ep.108 写真の中のギャルを、メガネっ娘は少しだけ羨ましいと思う
木曜の朝、白瀬栞はいつもより少し早く教室に来ていた。
理由は、本人にもはっきりしている。
昨日の写真だ。
藤堂莉子が送ってくれた、週末のカフェで撮った一枚。
四つの飲み物。
テーブルの上の紙袋。
黒瀬琉衣奈が選んでくれたカーディガンとヘアピン。
黒瀬さんのジャケットの袋。
朝比奈湊の少し困ったような横顔。
そして、カフェラテを両手で包んで、ほんの少し笑っている黒瀬さん。
栞は、昨夜もその写真を見返していた。
自分が写っているわけではない。
いや、正確には端の方に手元くらいは写っている。紅茶のカップに触れている指先と、少しだけ映った袖。
けれど、写真の中心にいるのは、黒瀬だった。
楽しそうな顔をしている黒瀬。
本人は絶対に認めないだろう。
けれど、あれは間違いなく楽しかった時の顔だ。
その顔を見ていると、栞は少し不思議な気持ちになる。
嬉しい。
黒瀬が楽しそうだったことが。
自分が、その場に一緒にいられたことが。
黒瀬が選んでくれた服を、自分が大事に思えていることが。
けれど、それだけではなかった。
ほんの少しだけ、羨ましかった。
黒瀬は、感情が顔に出る。
嫌な時も、照れた時も、困った時も、嬉しい時も。
本人は隠しているつもりでも、すぐにわかる。
それは時々不器用で、危うくて、見ているこちらが少し心配になるくらい正直だ。
でも、その正直さが羨ましい。
栞は、自分の表情を整えるのが得意だった。
困っていても、落ち着いて見える。
嬉しくても、静かに見える。
寂しくても、たぶん平気そうに見える。
それは悪いことではないと思っていた。
けれど最近、黒瀬を見ていると、少しだけ思う。
感情が見える人は、ちゃんと届くのだと。
「……白瀬さん?」
声をかけられて、栞は顔を上げた。
朝比奈湊が教室に入ってきていた。
「おはようございます」
「おはよう。早いな」
「はい。少し」
「ノート?」
「それもあります」
栞は机の上に置いたノートへ視線を落とした。
本当は、ノートだけではない。
写真を見返して、少し考え込んでしまい、家にいても落ち着かなかっただけだ。
湊は席に鞄を置きながら、栞の髪を見る。
「今日もつけてるんだな」
ヘアピンのことだ。
栞は少しだけ指先で触れた。
「はい。気に入っているので」
「似合ってる」
湊は普通に言った。
その普通さに、栞は少しだけ頬が熱くなる。
「ありがとうございます」
そう返したところで、教室の扉が開いた。
黒瀬琉衣奈が入ってきた。
眠そうな顔。
けれど、湊を見つけると少しだけ目が動く。
「……おはよ」
「おはよう」
湊が返す。
黒瀬は次に栞を見た。
そして、髪のヘアピンに気づく。
「……今日も」
「はい。今日もつけてきました」
「毎日報告しなくていいって」
「黒瀬さんが見てくれたので」
「そういうの!」
黒瀬は顔を赤くした。
その反応が、やっぱり黒瀬らしくて、栞は少しだけ笑ってしまう。
黒瀬が眉を寄せた。
「白瀬、笑った」
「すみません」
「謝るの早い」
「でも、少し嬉しかったので」
「何が」
「見てくれたことが」
黒瀬は、また言葉に詰まった。
その顔を見て、栞は思う。
羨ましい。
黒瀬さんは、今ちゃんと困っている。
ちゃんと照れている。
ちゃんと受け取ろうとしている。
自分も、そんなふうに見えたらいいのに。
黒瀬は自分の席へ行き、鞄を置いた。
その途中で、湊の方をちらっと見る。
たぶん、今の会話をどう思われたか気にしている。
湊は少し笑っていた。
黒瀬がすぐに睨む。
「朝比奈、笑うな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「禁止」
そのやり取りに、栞はまた少し笑った。
黒瀬が今度は栞を見る。
「白瀬も笑いすぎ」
「すみません」
「今日、謝りすぎ」
「気をつけます」
「それも真面目」
黒瀬はむくれた。
でも、嫌そうではなかった。
昼休み。
莉子が購買で買ったパンを持って戻ってくるなり、スマホを出した。
