奈、何か言うな」
「まだ何も言ってない」
「顔が言う」
「顔か」
「顔」
湊は少し笑った。
「でも、よかったな」
「言った!」
「言うなって言われる前に」
「言われてたでしょ!」
黒瀬の声が少し大きくなり、周りの生徒がちらっと見る。
黒瀬は慌てて声を落とした。
「……ほんと最悪」
でも、口元は少しだけ緩んでいた。
放課後。
黒瀬は湊の席へ来た。
「朝比奈」
「何?」
「今日、行く」
「白瀬さんの一行の話?」
「うん」
「かなり効いてたな」
「効いてない」
「そうか?」
「……効いた」
素直に認めた。
湊は少し驚く。
黒瀬は顔を赤くした。
「言うな」
「何も言ってない」
「顔」
「顔か」
「カフェラテ」
「当然?」
「当然」
夜。
黒瀬はいつものように部屋へ来た。
ソファに座り、クッションを抱え、カフェラテを両手で包む。
けれど今日は、ずっと少し落ち着かない顔をしていた。
「白瀬の一行」
「うん」
「まだ頭に残ってる」
「どんな?」
「撮らなかったものも残せる人」
「いい言葉だと思う」
「朝比奈まで言うな」
「でも本当に」
「本当なら余計だめ」
黒瀬はクッションに顔を半分隠した。
「白瀬ってさ」
「うん」
「ちゃんと見てるよね」
「うん」
「あたしが何を書いたかだけじゃなくて、何で書いたかまで見てくる」
「強いな」
「強い」
黒瀬はカフェラテを一口飲んだ。
「でも、嫌じゃない」
「知ってる」
「知ってるって言うな」
「最近、本当に嫌じゃなさそうだから」
「……うん」
黒瀬は素直に頷いた。
「白瀬にああいうふうに書かれるの、恥ずかしいけど」
「うん」
「ちょっと嬉しい」
「そっか」
「白瀬のノートに、あたしがいるの変」
「黒瀬のノートにも白瀬さんがいるだろ」
「それ言うな」
「同じだな」
「同じじゃない」
「違う?」
「……ちょっと同じ」
黒瀬は困ったように笑った。
「でも、白瀬の字で書かれると、何か強い」
「きれいだから?」
「それもある。あと、白瀬がちゃんと考えて書いた感じがするから」
「うん」
「負けた」
「負けたのか」
「負けた」
黒瀬はクッションに顎を乗せる。
「でも、悪くない負け」
湊は少しだけ笑った。
黒瀬がすぐに睨む。
「笑うな」
「ごめん。いい言い方だなって」
「言い方を褒めるな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「禁止」
いつものやり取りに戻って、黒瀬は少しだけ安心したようにカフェラテを飲んだ。
メガネっ娘の一行を見たギャルは、言葉に負けた。
けれど、それは悔しいだけの負けではなかった。
撮らなかったものも残せる人。
その一行は、黒瀬琉衣奈の中に、しばらく消えずに残り続けた。




