21. 慣性ゼロ
「……月を救うためのステラ・ウィンチ、星の強奪を開始する!」
俺は身動きの取れない極小のシートの中で、すぐさま次のフェーズへと移行した。
機体の極小スラスターを吹かし、セレス・マイナーへと船を寄せていく。
漆黒の宇宙空間に浮かぶ、一兆トンのいびつな岩塊が、センサー越しにその巨大な威容を現した。
「ディープスキャン、フル・アクティブ。……先行プローブ、ヘイムダルの事前解析データとの照合を行う」
俺の脳波と直結した機体の高精度センサーアレイが、小惑星の深部へと不可視の探査波を突き立てる。
岩盤の密度分布、鉱脈の偏り、内部に存在する巨大な空洞、そして自転が生み出す微細な重力異常。
一兆トンの星が抱える複雑怪奇な内部構造が、極彩色の三次元フラクタル・マップとなって俺の脳内に直接叩き込まれてくる。
俺はそのリアルタイムの実測データを、一つの過去データと慎重に重ね合わせていった。
それは、あの忌まわしいアトラスの失敗の前に、ヘイムダルがアトラス救出のために離脱するまでの三ヶ月間、このセレス・マイナーに張り付いて取得し続けていた膨大な解析モデルだ。
赤と青の極彩色の等高線が重なり合い……ピタリと一致した。
『……内部フラクタル構造、照合率99.999パーセント。高密度コアの位相変動、許容誤差範囲内』
ナビゲーション・コアが、冷徹な音声で結果を告げる。
「よし……」
俺は乾いた唇の端を吊り上げた。
「自転軸のブレも、重力異常の変動値も、すべて事前の予測演算の範疇だ。ヘイムダルの遺したデータは、今でも完璧に生きている」
特異点や内部構造の崩壊が起きたとしても、これならばリアルタイムで補正できる。
このわずかなズレならば、タイムラグ・ゼロの現地にいる俺の脳波と演算速度で、完全に補正してねじ伏せることができる。
そして何より、俺の脳内と機体のメインフレームには今、この計画を絶対に成功させるための、最後にして最大の切り札が存在していた。
それは、これまでの机上の空論をすべて過去のものにする、最強の実証データ。
俺自身がたった今まで、Mark-51に乗り込み、光速の〇・二パーセントという悪魔的な速度で慣性ゼロの次元空間を十二日間も滑り抜けてきたという生の実測データだ。
トポロジカル慣性共鳴則を使って物体が長距離を超高速で動く際、未知の次元摩擦や星間プラズマ磁場は存在するのか。
これまで人類の歴史上にデータが一切なく、AI遠隔制御では絶対に対応できなかったその最大のブラックボックスを、俺は自らの命と肉体を賭けて、完全に解き明かしたのだ。
俺は地球圏へ向けて、量子通信のパルスを放った。
「月面管制室、こちらレオン。セレス・マイナーの現状スキャン完了。ヘイムダルの事前解析データとの完全な整合性を確認した。さらに、俺自身の超高速航行から得た次元空間の実測データも、牽引アルゴリズムに完全に組み込む準備ができた。未知の要素はない。カオスの揺らぎは絶対に制御できる」
「……ターゲットの移動目標座標は、予定通り月と火星の中間地点へ設定した。月からの、最終実行許可を求む」
送信を終え、俺は再び一時間六分という絶対的な沈黙の待機時間に入った。
光の速度でも往復にかかる、通信遅延の壁だ。
三十年後の窒息を回避し、一億人の命とミナの未来を救うための、最後の引き金。俺たちチーム全員の合意を、静寂のコックピットの中で待ち続ける。
やがて、タイマーが一時間六分を刻んだ瞬間、通信スピーカーから待ち焦がれた声が響き渡った。
『こちら月面管制室! レオン、そっちの送信データを確認したわ! ヘイムダルのデータとの完全同期、そしてあんたの命懸けの航行データ……! シミュレーターでも完璧なオール・グリーンよ! 目的地は月と火星の中間ポイント……一直線の軌道が引けているわ!』
セリアの声には、もはや不安や絶望は一切なかった。あるのは、軌道力学の魔女としての絶対的な確信だけだ。
『議会が突きつけたタイムリミットまで、残り六日! お前の作った実測データがありゃ、鬼に金棒だ!』
バルカスの野太い声が続く。
『さあ、ぶちかましてやれ、レオン! 月面管制室より、ステラ・ウィンチ計画の最終実行を許可する!!』
「了解した。……これより、星を動かす!」
俺はシートの中で鋭く息を吐き出し、脳波のシンクロ率を限界まで引き上げた。
「次元の摩擦係数、トポロジカル・シフトの実証パラメーター、および偏向ベクトル……俺自身の十二日間の航行データから抽出完了。これを一兆トンの質量スケールへ拡張適応し、移動時の位相ズレ補正アルゴリズムとしてナノマシン制御コアに叩き込む!」
俺の指と脳波が連動し、セレス・マイナーを動かすための完璧な数式が組み上がっていく。
この実測データさえあれば、移動中に発生する未知のカオスや次元の反発はすべて事前に予測し、相殺できる。
前回の時のように、不確定要素で星が対消滅を起こすことは絶対にあり得ない。
「トポロジカル慣性共鳴則、起動! 空間の摩擦を、ゼロにする!!」
