ep.103 試着室のカーテン越しに、ギャルは返事を待っていた
試着室のカーテンが閉まったあと、黒瀬琉衣奈はしばらく出てこなかった。
店内には、休日のショッピングモールらしい音が流れている。
服を選ぶ客の声。
ハンガーがラックを滑る音。
遠くの店から聞こえてくる軽い音楽。
莉子が小さく笑いをこらえる気配。
朝比奈湊は、試着室の前で妙に落ち着かない気持ちになっていた。
さっき、自分は言った。
似合ってる。
可愛いと思う。
しかも、黒瀬に言われた通り、小さめの声で。
言い方は間違えていないはずだ。
たぶん。
でも、黒瀬はそのまま試着室へ逃げた。
カーテンの向こうで、何をしているのかは見えない。
ただ、かすかに衣擦れの音がするだけだ。
「朝比奈くん」
莉子が横から小声で言った。
「はい」
「今の、かなり効いてる」
「効いてる?」
「うん。るいな、たぶん中で顔押さえてる」
「そこまで?」
「そこまで」
莉子は妙に確信した顔で頷いた。
栞も少し離れたところで、試着室の方を静かに見ている。
「黒瀬さん、とても似合っていました」
「だよな」
湊が言うと、莉子がすぐに反応する。
「お、朝比奈くん、白瀬さんには普通に言えるんだ」
「いや、今のは服の話で」
「るいなの服も服の話じゃん」
「それは……」
湊が返答に困ると、莉子は楽しそうに笑った。
「まあ、るいなの前だと言葉選ぶよね」
「選ばないと怒るだろ」
「怒るけど、言われないと拗ねるよ」
「難しすぎる」
「それがるいな」
莉子はそう言って、試着室のカーテンをちらっと見た。
「でも、今日ちゃんと言えてよかったと思うよ」
その声は、からかいだけではなかった。
少しだけ優しい。
湊は、思わず莉子を見る。
「莉子さん、たまに本当に保護者みたいだな」
「たまにじゃないよ。ほぼ保護者」
自分で言うのか。
そう思った瞬間、試着室のカーテンの向こうから声がした。
「莉子、聞こえてる」
黒瀬の声だった。
莉子が即座に笑う。
「お、生きてた」
「死んでない」
「顔赤い?」
「うるさい」
「やっぱ赤いんだ」
「決めつけんな!」
カーテン越しの黒瀬の声は、かなり動揺していた。
栞が少しだけ口元を緩める。
「黒瀬さん、ジャケットはどうしますか?」
栞がそう聞くと、カーテンの向こうが一瞬静かになった。
「……迷ってる」
黒瀬が答える。
素直だった。
莉子が目を丸くする。
「るいなが素直に迷ってるって言った」
「そこ拾うな」
「だって珍しいし」
「買うかどうか迷ってるだけ」
「買えば?」
「簡単に言うな」
黒瀬の声は少し拗ねていた。
湊は、カーテンの向こうへ向けて言った。
「無理して買わなくてもいいと思う」
「……」
「でも、似合ってた」
少し間が空いた。
カーテンの向こうで、黒瀬が小さく息を吸った気配がした。
「……それ、二回目」
「さっきの服と同じだけど、今のは買うか迷ってるから」
「そういう理由つけるな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「禁止」
声だけのやり取りなのに、いつも通りだった。
そのせいか、黒瀬も少し落ち着いたらしい。
しばらくして、カーテンが少しだけ開いた。
黒瀬が顔だけ出す。
もう自分の服に戻っていた。
顔は、まだ少し赤い。
「……朝比奈」
「何?」
「ほんとに、変じゃなかった?」
「変じゃなかった」
「似合ってた?」
「うん」
「……可愛い、は?」
その言葉は、ほとんど息みたいな小ささだった。
湊はすぐに答えなかった。
答えたら逃げる。
でも答えないと、それも嫌がる。
難しい。
黒瀬はカーテンの陰から、じっとこちらを見ている。
莉子は黙っている。
栞も黙っている。
ここは、ちゃんと答えるところだった。
「可愛かった」
湊は小さく言った。
さっきよりも、さらに少しだけ小さく。
黒瀬の顔がまた赤くなる。
「……聞こえた」
「聞こえるくらいには言った」
「ずるい」
「これもずるいのか」
「ずるい」
黒瀬はそう言って、カーテンを閉めた。
莉子が口元を押さえる。
「やばい、今日の朝比奈くん強い」
