ep.112 白瀬は、ノートの余白に返事を書きたい
白瀬栞は、その朝、いつもより少しだけノートを開くのが遅かった。
いつもなら、席に着くとすぐに日付を書き、授業の準備を始める。
シャーペンを置く位置。
消しゴムの向き。
教科書とノートの重ね方。
そういう細かなものが整っていると、気持ちも少し整う。
けれど今日は、ノートを開いたまま、最初の一文字が書けなかった。
理由はわかっている。
黒瀬琉衣奈のノートだ。
昨日、黒瀬が見せてくれた三行。
――白瀬、撮ってくださいと言った。
――今日は撮らない。
――笑った。
たった三行だった。
けれど、その三行は、栞の中に思った以上に残っていた。
写真ではない。
誰かに見せるために整えられた言葉でもない。
黒瀬が、自分のノートの余白に、自分の字で残した言葉。
そこに、自分の笑顔があった。
撮られなかった笑顔。
けれど、残っていた笑顔。
それが、栞にはどうしようもなく嬉しかった。
嬉しい、という気持ちをこんなに持て余すことがあるのだと、少し驚いている。
「白瀬さん、おはよー」
藤堂莉子の声がして、栞は顔を上げた。
「おはようございます、藤堂さん」
「今日、早いね」
「少しだけ」
「ノート?」
「はい」
栞はそう答えたが、まだ何も書けていないノートを見て、少しだけ困った。
莉子はそこにすぐ気づく。
「白瀬さんがノート前に止まってるの、珍しいね」
「そうでしょうか」
「うん。白瀬さんって、ノート開いたらすぐ書いてるイメージ」
「今日は、少し考えていました」
「何を?」
莉子が当然のように聞く。
栞は答えに迷った。
黒瀬のノートのこと。
自分の笑顔を言葉で残してもらったこと。
それに返事をしたいこと。
けれど、それをそのまま口に出すのは、朝の教室では少し難しい。
「……言葉を」
「言葉?」
「はい」
莉子は一瞬だけ目をぱちぱちさせたあと、にやっと笑った。
「なるほど。るいなのノート関係?」
栞は返事をしなかった。
その沈黙が、ほとんど答えになってしまう。
莉子は楽しそうに笑った。
「白瀬さんも顔に出るようになってきたね」
「そうですか?」
「うん。ちょっとだけ」
その「ちょっとだけ」という言い方に、栞は黒瀬を思い出した。
黒瀬も昨日、そう言ってくれた。
――白瀬も、ちょっとだけ出る。
嬉しそうだった、と。
栞は指先でヘアピンに触れた。
黒瀬が選んでくれたもの。
今朝も、つけてきた。
もう何日目か、きちんと数えている自分がいる。
「黒瀬さんは、まだ来ていませんか?」
「まだ。るいな、今日はちょっと遅めかも」
「そうですか」
「会いたい?」
「えっ」
思わず、変な声が出た。
莉子が笑う。
「あ、ごめん。今のはちょっと雑だった」
「藤堂さん」
「でも、白瀬さんって最近、るいなのことちゃんと見るよね」
「それは……」
「いいと思うよ」
莉子は意外とあっさり言った。
「るいなも、白瀬さんのこと見てるし」
栞はノートへ視線を落とした。
自分も、見ている。
黒瀬も、見てくれている。
見ているだけではなく、残してくれた。
だから、自分も何か返したい。
けれど、何をどう返せばいいのかわからない。
黒瀬のように自然には書けない。
栞のノートは、きれいだと言われる。
整理されているとも言われる。
けれど、そこに自分の感情を入れるとなると、急に手が止まる。
そんなふうに迷っていると、教室の扉が開いた。
黒瀬が入ってきた。
少し眠そうな顔をしている。
けれど、教室に入るとすぐに湊の席を見る。
まだ湊は来ていない。
それを確認してから、黒瀬は栞を見た。
目が合う。
「……おはよ」
「おはようございます、黒瀬さん」
いつもの挨拶。
でも、今日は栞の方が少し緊張した。
昨日のノートの三行があるからだ。
黒瀬は席へ向かいかけて、ふと栞の髪を見る。
「今日も」
「はい。今日もつけてきました」
「だから、毎日報告しなくていいって」
「すみません」
「謝るの早い」
黒瀬はそう言いながら、少しだけ目を逸らした。
けれど、すぐにまたヘアピンを見る。
その一瞬が、栞にはちゃんと見えた。
黒瀬さんは、見てくれている。
そう思うと、また胸の奥が温かくなる。
「あの、黒瀬さん」
