ep.104 買い物袋を抱えたギャルは、夜の部屋で今日をもう一度たたみ直す
その日の夜、黒瀬琉衣奈はいつもより荷物が多かった。
九時少し前。
インターホンが鳴り、朝比奈湊がドアを開けると、黒瀬は店の紙袋を片手に立っていた。
昼間に買ったジャケットの袋だ。
駅前のショッピングモールで、試着室の前に立って、湊が言葉を選びすぎた末に「似合ってる」と言い、そのあと小さめに「可愛いと思う」と言った、あのジャケット。
その袋を持った黒瀬は、いつものように少しだけむくれた顔で言った。
「……遅」
「今日は早めに来ると思ってた」
「何で」
「今日のこと、たぶん言いたいだろうなって」
「決めつけるな」
「違った?」
「……違わないけど」
黒瀬は視線を逸らした。
それから、靴を脱ぐ時に紙袋を少し大事そうに持ち直す。
湊はそれを見て、少しだけ笑いそうになった。
「笑った?」
「まだ笑ってない」
「顔」
「顔か」
「顔」
黒瀬はむくれながら部屋へ上がった。
ソファへ向かい、いつもの位置に座る。
けれど今日は、クッションを抱える前に紙袋をそっと横に置いた。
その扱いが妙に丁寧で、昼間の余韻がまだ続いているのがわかる。
湊はキッチンへ向かいながら聞いた。
「カフェラテ?」
「当然」
「今日は外でも飲んだのに」
「外のは外」
「夜のは夜?」
「そう」
黒瀬は即答した。
その言い方があまりに当然すぎて、湊は少しだけ笑った。
湯気の立つカフェラテを二つ持って戻ると、黒瀬はすでにクッションを抱えていた。
でも、視線は紙袋に向いている。
まるで、あの袋の中に今日一日の全部が入っているみたいだった。
「はい」
「ん」
黒瀬はカップを受け取り、両手で包む。
その仕草は、昼間のカフェでも見た。
でも、やっぱりここで見る方がしっくりくる。
黒瀬自身もそう思っているのか、カップを少し見つめてから、小さく言った。
「やっぱ、ここの方が落ち着く」
湊は返事に迷った。
言えば逃げる。
でも、聞こえなかったふりをするのも違う。
「そっか」
それだけ返すと、黒瀬は少しだけ頷いた。
「外のカフェラテも悪くなかったけど」
「うん」
「莉子いるし、白瀬いるし、朝比奈いるし」
「俺もそこに入るのか」
「いたでしょ」
「いたな」
「でも、ここは二人だけだから」
言ってから、黒瀬は固まった。
カップを持つ手も止まる。
湊も、少しだけ固まった。
黒瀬はゆっくりクッションを持ち上げ、顔を半分隠した。
「……今のなし」
「無理」
「知ってた」
「これは無理だろ」
「最低」
声は弱い。
でも、逃げなかった。
黒瀬はクッションに顔を半分隠したまま、カフェラテを一口飲んだ。
「今日さ」
「うん」
「疲れた」
「だろうな」
「服屋って、見るだけでも疲れる」
「かなり歩いたしな」
「莉子は元気すぎるし」
「別腹って言ってたな、アクセ」
「意味わかんない。アクセがデザートとか」
「でも楽しそうだった」
「それは、まあ」
黒瀬は少しだけ口元を緩めた。
「莉子いると、変に重くならない」
「そうだな」
「あたしが変な顔しても、すぐ茶化してくるし」
「助かる?」
「うざいけど、助かる」
黒瀬らしい言い方だった。
それから、彼女は少しだけ紙袋を見る。
「白瀬も」
「うん」
「似合ってた」
「カーディガン?」
「うん。あとヘアピンも」
「黒瀬が選んだやつ」
「それ言うな」
「でも本当だろ」
「本当だけど」
黒瀬は困ったようにクッションを抱え直した。
「白瀬、すぐ買うんだもん」
「気に入ったって言ってたな」
「そういうの、普通に言うから困る」
「嬉しかった?」
黒瀬は少し黙った。
それから、カップを見つめたまま言う。
「……嬉しかった」
素直だった。
あまりにも素直で、湊はすぐに返せなかった。
黒瀬はすぐに顔を赤くする。
「今のなしって言いたいけど」
「うん」
「今日は、なしじゃない」
「そっか」
「うん。白瀬に似合ってるって言えたのも、ちょっとよかった」
「言えてた」
「うん」
「かなりちゃんと」
「そういうの普通に言うな」
「でも本当だし」
「本当なら余計むずい」
黒瀬はクッションに顎を乗せた。
「白瀬、可愛かった」
ぽつりと、また言った。
今日は、前よりすんなり出た。
「うん」
「でも、朝比奈が白瀬に似合ってるって言った時、ちょっと面白くなかった」
「……うん」
「でも、黒瀬が選んだからだなって言われたら」
黒瀬はカフェラテのカップを両手でぎゅっと包む。
「ちょっと、嬉しかった」
「そっか」
「ずるい」
「今日はずるい?」
「かなり」
黒瀬はそう言いながら、少し笑った。
そこからしばらく、二人は今日のことを順番に話した。
駅前集合。
黒瀬の私服。
湊が言葉を選びすぎたこと。
莉子がすぐに茶化したこと。
栞が黒瀬の言葉を参考にした服で来たこと。
服屋に入った時、湊が少し居場所に困っていたこと。
黒瀬が「近く。でも見すぎないで」と無茶なことを言ったこと。
莉子がヘアアクセサリーをデザート扱いしたこと。
外のカフェラテが、夜の部屋のカフェラテとは違ったこと。