「ねえ、昨日の写真さ」
黒瀬の肩がびくっと動く。
「またその話?」
「だっていい写真なんだもん」
「もういいって」
「よくない。白瀬さん、昨日何回くらい見返した?」
栞は一瞬だけ返事に迷った。
正直に言うべきか。
けれど、黒瀬も湊もこちらを見ている。
「……何回か」
栞が答えると、莉子はにやりとした。
「何回かって、優等生の濁し方だ」
「そうでしょうか」
「白瀬さん、実はけっこう見返してるでしょ」
「……はい」
黒瀬が少し驚いた顔をした。
「そんなに?」
「はい」
「何で」
黒瀬の声は、からかいではなかった。
純粋に不思議そうだった。
栞は少しだけスマホを見た。
そこには、昨日も開いた写真がある。
カフェラテを持つ黒瀬。
柔らかい顔。
「黒瀬さんが、楽しそうだったので」
栞がそう言うと、黒瀬は固まった。
莉子が「あー」と小さく声を漏らす。
湊は黙って聞いていた。
黒瀬は少しだけ顔を赤くして、視線を逸らす。
「……それ、昨日も似たようなこと言われた」
「はい。藤堂さんも、朝比奈くんも言っていましたね」
「みんなして」
「でも、本当にそう見えたので」
「本当なので、って言うな」
「今回は言う前に止めました」
「止めても同じ」
黒瀬は困ったように焼きそばパンの袋を開けた。
けれど、栞はまだ言葉を続けた。
「少し、羨ましいと思いました」
その一言で、空気が止まった。
黒瀬が顔を上げる。
「……羨ましい?」
「はい」
「何が?」
栞はスマホの画面を伏せた。
少し考える。
言葉を間違えたくなかった。
「黒瀬さんは、楽しい時にちゃんと楽しそうに見えます」
「……そう?」
「はい。照れている時も、困っている時も、怒っている時も、顔に出ます」
「それ、褒めてる?」
「褒めています」
黒瀬は眉を寄せた。
「顔に出るの、よくないでしょ」
「私は、そうは思いません」
栞はゆっくり首を横に振る。
「見ている人に、ちゃんと届くので」
黒瀬は黙った。
湊も、莉子も黙っている。
栞は、自分の手元を見る。
「私は、嬉しくても、たぶんあまり顔に出ません。楽しくても、落ち着いて見えると思います」
「そんなこと……」
黒瀬は言いかけて、止まった。
否定しようとしたのだろう。
けれど、栞がそう見えていることもわかるから、言葉を選んでいる。
その優しさが、少し嬉しかった。
「だから、黒瀬さんの写真を見て、少し羨ましいと思いました」
「……白瀬」
「はい」
「それ、たぶん逆」
「逆?」
黒瀬は焼きそばパンを机に置いた。
少しだけ不機嫌そうな顔をする。
でも、不機嫌というより、困っている顔だった。
「白瀬は顔に出ないんじゃなくて、ちゃんと見ないとわからないだけ」
栞は目を瞬かせた。
「そうでしょうか」
「そう。あたしは顔に出すぎるだけ。白瀬は、ちょっとだけ出る」
「ちょっとだけ」
「うん。ヘアピン褒めた時とか」
黒瀬は少し顔を赤くした。
「嬉しそうだった」
栞は言葉を失った。
今度は、自分の頬が熱くなるのがわかる。
莉子がにやにやし始めた。
「るいな、めっちゃ見てるじゃん」
「莉子、黙って」
「でも今のいいよ。白瀬さん、嬉しそうだったって」
「言い直すな」
黒瀬は莉子を睨んだあと、栞へ戻る。
「あと、土曜にカーディガン着た時も」
「はい」
「あれも、嬉しそうだった」
「……そう、でしたか」
「そう」
黒瀬は少しだけ視線を逸らした。
「だから、出てる。ちょっとだけ」
栞はすぐには返せなかった。
胸の奥が、じわりと温かくなる。
黒瀬さんは、見てくれていた。
自分が嬉しかったことを。
ちゃんと。
「ありがとうございます」
栞が言うと、黒瀬は困ったように言った。
「そういうの、普通に言うなって」
「本当なので」
「出た」
黒瀬は顔を赤くした。
でも、逃げなかった。
湊が静かに言う。
「白瀬さん、土曜は楽しそうだったと思う」
栞は湊を見る。
「朝比奈くんにも、そう見えましたか?」
「うん。特に黒瀬に選んでもらった服着た時」
黒瀬がすぐ反応する。
