ep.105 月曜の教室、メガネっ娘のヘアピンでギャルが固まる
月曜の朝、黒瀬琉衣奈は教室に入る前から少しだけ疲れていた。
理由はわかっている。
土曜のことだ。
駅前に集合して、ショッピングモールへ行って、服を見て、白瀬栞にカーディガンを選び、ヘアピンまで選び、ついでに自分もジャケットを試着して、朝比奈湊に「似合ってる」と言われて、さらに小さめの声で「可愛いと思う」と言われた。
思い出しただけで、月曜の朝には重すぎる。
しかも、それで終わらなかった。
その日の夜、湊の部屋でカフェラテを飲みながら、黒瀬は今日のことをほとんど全部話してしまった。
楽しかった、とまで言った。
なしでも保留でもなく、あり、と言った。
そこまで言った自分を思い出すと、布団の中で一度転がりたくなった。いや、実際に転がった。
だから、月曜の教室に入るのは少し怖かった。
莉子は絶対にからかってくる。
白瀬はたぶん普通に感想を言ってくる。
朝比奈は、いつもの顔で「おはよう」と言う。
それが一番困る。
黒瀬は教室の扉の前で、一度だけ息を吐いた。
そして何でもない顔を作って中に入る。
つもりだった。
「るいな、おはよー」
入った瞬間、莉子が手を振ってきた。
早い。
待ち構えていたみたいに早い。
「……おはよ」
黒瀬は短く返した。
自分の席へ向かおうとして、ふと視線が止まる。
白瀬栞がいた。
斜め前の席で、いつものようにノートを開いている。
制服姿。
背筋の伸びた座り方。
丁寧に並べられた筆記用具。
そこまではいつもの白瀬だった。
けれど、少し違った。
髪に、小さなヘアピンがついていた。
土曜、アクセサリーの店で黒瀬が選んだ、細くて控えめに光るヘアピン。
派手ではない。
でも、栞の髪に馴染んで、いつものきっちりした雰囲気を少しだけ柔らかくしていた。
黒瀬は固まった。
完全に固まった。
栞が顔を上げる。
「黒瀬さん、おはようございます」
「……おはよ」
声が、思ったより小さくなった。
栞は少しだけ首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「それ」
「はい?」
「髪」
栞は自分の髪に触れた。
そして、ようやく気づいたように少し照れた顔をする。
「ああ、これですか」
「つけてきたの?」
「はい。黒瀬さんが選んでくださったので」
「普通に言うなって!」
黒瀬の声が少し跳ねた。
莉子がすぐに笑う。
「いやー、白瀬さんめっちゃ似合ってるじゃん。るいなセンスいい」
「莉子、朝から黙って」
「無理。これは言うでしょ」
「言わなくていい」
「でも本当に似合ってるよね、朝比奈くん?」
その名前が出た瞬間、黒瀬は反射的に湊の席を見た。
湊は、ちょうど教室に入ってきたところだった。
最悪のタイミング。
いや、別に最悪ではない。
でも、心の準備はできていなかった。
湊は鞄を持ったまま、三人の方を見る。
「おはよう」
「……おはよ」
黒瀬はいつものように返した。
返せた。
そこまではよかった。
だが莉子が、すぐに言う。
「朝比奈くん、白瀬さんのヘアピン見て」
「莉子!」
黒瀬は止めようとしたが、もう遅い。
湊は栞を見た。
栞の髪にあるヘアピンに気づいて、少しだけ表情をやわらげる。
「似合ってる」
さらっと言った。
栞は少し頬を赤くした。
「ありがとうございます」
黒瀬は、湊を見た。
見てしまった。
別に湊が悪いわけではない。
栞に似合っているのは本当だ。
黒瀬だってそう思っている。
むしろ自分が選んだのだから、似合っていて当然だと思いたい。
でも、湊が普通に「似合ってる」と言うと、やっぱり少し面白くない。
湊はそれに気づいたのか、黒瀬の方を見る。
そして、ほんの少しだけ声を落とした。
「黒瀬が選んだからだな」
黒瀬の顔が一瞬で熱くなった。
「……そういうの、教室で言うなって」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「禁止」
いつものやり取り。
でも、黒瀬の声は少しだけ弱かった。
莉子がにやにやしている。
「月曜朝からいい空気だねえ」
「どこが」