話しているうちに、黒瀬の声は少しずつ柔らかくなっていった。
昼間の緊張を、夜の部屋で一つずつほどいているみたいだった。
そして、話題は避けられない場所へ戻ってくる。
紙袋。
ジャケット。
試着室。
湊が小さめに言った、あの言葉。
黒瀬はしばらく黙っていた。
それから、紙袋をそっと手元へ引き寄せる。
「これ」
「うん」
「買うつもり、最初は半分くらいだった」
「半分」
「使うな」
「悪い」
「でも、着たら……なんか、思ったより悪くなくて」
「うん」
「莉子も白瀬も似合うって言うし」
「うん」
「朝比奈も」
黒瀬はそこで止まった。
耳が赤い。
「俺も?」
「……言ったじゃん」
「似合ってるって?」
「それと」
黒瀬はクッションを抱える手に少し力を入れる。
「……可愛いって」
声はかなり小さかった。
それでも、ちゃんと届いた。
湊は静かに頷いた。
「言った」
「言い方、ずるかった」
「小さめにって言われたから」
「そうだけど」
「だめだった?」
「だめじゃない」
即答だった。
黒瀬は少しだけ目を伏せる。
「だめじゃない。むしろ、あれくらいじゃないと無理」
「ならよかった」
「でも、ちゃんと聞こえた」
「うん」
「聞こえたから、試着室に戻った」
「逃げた?」
「逃げた」
認めた。
黒瀬が自分で認めたことに、湊は少し驚いた。
黒瀬はクッションに顔を半分埋める。
「だって無理でしょ。あんなの」
「そうなのか」
「そうなの。外だし。莉子いるし。白瀬いるし。朝比奈は普通の顔してるし」
「普通の顔できてた?」
「できてた。だから余計むかついた」
「どっちだ」
「知らない」
黒瀬は少し笑った。
その笑い方が、今日の駅前で見たものよりさらに柔らかい。
「でも、嬉しかった」
今度は、もっとはっきり言った。
湊は息を止めた。
黒瀬は逃げなかった。
顔は赤い。
けれど、カップを持ったまま、ちゃんと座っている。
「だから、買った」
そう言って、黒瀬は紙袋を軽く叩いた。
「そっか」
「うん」
「買ってよかったと思う」
「まだ着てない」
「今日着てた」
「試着はノーカウント」
「そうなのか」
「そう。ちゃんと着て出かけたらカウント」
「じゃあ、次の楽しみだな」
黒瀬が固まった。
「……次?」
「着るんだろ?」
「着るけど」
「じゃあ、次」
「そういうの、普通に言うなって」
「普通に楽しみだから」
「本当なら余計だめ」
黒瀬はクッションで顔を隠した。
けれど、隠れた声で小さく言った。
「……その時も、ちゃんと言って」
「似合ってる?」
「うん」
「可愛いは?」
黒瀬は長く黙った。
そして、クッションの向こうからくぐもった声で言う。
「……小さめなら」
「わかった」
「即答するな」
「大事そうだから」
「ずるい」
黒瀬は顔を上げた。
赤いけれど、少しだけ笑っている。
「今日、楽しかった」
それは、ものすごくまっすぐな言葉だった。
湊は、今度も笑わなかった。
茶化さなかった。
「俺も楽しかった」
黒瀬は少しだけ目を伏せる。
「四人で、っていうのも悪くなかった」
「うん」
「白瀬と服見るの、思ったより楽しかった」
「うん」
「莉子はうざかったけど、必要だった」
「それ、本人に言ったら喜ぶな」
「絶対言わない」
黒瀬は即答した。
それから、湊を見た。
「朝比奈がいたのも」
「うん」
「……よかった」
最後は、かなり小さかった。
でも届いた。
湊は頷く。
「行ってよかった」
「ずるい」
「今日は何回目だ?」
「何回でも言う」
黒瀬はカフェラテを飲み干した。
いつもなら、そこで動画を流す。
けれど今日は、しばらく何もつけなかった。
部屋の中は静かだった。
紙袋がソファの横に置かれている。
カフェラテのカップがテーブルにある。
黒瀬はクッションを抱えている。
昼間の買い物のざわめきが、ここでは少しずつ落ち着いていく。
「朝比奈」
「何?」
「今日のこと、莉子にまたいじられると思う」
「だろうな」
「白瀬も、たぶん普通に感想言う」
「言いそう」
「月曜、無理かも」
「まだ土曜だぞ」
「もう月曜が怖い」
黒瀬は本気で嫌そうな顔をした。
湊は少し笑う。
「笑うな」
「ごめん」
「でも」
「うん」
「ちょっと楽しみでもある」
そう言ってから、黒瀬はまた顔を赤くする。
「……今の、なしじゃない」
「保留?」
「いや」
黒瀬は少し考えた。
「これは、あり」
湊は少しだけ目を丸くした。
黒瀬が、自分から「あり」と言った。
保留ではなく。
なしでもなく。
あり。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、月曜も楽しみだな」
「それは言いすぎ」
「半分くらい?」
「……半分くらい」
二人で少し笑った。
買い物袋を抱えたギャルは、夜の部屋で今日をもう一度たたみ直した。
莉子の笑い声も、栞の「本当なので」も、試着室のカーテン越しの沈黙も、湊の小さな「可愛い」も。
全部を一つずつ並べて、黒瀬は最後に「楽しかった」と言った。
その言葉は、今日買ったジャケットよりもたぶん大事に、夜の部屋に残った。