「何?」
栞は言いかけて、言葉が止まった。
ノートのことを言いたかった。
昨日の三行が嬉しかったことを、ちゃんと伝えたかった。
それだけではなく、自分も何かを書きたいことを言いたかった。
けれど、言おうとすると、思った以上に恥ずかしい。
「……いえ」
「何それ」
「すみません」
「だから謝るの早い」
黒瀬は眉を寄せた。
少し不思議そうに栞を見る。
「何か言いたかった?」
「はい」
「何」
「まだ、うまく言えません」
黒瀬は少しだけ黙った。
それから、ふいっと視線を逸らす。
「……じゃあ、言える時でいいんじゃない」
栞は目を瞬かせた。
黒瀬が、待つようなことを言った。
以前より、ずっと自然に。
「ありがとうございます」
「普通に礼言うなって」
「でも、嬉しかったので」
「それも普通に言うなって」
黒瀬は困ったように言いながら、自分の席へ向かった。
栞はその背中を見送る。
言える時でいい。
その言葉が、思ったより深く届いた。
朝比奈湊が教室に入ってきたのは、その少し後だった。
「おはよう」
「おはようございます」
「……おはよ」
黒瀬も返す。
莉子がそれを見て、なぜか満足そうに頷いた。
「今日も通常運転だね」
「朝から何」
黒瀬が言う。
「いや、るいなが朝比奈くんにおはよって言うの、もう完全に日常になったなって」
「言うな」
「前はさ、目だけで言ってたじゃん」
「そんな時代ない」
「あるある」
莉子が笑う。
湊も少しだけ笑う。
黒瀬が睨む。
「朝比奈も笑うな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「禁止」
いつものやり取り。
栞はそれを見ながら、ノートの端に手を置いた。
いつものやり取りなのに、少しずつ変わっている。
黒瀬が待てるようになっている。
湊が黒瀬の反応を自然に受け止めるようになっている。
莉子がそれを茶化しながら支えている。
自分は、どうだろう。
自分も何か変われているのだろうか。
一限目が始まっても、栞の頭の中にはそのことが残っていた。
授業内容はノートに取った。
見出しも、重要箇所も、いつも通り整理できている。
けれど、ページの下の余白だけが空いている。
そこに、何かを書きたい。
黒瀬のように。
けれど、黒瀬の真似ではなく、自分の言葉で。
昼休み。
栞は弁当を開いたが、箸を持つ前にノートを見てしまった。
空いている余白。
そこが、妙に気になる。
向かいでは莉子が購買のパンを食べている。
少し離れた席で、黒瀬が焼きそばパンを食べている。
湊は自分の席でパンを開けている。
この教室の何でもない昼休みを、栞は今なら少し残してみたいと思った。
黒瀬が昨日見せてくれたように。
撮らなかったものを、言葉で。
栞はシャーペンを取った。
少しだけ迷って、ノートの余白に一行書く。
字はいつも通り整っていた。
けれど、書いた内容はいつもとは違った。
――黒瀬さんは、撮らなかったものも残せる人。
書いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
自分で書いた言葉なのに、誰かに見られているような気がする。
栞は慌ててノートを閉じた。
閉じてから、何をしているのだろうと思った。
でも、消そうとは思わなかった。
そこにあるべき言葉のように感じた。
「白瀬さん」
声をかけられて、肩が少し跳ねた。
湊だった。
「大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
「今、すごい勢いでノート閉じたけど」
「……見えていましたか」
「見えた」
その言い方が黒瀬に少し似ていて、栞は小さく笑いそうになった。
「少し、書いていました」
「授業の?」
「いいえ」
「黒瀬のこと?」
栞は答えに詰まった。
湊はすぐに少し焦った顔をした。
「ごめん。聞きすぎた」
「いえ」
栞は首を横に振る。
「黒瀬さんのことです」
言ってしまった。
湊は驚いたように目を丸くしたあと、少しだけ表情をやわらげた。
「そっか」
「はい」
「見せるの?」
「まだ、わかりません」
「黒瀬、たぶん気にすると思う」
