ep.109 撮る側になったギャルは、メガネっ娘の笑顔に責任を感じる
金曜の朝、黒瀬琉衣奈は少しだけ落ち着かなかった。
別に、テストがあるわけではない。
ノート提出もない。
放課後自習会も今日は休み。
莉子が何か妙な企画を立てている気配も、今のところはない。
それなのに、落ち着かない。
理由は、自分でもわかっていた。
昨日の夜、朝比奈湊の部屋で言ってしまったからだ。
――白瀬が楽しそうな顔、撮れたら。
――たぶん、あたしも嬉しい。
言った。
言ってしまった。
写真を撮る側になる。
白瀬栞が楽しそうな顔をした瞬間を、自分が残す。
口にした時は、カフェラテの湯気と夜の部屋の空気に押されて、なんとなく言えた。けれど朝になって冷静に考えると、かなり恥ずかしい。
何だそれ。
自分で自分に突っ込みたくなる。
黒瀬は教室に入り、まず湊の席を見た。
まだ来ていない。
次に、白瀬の席を見る。
いた。
斜め前の席で、いつものようにノートを開いている。
髪には、今日もヘアピン。
黒瀬が選んだ、あの細いヘアピンだ。
光が当たるたびに、小さくきらっとする。
それを見るたびに、黒瀬は変な気持ちになる。
嬉しい。
恥ずかしい。
ちょっと誇らしい。
でも、あまり見ていると白瀬に気づかれそうで困る。
「黒瀬さん、おはようございます」
白瀬が顔を上げた。
「……おはよ」
「今日も、つけてきました」
「だから、毎日報告しなくていいって」
「はい。でも、言いたくなってしまって」
「そういうの」
黒瀬は顔を赤くして視線を逸らした。
白瀬は少しだけ笑った。
その笑顔は、昨日黒瀬が言った「ちょっとだけ出る」表情だった。
本人は気づいていないのだろう。
けれど、黒瀬には見えた。
少しだけ嬉しそう。
少しだけ照れている。
それでも、ちゃんとこちらを見ている。
黒瀬は思わず言いそうになった。
今の顔、写真に残したら?
だが、さすがに朝の教室で言う勇気はなかった。
その代わり、鞄を置いて席に座る。
すると莉子が、待ってましたと言わんばかりに近づいてきた。
「るいな、おはよ」
「……おはよ」
「今日、顔が何か考えてる」
「考えてない」
「嘘。白瀬さん見てた」
「見えてただけ」
「最近それ多いね」
「便利だから」
「白瀬さん語を便利にしない」
莉子は笑いながら、黒瀬の机に軽く肘を置いた。
「で、何考えてたの?」
「何も」
「写真?」
黒瀬の指が止まった。
莉子の目が輝く。
「当たり?」
「違う」
「嘘つくの下手」
「莉子、朝からうざい」
「はいはい。でもさ、昨日ちょっと話してたじゃん。白瀬さんが楽しそうな写真撮るとか」
「誰から聞いたの」
「黒瀬さんが言ってました」
静かな声が横からした。
白瀬だった。
黒瀬が勢いよく振り向く。
「白瀬!?」
「すみません。昨日の昼休みの話です」
「あ、そっち」
「そっち?」
「何でもない!」
黒瀬は慌てて前を向いた。
危ない。
夜に湊へ言った話まで漏れたのかと思った。
白瀬は不思議そうにしている。
莉子は、その反応を見て明らかに何かを察した顔になった。
「へえ」
「莉子、その顔やめて」
「何も言ってないよ」
「顔が言ってる」
「便利だね、顔」
「ほんとうざい」
その時、教室の扉が開いた。
湊が入ってくる。
黒瀬は反射的に顔を上げた。
「……おはよ」
「おはよう」
いつもの挨拶。
湊は鞄を置きながら、黒瀬と白瀬と莉子の顔を見る。
「何かあった?」
「何もない」
黒瀬が即答する。
莉子が笑う。
「るいなが白瀬さんの写真撮るかもって話」
「莉子!」
黒瀬の声が少し跳ねた。
湊は少しだけ目を丸くしたあと、黒瀬を見る。
昨日の夜の会話を思い出した顔だった。
黒瀬にはわかった。
そして、その顔が少しずるかった。
「……朝比奈、何か言うな」
「まだ何も言ってない」
「顔が言った」
「顔か」