「白瀬さんはヘアピンつけてくるし、るいなは照れてるし、朝比奈くんはちゃんとフォローするし」
「実況するな」
「保護者なので」
「違うってば」
黒瀬はむくれた顔で自分の席へ向かった。
だが、席についてからも、栞のヘアピンが視界に入る。
似合っている。
本当に似合っている。
それが少し悔しくて、でも嬉しい。
面倒くさい。
自分でもそう思う。
一限目が始まる前、黒瀬のスマホが震えた。
湊からだった。
『ヘアピン、似合ってたな』
黒瀬は画面を見て、眉を寄せる。
そして返信する。
『白瀬に言えば』
すぐ既読。
『言った』
『知ってる』
『でも黒瀬にも言いたかった』
黒瀬は固まった。
教室でスマホを見ながら固まるのは、最近よくあることになってしまった。
『ずるい』
そう返す。
すぐに湊から返ってきた。
『今日も?』
『今日も』
黒瀬はスマホを伏せた。
机の上には数学のノートがある。
余白が少し増えたノート。
そこに今日は何を書けばいいのか、少し迷った。
――白瀬、ヘアピン似合う。
そう書きそうになって、やめた。
代わりに、端の余白に小さく書く。
――月曜から強い。
授業中、黒瀬は何度か栞の後ろ姿を見た。
ヘアピンが、光の角度で少しだけきらっとする。
そのたびに、土曜の店内を思い出す。
栞がヘアピンを受け取った時の顔。
莉子が「るいなコーデ成功」と言ったこと。
湊が栞を見て「似合ってる」と言ったあと、黒瀬に「黒瀬が選んだからだな」と言ったこと。
いちいち思い出してしまう。
そして、そのたびにノートの余白が増えていく。
――白瀬はちゃんと使う。
――普通に嬉しいって言う。
――ずるい。
授業内容とは関係ない。
完全に関係ない。
でも、あとで見返した時、たぶん今日のことを思い出す。
それはそれで、黒瀬のノートらしい気がした。
昼休み。
莉子がさっそく黒瀬の席へ来た。
「るいな、今日ずっと白瀬さん見てる」
「見てない」
「見てるよ。ヘアピン気になるんでしょ」
「……まあ」
「あ、認めた」
「似合ってるから」
「おお、素直」
「莉子、そこ拾うな」
黒瀬は焼きそばパンの袋を開けながら言った。
莉子は楽しそうに笑う。
「白瀬さんに直接言えば?」
「朝、言った」
「もう一回」
「何で」
「嬉しいじゃん」
「何回も言うの変でしょ」
「朝比奈くんには何回も似合ってるって言ってほしいくせに」
「莉子!」
黒瀬の声が上がる。
近くの生徒がまたちらっと見る。
月曜から何回目だ。
黒瀬は顔を赤くして、声を落とした。
「……それは別」
「別なんだ」
「別」
「はいはい」
莉子はそれ以上追撃しなかった。
珍しい。
と思ったら、普通に栞へ声をかけた。
「白瀬さん、るいながヘアピンめっちゃ似合ってるって」
「莉子!」
結局追撃した。
栞が振り返る。
「黒瀬さん、本当ですか?」
黒瀬は完全に逃げ場を失った。
湊は斜め前の席で、そのやり取りを見ている。
見ているな。
黒瀬にはわかった。
顔で。
「……似合ってる」
黒瀬は小さく言った。
栞の表情がふっと柔らかくなる。
「ありがとうございます。黒瀬さんが選んでくれたので、今日つけてきてよかったです」
「だから、そういうの普通に言うなって」
「本当なので」
「それも、もう聞いた」
黒瀬は困ったように顔を赤くした。
けれど、悪い気はしていない。
むしろ、胸の奥が少し温かい。
莉子が満足そうに頷く。
「はい、今日のミッション達成」
「何のミッション」
「白瀬さんに二回目の似合ってるを言うミッション」
「勝手に設定するな」
黒瀬はむくれた。
だが、栞は静かに言った。
「私は嬉しかったです」
「白瀬、追撃しないで」
「すみません」
「謝るの早い」
湊が少し笑う。
黒瀬はすぐに睨む。
「朝比奈も笑うな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「禁止」
いつもの言葉が出ると、少し落ち着く。
昼休みの残り時間、黒瀬は栞と少しだけヘアピンの話をした。
髪のどこにつけるといいか。
制服に合わせても浮かないか。
休日の服ならどうするか。
栞は一つ一つ真面目に聞いて、黒瀬は最初こそ照れていたが、途中から少しだけ普通に話せるようになった。