「そうでしょうか」
「うん。すごく」
湊がそう言うと、栞は少しだけノートを抱える手に力を入れた。
黒瀬が気にしてくれる。
それは嬉しい。
けれど、見せるのは怖い。
黒瀬が自分にノートを見せてくれた時も、きっとこういう気持ちだったのかもしれない。
「朝比奈くん」
「ん?」
「黒瀬さんは、どうして見せてくれたのでしょう」
湊は少し考えた。
「たぶん、白瀬さんに届いてほしかったからじゃないかな」
「届いて」
「うん。写真は撮らなかったけど、ちゃんと覚えてるって」
栞はその言葉を静かに受け取った。
黒瀬の三行。
それは確かに届いた。
届きすぎて、自分も返したくなった。
「私も、届いてほしいのかもしれません」
栞が言うと、湊は頷いた。
「じゃあ、見せてもいいんじゃないか」
「でも、少し恥ずかしいです」
「黒瀬もたぶん、かなり恥ずかしかったと思う」
「そうですね」
栞は少し笑った。
黒瀬が顔を赤くしながらノートを差し出した時のことを思い出す。
強いようで、いつも逃げ道を探している。
でも、最後にはちゃんと出してくれる。
その勇気が、栞には羨ましかった。
放課後。
栞は結局、黒瀬にノートを見せられなかった。
何度かタイミングはあった。
黒瀬が席を立った時。
莉子が教室を出た時。
湊が職員室へ行っていた時。
それでも言えなかった。
黒瀬さん、私も書きました。
たったそれだけが、言えない。
自分の言葉なのに。
大事な言葉だからこそ、簡単に見せられない。
栞はノートを鞄にしまった。
すると、黒瀬が近づいてきた。
「白瀬」
「はい」
「今日、何か変」
栞は少し驚いた。
「私が、ですか?」
「うん」
「そう見えましたか」
「見えた」
黒瀬は少しだけ視線を逸らす。
「無理に言わなくていいけど」
「……はい」
「でも、言える時でいいから」
朝と同じ言葉。
栞は胸の奥が少し詰まる。
「ありがとうございます」
「だから、普通に礼言うなって」
「嬉しかったので」
「それも聞いた」
黒瀬は少しだけ困ったように笑った。
その顔を見て、栞は思った。
やはり、いつか見せたい。
この一行を。
まだ今日ではないかもしれない。
でも、消さずに持っておきたい。
その夜。
黒瀬は湊の部屋に来た。
いつものようにソファに座り、カフェラテを両手で包む。
湊が何となく聞く。
「今日、白瀬さんと何かあった?」
「何かってほどじゃない」
「うん」
「でも、何か書いてそうだった」
「気づいたんだ」
「やっぱり?」
「俺も少しだけ」
「朝比奈も見たの?」
「見たわけじゃない。ノート閉じるのが早かっただけ」
「莉子みたいなこと言う」
「影響されてるかもな」
黒瀬はカフェラテを一口飲む。
「白瀬も、何か書くのかな」
「かもしれない」
「……あたしのこと?」
「たぶん」
黒瀬は固まった。
カップを両手で包んだまま、しばらく黙る。
「見たい?」
湊が聞くと、黒瀬は即答できなかった。
「見たいけど」
「うん」
「見たら死ぬかも」
「死なないだろ」
「死ぬ。白瀬の言葉、強いから」
「それはわかる」
黒瀬はクッションに顎を乗せる。
「でも、もし白瀬が書いてるなら」
「うん」
「消さないでほしい」
「言ってみたら?」
「無理」
「いつか」
「……いつかなら」
黒瀬は少しだけ顔を赤くした。
「白瀬が見せてくれるなら、見る」
「うん」
「でも、急かさない」
湊は少し驚いた。
黒瀬はそれに気づいて、眉を寄せる。
「何」
「いや、黒瀬が待つって言ったなと思って」
「言うな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「禁止」
いつものやり取り。
けれど黒瀬は、少しだけ真面目な顔に戻る。
「あたしも、見せるの怖かったし」
「うん」
「白瀬も怖いなら、待つ」
「そっか」
「……普通に褒めるなよ」
「まだ何も言ってない」
「顔が褒めた」
「顔か」
「顔」
黒瀬は少し笑った。
白瀬は、ノートの余白に返事を書きたい。
でもまだ、見せられない。
黒瀬は、そのことに気づき始めている。
そして急かさず、少し待とうとしている。
その変化もまた、ノートにはまだ書かれていない大切な一行だった。