「顔」
湊は少し笑った。
「いいと思うけど」
「ほら言った!」
「言うなって言われる前に言った」
「言われてたでしょ!」
黒瀬はむくれた。
けれど、完全に嫌ではない。
その自覚があるから、なおさら困る。
白瀬は少しだけ戸惑った顔をしていた。
「私の写真、ですか」
その声は静かだったが、少し緊張が混じっていた。
昨日、自分の楽しそうな顔がわからないと言っていた白瀬。
写真に残れば、わかるかもしれない。
そういう話になった。
でも、いざ本当に撮るとなると、やはり戸惑うのだろう。
黒瀬は白瀬のその顔を見て、少しだけ真面目になった。
「嫌なら撮らないし」
自然に言っていた。
自分でも少し驚いた。
白瀬も、少しだけ目を丸くする。
「……はい」
「無理に撮られるの、嫌でしょ」
「そうですね」
「だから、撮っていいって思った時だけでいい」
黒瀬が言うと、莉子が少しだけ黙った。
湊も、黙って聞いていた。
白瀬はゆっくり頷く。
「ありがとうございます」
「だから、そういうの普通に言うなって」
「本当なので」
「出た」
黒瀬は少しだけ笑った。
このやり取りで、空気が少し軽くなる。
莉子が手を叩いた。
「じゃあ、写真撮影会じゃなくて、白瀬さんが楽しい時に自然に撮れたら撮る、って感じで」
「撮影会って言うな」
「自然派」
「何それ」
「るいなカメラマン、自然派」
「やめろ」
黒瀬は顔を赤くした。
白瀬はその言葉に少しだけ笑った。
その笑顔を、黒瀬はまた見てしまう。
ちょっとだけ出る。
やっぱり、見えている。
昼休み。
莉子は結局、その話を引っ張った。
「白瀬さん、写真撮られる時って緊張する?」
「します」
「だよね。あたしはわりと平気だけど、変な顔してたら消してほしい」
「私も、変な顔なら消してほしいです」
「るいなは?」
「絶対消してほしい」
「でも昨日の写真は保存してるんでしょ」
「してない」
「嘘」
「してない」
黒瀬は即答した。
湊は黙っていた。
黒瀬が保存したことを、何となく察している顔だ。
その顔がまた腹立つ。
黒瀬は湊へ個別メッセージを送った。
『言うな』
すぐ既読。
『言わない』
『顔に出すな』
『努力する』
『努力じゃなくて、やって』
『やる』
黒瀬はスマホを伏せた。
すると、白瀬が静かに言った。
「でも、黒瀬さんになら、少し撮られてもいいかもしれません」
黒瀬は固まった。
「……何で」
「黒瀬さんは、変な顔ならちゃんと消してくれそうなので」
「消すよ」
「はい」
「あと、嫌なら撮らない」
「はい」
「……そういう信用のされ方、むずい」
黒瀬は顔を赤くして視線を逸らした。
白瀬は少しだけ嬉しそうだった。
「むずい、ですか」
「むずい。責任あるじゃん」
「責任」
「白瀬が楽しそうな時に撮るとか、責任重い」
莉子がすぐに言う。
「るいな、カメラマンの顔してる」
「してない」
「責任を背負うギャル」
「やめて」
黒瀬は焼きそばパンの袋を開けながら、ため息をついた。
けれど、嫌ではなかった。
むしろ、少しだけ真剣になっている自分がいる。
白瀬の楽しい顔。
それを自分が残す。
そんなことを考える日が来るとは思わなかった。
放課後。
今日は四人で自習する予定はなかった。
莉子は用事があると言って先に帰り、白瀬は図書委員の当番があると言って席を立った。
教室を出る前、白瀬は黒瀬の席へ寄った。
「黒瀬さん」
「何?」
「写真のことですが」
「うん」
「いつか、お願いします」
黒瀬は少しだけ目を見開いた。
「……いいの?」
「はい。私が楽しそうな時があれば」
「あるでしょ」
「そうでしょうか」
「ある」
黒瀬は少し強めに言った。
「ヘアピンの時とか、カーディガンの時とか」
言ってから、照れた。
けれど、引っ込めなかった。
「白瀬、ちゃんと嬉しそうだった」
白瀬は、少しだけ頬を赤くした。