湊はそれを見て、少し不思議な気持ちになる。
黒瀬と栞が、湊を挟まずに話している。
以前なら、その光景に少し置いていかれるような感覚があった。
今も少しだけある。
けれど、それ以上に今日は嬉しかった。
黒瀬が自分で選んだものを、栞が大事にしている。
そのことを黒瀬がちゃんと受け取っている。
それがわかったからだ。
放課後。
栞は図書委員の用事があるらしく、少し早めに教室を出ることになった。
出る前に、黒瀬の席へ寄る。
「黒瀬さん」
「何?」
「今日は、ありがとうございました」
「何が」
「ヘアピンのことです。似合っていると言ってもらえて、嬉しかったです」
「……もういいって」
「はい。でも、伝えておきたかったので」
「白瀬って、そういうところほんと強い」
「今日は何の強さですか?」
「言わないとこっちが逃げるってわかってる強さ」
栞は少し考えてから、微笑んだ。
「少しだけ、わかってきたかもしれません」
「やっぱ強い」
黒瀬は顔を赤くしながらも、視線を逸らさなかった。
「また、何か選んでください」
栞が言う。
「……気が向いたら」
「はい。気が向いた時で」
「そういう返しも強い」
栞は小さく笑って、教室を出ていった。
黒瀬はその背中を見送ったあと、しばらく黙っていた。
湊が鞄を持って近づく。
「黒瀬」
「何」
「今日、白瀬さん嬉しそうだったな」
「うん」
「よかったな」
黒瀬は少しだけ目を伏せる。
「……うん」
「素直だ」
「言うな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「禁止」
黒瀬はむくれたあと、鞄にノートをしまった。
「今日、行く」
「ヘアピンの話?」
「それと、莉子の文句」
「莉子さん、かなり楽しそうだったな」
「楽しそうすぎた」
「カフェラテ?」
「当然」
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く』
湊は返信する。
『ヘアピン回?』
『回って言うな』
『白瀬さん、似合ってたな』
既読。
少し間。
『うん』
さらに少しして。
『あたしが選んだから』
湊はその文面を見て、少し笑った。
『そうだな』
『でも朝比奈が言うとずるい』
『まだ何も言ってない』
『これから言いそう』
『じゃああとで』
『言うな』
九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬はいつものように少しむくれた顔で立っていた。
「……遅」
「今日はヘアピンの話が多そうだな」
「開幕で言うな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
黒瀬は靴を脱ぎ、部屋へ上がる。
ソファに座る。
クッションを抱える。
湊がカフェラテを出す。
いつもの夜。
黒瀬はカップを両手で包んで、しばらく黙った。
「白瀬、つけてきた」
「うん」
「びっくりした」
「似合ってた」
「うん」
「黒瀬が選んだからだな」
黒瀬はカップを持ったまま固まった。
「……それ、朝も言った」
「もう一回言いたくなった」
「ずるい」
「今日はずるい?」
「今日も」
黒瀬は少しだけ笑った。
「白瀬が嬉しそうだと、こっちも変な感じする」
「変?」
「うん。恥ずかしいけど、嫌じゃない」
「うん」
「なんか、あたしが選んだものをちゃんと大事にされた感じ」
「そうだな」
「それ、ちょっと嬉しい」
今日は、なしと言わなかった。
保留とも言わなかった。
黒瀬はそのままカフェラテを飲む。
湊は静かに頷いた。
「嬉しいって言えてる」
「言うな」
「悪い」
「でも」
黒瀬はクッションに顎を乗せる。
「今日は、まあ、言ってもいい日」
「そっか」
「うん。白瀬がヘアピンつけてきた日だから」
その言い方が少し大事そうで、湊は胸の奥が温かくなった。
メガネっ娘のヘアピンで、ギャルは月曜の朝から固まった。
でも夜になる頃には、その小さな光を「嬉しい」と言えるようになっていた。
それはきっと、黒瀬琉衣奈がまた少しだけ柔らかくなった証拠だった。