俺の思考のトリガーと共に、星全体を覆う銀色のナノマシン・ネットワークが一斉に極限の次元干渉波を放った。
モニター上の数値が猛烈な勢いで跳ね上がり、星の質量が急速にゼロへと向かって低下していく。
『対象の慣性質量、低下を開始。九十パーセント……八十パーセント……』
慣性が失われ始めると同時に、セレス・マイナー内部の不均一な構造が反発し、凄まじいカオスの揺らぎ、重力異常が引き起こされる。
脳内のマップに、赤く荒れ狂う異常警報が次々とポップアップした。
「……させるかよ。タイムラグ・ゼロを舐めるな!」
俺は発生した重力異常に対し、瞬時に脳内で補正コマンドを組み上げ、ナノマシンの各セクターへ的確なカウンター波を叩き込む。
前回は、この補正が届くのに三十三分かかったが、今はゼロ秒だ。
さらに、一兆トンという莫大な質量を丸ごと次元から切り離して長距離移動させる際の未知の空間摩擦や次元の歪み。
それらすべては、事前の俺の実測データから導き出されたアルゴリズムによって、発生する前に完璧に相殺されていく。
『対象の慣性質量、ゼロ。……トポロジー位相、完全固定』
ナビゲーション・コアの音声が、無慈悲な物理法則に対する俺たちの完全なる勝利を告げた。
特異点は発生しなかった。対消滅の赤い閃光も、崩壊のノイズもない。
目の前の一兆トンの巨大な岩塊は、今や宇宙の絶対法則である慣性から完全に解き放たれ、静寂の中で俺のコマンドを待っていた。
「……チェックメイトだ」
俺は、Mark-51と直結したナノマシン・ネットワークを通じて、セレス・マイナーに取り付いた超小型の推進コアへ、月と火星の中間地点へ向けたごく僅かな推力ベクトルを与えた。
質量ゼロとなった星にとって、そのわずかな推力は物理法則を蹂躙する圧倒的な暴力だった。
無音の宇宙空間で。
一兆トンの巨大な褐色の岩塊が、まるで神の見えざる手に引かれるように、光の槍となって暗黒の宇宙へと撃ち出された。
光速の〇・二パーセント。三十年後の月の窒息を救うための、一兆トンの特大の宅配便だ。
俺は身動き一つ取れないコックピットの中で、遠ざかる光芒を見つめながら、六日間の最後の結果を見届けるため、セレス・マイナーの元の公転軌道上に留まり続けた。
ここでトポロジカル慣性共鳴則を使って岐路に着くこともできるが、月に着くのに十二日後。結果を見届けることは出来ない。
セレス・マイナーが月と火星の中間地点に到着するまでにかかる時間が、ちょうど六日間。
議会が設定した二十四日のタイムリミットの、最後の最後の一日に間に合う計算だ。
物理法則の壁も、通信遅延の絶望も、政治家たちの無慈悲なタイムリミットも、俺たちはそのすべてを狂気と知性で殴り壊し、完全に乗り越えたのだ。
◇
六日後。 月の地下管制室。
議会が定めたタイムリミットの午後六時まで、残り数時間を切ったその時。
『……対象質量、目標座標、月・火星間パーキング・ポイントへ到達』
システム音声が流れると、バルカスの巨体が、歓喜で大きく震えた。
「相対速度ゼロ! ナノマシン・ネットワークによる慣性相殺フィールド、正常に解除完了! 空間位相の崩壊なし! ……一兆トンの星が、完全に俺たちの手の中に落ちたぞ!!」
「……やった。……ついに、やったわ!!」
セリアは、ホログラムに映し出された完璧な到達データを見て、両手で顔を覆い、堰を切ったように泣き崩れた。
月面天文台の高精度光学望遠鏡が捉えた映像には、月と火星の間の絶対安全宙域に、突如として出現した直径二十キロメートルの巨大な褐色の星が、圧倒的な威圧感を持って静かに鎮座している姿が映し出されていた。
あの絶望の淵から、たった二十四日で。
物理法則をねじ伏せ、政治家たちの嘲笑をひっくり返し、一億人の命を救うための星を、彼らは本当に持ち帰ってきたのだ。
「泣いてる暇はないわよ、バルカス!」
セリアは乱れた黒髪をかき上げ、涙と汗でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
その目には、魔女としての恐るべき知性と、反逆の炎が燃え盛っていた。
「泣いてるのはお前だ、セリア」
「レオンが命懸けで送ってくれたこの結果を、あの腐った狸どもに見せつけてやらなきゃ!!」
彼女は、セレス・マイナーの到達を証明する完全なテレメトリデータと光学映像を、強固な暗号データチップに叩き込んだ。
「バルカス、レオンの帰還軌道の計算準備をしてて! 私はこれから、あの連中の顔面にこの特大の花火をぶち上げてくるわ!!」
「おう! 議事堂の扉ごと蹴り破ってこい!!」
セリアは地下管制室の防爆扉を蹴り開け、第一議事塔の最上層——白亜の最高議事堂へ向けて、全速力で走り出した。
タイムリミットまで、あとわずか。
まさに今、ウォルター議長をはじめとする最高評議会議員たちが、ステラ・ウィンチ計画の完全凍結を正式に可決し、一切の予算を打ち切ろうとしているその瞬間に。
科学者たちの狂気と意地が、傲慢な権力者たちの喉元に、一兆トンの真実を突きつけようとしていた。