「強い?」
「白瀬さん、どう思う?」
莉子が振ると、栞は真面目に頷いた。
「黒瀬さんの希望に沿っていて、とても良かったと思います」
「採点が丁寧!」
「採点ではありません」
栞はそう言ったが、少し笑っていた。
数分後、黒瀬が試着室から出てきた。
手には、さっきのジャケットがある。
「……買う」
短い宣言だった。
莉子がにやっとする。
「おー」
「言うな」
「まだ何も言ってない」
「顔」
「顔で言うのはセーフでしょ」
「アウト」
黒瀬はむくれながらも、ジャケットを大事そうに腕にかけている。
栞が柔らかく言った。
「良いと思います。黒瀬さんにとても似合っていました」
「白瀬も普通に言う」
「本当なので」
「出た」
黒瀬は困ったように言いながら、少しだけ笑った。
その笑い方を見て、湊は思った。
今日の黒瀬は、よく笑う。
照れて、怒って、拗ねて、困って。
でも、その間に何度も笑う。
莉子が言った「柔らかくなった」は、たぶん本当なのだろう。
店を出たあと、四人は少しだけモールの中を歩いた。
黒瀬はジャケットの入った紙袋を持っている。
白瀬栞はカーディガンの紙袋を持っている。
莉子は自分も何か買うと言って、途中でヘアアクセサリーの店へ突撃した。
「ちょっと見ていい?」
「さっきから見てるじゃん」
黒瀬が言うと、莉子は振り返って笑った。
「これは別腹」
「服に別腹あるの?」
「あるある。アクセはデザート」
「意味わかんない」
莉子は小さな棚の前で、いくつかヘアピンを手に取っている。
栞も興味深そうに見ていた。
「藤堂さんは、こういう小物もよく見ますか?」
「見る見る。服買わなくても小物だけで気分変わるし」
「なるほど」
「白瀬さんもつけてみれば?」
「私が、ですか?」
「うん。これとか」
莉子が小さな髪留めを栞に差し出す。
栞は少し戸惑ったが、受け取った。
黒瀬が横から覗く。
「白瀬なら、そっちよりこっちじゃない?」
別の細いヘアピンを取る。
シンプルだけど、さりげなく光るタイプだ。
「それ、今日の服に合いそう」
栞はそれを受け取った。
「黒瀬さん、ありがとうございます」
「まだ買えって言ってない」
「でも、選んでもらえたので」
「もうそれ言うの禁止にしたい」
「禁止ですか?」
「……半分」
「半分なら、時々言います」
「白瀬、そういう返し覚えたよね」
黒瀬が少し呆れたように言う。
栞はほんの少しだけ照れている。
その二人を見て、莉子がにやにやした。
「ほんと、仲良くなったよね」
「仲良くないし」
「仲良くはありません」
黒瀬と栞の声が重なった。
一瞬の沈黙。
莉子が吹き出す。
「また!」
「莉子、笑うな!」
「すみません……」
栞は少し恥ずかしそうに目を伏せた。
湊も笑いをこらえきれなかった。
黒瀬が睨む。
「朝比奈も笑った」
「今のは無理だろ」
「無理じゃない」
「でも、息ぴったりだった」
「言うな」
黒瀬はそう言いながら、少しだけ笑っていた。
結局、栞は黒瀬が選んだヘアピンも買った。
黒瀬は「だから早いって」と言ったが、栞は「気に入ったので」と返した。
そのやり取りも、もう少し見慣れてきた。
買い物を終える頃には、四人とも少し疲れていた。
莉子が最初に音を上げる。
「甘いもの食べよ。今日、頭も足も使った」
「勉強してないのに頭?」
黒瀬が突っ込む。
「るいなの反応を見るのに頭使った」
「見るな」
「見えるんだもん」
「みんなそれ言う」
莉子の提案で、モール内のカフェに入ることになった。
休日のカフェは混んでいたが、少し待つと四人席が空いた。
湊と黒瀬が隣。
向かいに莉子と栞。
自然にそうなった。
黒瀬は席に座ってから、それに気づいたらしい。
少しだけ湊の方を見る。
「……何」
「いや、何も」
「今、席のこと思ったでしょ」
「顔に出てた?」
「出てた」
「悪い」
「謝るの早い」
莉子がメニューを見ながら笑う。
「るいな、今日は朝比奈くんの顔チェック多いね」
「莉子、メニュー見て」
「見てる見てる」
栞はメニューを丁寧に見ながら言った。
「黒瀬さんは、カフェラテですか?」
黒瀬が固まった。
湊も固まった。