「ありがとうございます」
「だから普通に言うなって」
「本当なので」
「もう、それはいい」
黒瀬は困ったように笑った。
白瀬も笑った。
その笑顔を見て、黒瀬は思った。
今だ。
今の顔。
写真に残せたら、たぶん白瀬もわかる。
自分がちゃんと嬉しそうにしていることを。
けれど、黒瀬はスマホを出さなかった。
今はまだ、目で覚えておく。
それでいい気がした。
白瀬が教室を出ていったあと、湊が近づいてきた。
「黒瀬」
「何」
「今、撮らなかったな」
「……見てたの」
「見えた」
「みんなそれ言う」
黒瀬は少しだけむくれた。
「撮ってもよかったかもな」
「うん。でも、今日は撮らない」
「何で?」
「今のは、あたしが覚えておくやつ」
言ってから、黒瀬は自分で固まった。
湊も少し黙った。
かなり自然に、本音が出た。
「……今のなし」
「無理」
「知ってた」
「いいと思う」
「普通に言うな」
「でも、いいと思ったから」
「ずるい」
黒瀬は顔を赤くした。
「今日、行く」
「写真の話?」
「撮る側の責任の話」
「かなり真面目だな」
「茶化すな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「禁止」
黒瀬は少しだけ笑った。
「カフェラテ」
「当然?」
「当然」
夜。
黒瀬はいつものように湊の部屋へ来た。
ソファに座り、クッションを抱え、カフェラテを両手で包む。
最近、この流れがあまりにも自然で、湊は少し不思議になる。
黒瀬も、たぶん同じなのだろう。
カップを見つめて、小さく息を吐いた。
「写真、撮る側ってむずい」
「まだ撮ってないけどな」
「撮ってないからむずい」
「そういうものか」
「そう。白瀬が楽しそうな時って、たぶん一瞬じゃん」
「うん」
「でも、その瞬間にスマホ向けたら、白瀬が緊張するかもしれない」
「うん」
「撮らないと残らない。でも、撮ろうとしたら消えるかもしれない」
黒瀬はカフェラテを一口飲む。
「責任重い」
湊は静かに頷いた。
「黒瀬、ちゃんと考えてるな」
「言うな」
「でも本当に」
「本当なら余計だめ」
黒瀬はクッションに顎を乗せた。
「今日、白瀬が笑った時、撮ろうと思えば撮れた」
「放課後?」
「うん。でも撮らなかった」
「覚えておくやつ?」
黒瀬は少しだけ顔を赤くした。
「……聞こえてたんじゃん」
「言ってた」
「最低」
「でも、いい言葉だった」
「言葉を褒めるな」
黒瀬はクッションで顔を半分隠した。
「でも、今のは本当にそう思った。白瀬のあの顔、今日はあたしが覚えておけばいいかなって」
「うん」
「写真に残すのは、また別の日でいい」
「そうだな」
「白瀬が、撮っていいって思った日に」
「うん」
「でも、その時はちゃんと撮る」
黒瀬の声は、少しだけ真剣だった。
「変な顔だったら消すけど」
「うん」
「でも、いい顔だったら、残す」
「うん」
「白瀬が、自分でも見返せるように」
湊は、その言葉を聞いて胸の奥が少し温かくなった。
黒瀬は気づいていないかもしれない。
でもそれは、かなり優しい言葉だった。
「黒瀬」
「何」
「それ、白瀬さんが聞いたら嬉しいと思う」
「絶対言わない」
「何で」
「恥ずかしい」
「でも本当だろ」
「本当だから言えないの」
「難しいな」
「難しいんだし」
黒瀬は少しだけ笑った。
「でも、いつか言うかも」
「いつか?」
「写真撮れたら」
「そっか」
「それまでは、保留」
「出た」
「便利だから」
黒瀬はカフェラテを飲み干した。
撮る側になったギャルは、メガネっ娘の笑顔に責任を感じていた。
ただスマホを向ければいいわけではない。
残すべき瞬間と、目で覚えておくべき瞬間がある。
それを真面目に考えている黒瀬は、やっぱり少し柔らかくなっていて、でもちゃんと黒瀬琉衣奈のままだった。