「朝比奈も見てたの?」
「見てた」
「認めるな」
「似合ってたし」
「それは……そうだけど」
黒瀬は少しだけ複雑そうな顔をした。
けれど、前ほど強く拗ねない。
栞が嬉しそうだったことを、黒瀬も嬉しいと思っているからだろう。
莉子がパンを片手に言う。
「じゃあ、今度は白瀬さんが楽しそうな写真撮ろ」
「え?」
栞が驚く。
黒瀬も眉を寄せる。
「莉子、また写真?」
「今度は白瀬さんメインで」
「やめなよ、白瀬困ってる」
黒瀬が反射的に言った。
栞は少し驚いた。
黒瀬も自分で言ってから、驚いた顔をする。
莉子はその二人を見て、少しだけ笑った。
「ごめんごめん。無理には撮らないよ」
「当たり前」
「でも、白瀬さんが撮っていいって思ったら、その時ね」
栞は少し考えた。
写真に写る。
楽しそうな自分を残す。
少し前なら、きっと戸惑った。
今も戸惑っている。
けれど、黒瀬が自分の困り顔を見て止めてくれたことが、なぜか背中を押した。
「……その時は、お願いします」
栞が言うと、黒瀬が目を丸くした。
「いいの?」
「はい。でも、変な顔をしていたら消してください」
「それ、あたしが昨日言ったやつ」
「黒瀬さんの気持ちが少しわかりました」
「わからなくていい」
黒瀬はそう言いながら、少しだけ笑った。
放課後。
黒瀬は湊の席へ来た。
「朝比奈」
「何?」
「今日、行く」
「写真の続き?」
「白瀬の話」
「羨ましいって言ってたやつ?」
「うん」
「カフェラテ?」
「当然」
黒瀬は少しだけ視線を逸らす。
「あと、あたしが白瀬のこと見てたって話」
「見てたな」
「言うな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「禁止」
夜。
黒瀬はいつものように湊の部屋へ来た。
カフェラテを両手で包み、クッションを抱える。
今日は、少し考え込むような顔だった。
「白瀬、羨ましいって言ってた」
「うん」
「あたしの顔に出るところ」
「うん」
「変だよね」
「そうか?」
「だって、顔に出るの、困るじゃん」
「でも、届くって言ってた」
「……それは」
黒瀬はカップを見つめる。
「ちょっとわかる」
「うん」
「あたし、隠したいのに隠せないこと多いけど」
「うん」
「でも、それで伝わるなら……全部悪いわけじゃないのかも」
湊は静かに頷いた。
「そう思う」
「普通に言うな」
「でも本当だし」
「本当なら余計」
黒瀬は少しだけ笑った。
「でも、白瀬も出てる」
「表情?」
「うん。ちょっとだけ」
「黒瀬、よく見てるな」
「……見えるだけ」
「白瀬さん語」
「うるさい」
黒瀬はクッションに顎を乗せた。
「ヘアピン褒めた時、嬉しそうだった」
「うん」
「カーディガン着た時も」
「うん」
「写真に残したら、白瀬もわかるのかな」
「何を?」
「自分が楽しそうだったって」
その言葉は、今日の昼の栞の話とつながっていた。
写真の中の黒瀬を見て、栞は羨ましいと思った。
なら、いつか栞自身も、自分が楽しそうにしている写真を見て、気づけるかもしれない。
湊は答える。
「たぶん、わかると思う」
「そっか」
「黒瀬が撮る?」
黒瀬は固まった。
「……あたしが?」
「白瀬さんがいいって言った時に」
「無理」
「そうか」
「いや」
黒瀬は少し考えた。
「……ちょっと、あり」
「ありなんだ」
「保留より上」
「黒瀬基準だな」
「うん」
黒瀬はカフェラテを飲んだ。
「白瀬が楽しそうな顔、撮れたら」
「うん」
「たぶん、あたしも嬉しい」
素直な言葉だった。
湊は笑わなかった。
ただ頷いた。
「いいと思う」
「普通に言うなって」
「でも今日は言った方がいいと思った」
「ずるい」
「今日も?」
「今日も」
黒瀬は少しだけ笑った。
写真の中のギャルを、メガネっ娘は少しだけ羨ましいと思った。
そしてギャルは、メガネっ娘の小さな表情の変化を、ちゃんと見ていた。
見えるだけ。
黒瀬はそう言う。
でも、その「見えるだけ」は、きっともう優しさに近かった。