莉子の目が輝く。
「え、何で白瀬さん知ってるの?」
「以前、黒瀬さんが好きそうだと思ったので」
栞は自然に答えた。
たぶん本当に、そう思って言っただけだ。
けれど、黒瀬は完全に動揺している。
「白瀬、今の危ない」
「危ないですか?」
「危ない」
黒瀬は湊をちらっと見た。
夜の部屋。
カフェラテ。
当然。
その流れが、一瞬で頭に戻ってきたのだろう。
莉子がにやにやする。
「るいな、カフェラテ好きだもんねー」
「まあ、普通に好きなだけ」
「普通に?」
「普通に」
「へえ」
「莉子、深追い禁止」
「はいはい」
莉子は笑いながら、メニューへ視線を戻した。
黒瀬は結局、カフェラテを頼んだ。
湊も同じものにした。
それを見て、黒瀬が小さく言う。
「真似すんな」
「俺も飲みたかっただけ」
「ほんと?」
「うん」
「……ならいいけど」
栞は紅茶、莉子は甘いフラペ系の飲み物を頼んだ。
飲み物が来るまでの間、莉子が今日の買い物を振り返る。
「白瀬さん、めっちゃ変わったよね。カーディガンとヘアピンで雰囲気柔らかくなった」
「ありがとうございます」
「るいな、プロデュース成功じゃん」
「プロデュースしてないし」
黒瀬はカフェのテーブルに肘をつきながら言う。
「似合いそうって言っただけ」
「それが大事なんだって」
莉子が笑う。
栞は買った紙袋を見つめて、静かに言った。
「黒瀬さんに選んでもらえたのは、嬉しかったです」
「また普通に言う」
「すみません。でも、本当なので」
「それ、もう白瀬の必殺技じゃん」
「必殺技ではありません」
湊が思わず笑うと、黒瀬に睨まれた。
「何」
「いや、白瀬さんの必殺技って」
「強いでしょ」
「強いな」
栞は少し困っていた。
でも、どこか楽しそうにも見える。
「黒瀬さんのジャケットも、とても似合っていました」
栞が言う。
黒瀬が飲み物を待つ手を止める。
「……それは、もう聞いた」
「はい。でも、もう一度言いたくなりました」
「白瀬、そういうところ強すぎ」
「今日は何の強さでしょう」
「追撃の強さ」
「追撃……」
栞は少し考え込んでしまった。
莉子が爆笑する。
「白瀬さん、真面目に受け取らなくていいから!」
「そうなんですか」
「そう!」
黒瀬もつられて少し笑った。
その笑顔を見て、湊はつい言った。
「今日、黒瀬も楽しそうだな」
黒瀬が固まった。
莉子と栞も、少しだけ黙る。
やばい。
湊は言ってから思った。
でも、もう遅い。
黒瀬はテーブルの下で、自分の膝の上に置いた手を少し握った。
「……そういうの、外で言うなって」
「ごめん」
「謝るの早い」
「でも、楽しそうだったから」
「二回言うな」
「悪い」
黒瀬は顔を赤くしながら、紙袋を見た。
「……でも」
「うん」
「楽しくないわけじゃない」
いつもの黒瀬語。
莉子がにやっとする。
「るいな語で、かなり楽しい」
「翻訳すんな」
栞が微笑む。
「では、今日は来てよかったですね」
黒瀬は少し黙ったあと、小さく頷いた。
「……うん」
その返事は、かなり素直だった。
飲み物が届いた。
黒瀬はカフェラテのカップを両手で包む。
その姿は、夜の部屋で見慣れたものと少し似ていた。
でもここは外だ。
向かいには莉子と栞がいる。
黒瀬もそれに気づいたのか、少しだけ湊を見る。
「何?」
湊が聞くと、黒瀬は小さく首を横に振った。
「別に」
「別に?」
「……外のカフェラテは、ちょっと違う」
小さな声だった。
湊にだけ聞こえるくらい。
湊は返す。
「そうだな」
「でも、嫌じゃない」
「うん」
黒瀬はカップに口をつけた。
その横顔は、いつもの夜より少しだけ緊張していて、でもどこか満たされているようにも見えた。
駅前集合から、服屋、試着室、カフェまで。
ただ服を見に行くだけだった一日は、黒瀬にとっても、栞にとっても、莉子にとっても、湊にとっても、少しずつ特別なものになっていた。
そして湊は思った。
たぶん今日の夜、黒瀬はまた来る。
文句を言いに。
確認をしに。
今日のことを、カフェラテの湯気の向こうでもう一度並べ直すために。
その予感は、ほとんど確信だった。




