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20. ターゲット

トポロジカル慣性共鳴則を全開で展開した直後、マスドライバーの莫大な電磁加速が機体を蹴り出し、ニュートン力学の常識を完全に置き去りにした光速の〇・二パーセント——秒速約六百キロメートルという、人類未踏の悪魔的な絶対速度へとMark-51は到達した。


本来ならば、ゼロから一瞬でこの速度に到達する加速G(重力加速度)は、人間の肉体を細胞レベルでひしゃげさせるほどの暴力的なエネルギーを生む。


だが、慣性を完全にゼロにしている俺の身体には、その恐るべき加速の圧力はただの一ミリグラムすら伝わってこなかった。


無音。そして無振動。


まるで、重力という強固な枷から魂だけが抜け出し、空間そのものを滑空しているかのような、奇妙で圧倒的な浮遊感だけがそこにあった。


俺が押し込められているMark-51のコックピットは、外の景色を見るための窓すら存在しない極小の空間だ。


バルカスが突貫工事でパイロットシートの周囲に生命維持装置と酸素ボンベをパッキングしたため、俺は肩幅分の余裕すらなく、首の角度を僅かに変えるくらいしかできない。


視界にあるのは、暗転した無機質なコンソールと、すぐ横にクリップで固定された鉄分ペーストのチューブだけだ。


だが、俺の視界は決して暗闇に閉ざされてはいなかった。


頭部にガッチリと固定された分厚い脳波ダイブ・デバイスを通じ、俺の視神経はMark-51の外部センサーアレイと完全に直結していた。


俺の脳は船のナビゲーション・コアと同化し、機体を包み込む次元の膜越しに、宇宙空間の景色を直接知覚している。


俺の脳内に直接投影される宇宙は、肉眼で見る星空とは全く異なっていた。


光速の〇・二パーセントという異常な速度は、星々の光に強烈なドップラー効果をもたらしている。


前方から迫り来る星々の光は鋭く突き刺さるような青紫色へブルーシフトし、後方へと飛び去っていく星々は鈍く沈んだ赤黒い色はレッドシフト)する。


宇宙全体がサイケデリックで狂気じみた光のトンネルと化して流れていく。


そして、その光のトンネルの真ん中を、一本の細く、だが決してブレることなく、星間プラズマ磁場のうねりをかき分けるように船は進む。


セリアの引いた軌道は、その複雑怪奇な網の目を誤差ゼロで抜け続けている。


脳内マッピングには、それらの空間のカオスが極彩色として可視化されている。


俺はただ、彼女の数学的な神業に命を預け、この黄金の糸の上を真っ直ぐに滑り落ちていくだけだ。


だが、そのただ滑り続けるだけの十二日間は、肉体的にも精神的にも、想像を絶する拷問だった。


身動き一つ取れないシートに拘束された肉体は、時間が経つにつれて悲鳴を上げ始めた。


いつ対消滅するか分からない恐怖、止まらない光の濁流、精神が不安定になっていることを自分でもわかった。


数時間に一度、口元に配置されたチューブからペーストを機械的に啜り、排泄物はリサイクルスーツが化学的に自動処理する。


自分が生きている人間なのか、Mark-51という機械の生体パーツの一つに過ぎないのか、境界線が曖昧になっていく。


極限の閉塞感と、果てしない虚空の孤独。


もしバルカスが徹夜で組み上げたアブソーバーに微小なヒビが入っていたら。


もしセリアの軌道計算に予測不能な誤差が潜んでいたら。


その瞬間、俺は目的地から何千万キロも離れた暗黒の宇宙へ放り出される。


その死の恐怖が、静寂のコックピットの中で幾度となく俺の理性を蝕もうとした。


『絶対に、絶対に生きて帰ってくること』


意識が混濁し、幻覚に苛まれそうになるたび、俺は出発前に交わした、ミナの小さな小指の感触を思い出した。


彼女との約束だけが、俺の自我を深い絶望の底から繋ぎ止める、唯一のアンカーだった。


「……待っていろよ、ミナ。俺は、迷子になんかならない」


俺はひび割れた唇で呟き、意識を保とうと自らの脳細胞を叱咤し続けた。


一日、また一日と、過酷な時間の歯車が回っていく。


そして――狂気と静寂の十二日間が、ついに終わりを告げようとしていた。


『ターゲット宙域への到達まで、Tマイナス六十秒……五十秒……』


ナビゲーション・コアの無機質な音声が、俺の脳内とコックピットに響き渡る。


俺は強張った全身の筋肉に無理やり力を込め、深い深呼吸をして意識を限界まで研ぎ澄ませた。


超高速航行から通常空間への復帰。慣性を宇宙に返すのだ。


「トポロジカル相殺フィールド、出力低下準備。次元境界からの浮上角、ロック」


『Tマイナス、十秒。九……八……』


俺の脳裏に映る光のトンネルが、急速に収束していく。


『三、二、一……トポロジカル相殺フィールド、完全解除』


俺の思考のトリガーと共に、船体を覆っていた次元のヴェールがパージされた。


その瞬間、俺の脳内に絶え間なく流れ込んでいた狂気じみた光の線が、フッと唐突に消え去った。


強烈な減速Gに襲われることもなく、凄まじい逆噴射の閃光も振動もない。


ただ、秒速六百キロメートルという狂気の速度で滑っていた宇宙空間が、まるでスライドショーの画像が切り替わるように、パチリと静止した。


慣性を持たない物体が通常空間に放り出された時、それはマスドライバーで射出される前の元の速度——すなわち、出発地点であった月と同じ公転速度を持った状態へと、宇宙の法則によって瞬時に固定されるのだ。


「……パーキング軌道、到達」


俺は荒い息を吐きながら、バイザーの表示モードを、多次元マップから光学・電波複合センサーの実体視界へと切り替えた。


「……本当に……」


真っ黒なメインモニターに映像が切り替わった瞬間、俺は感嘆の声を漏らした。


漆黒の宇宙空間の背景。


そこには、無数のクレーターに覆われた、直径二十キロメートルに及ぶ巨大でいびつな褐色の岩塊が、音もなく静かに浮かんでいた。


C型小惑星セレス・マイナー。推定質量、一兆トン。


機体からの距離、わずかたったの百キロメートル。


光速の〇・二パーセントという悪魔的な速度で太陽系を横断し、ただの一度も軌道修正を行うことなく、俺は指定されたパーキング座標から一メートルのズレもなく、ピタリと到着したのだ。


「……パーキング軌道への進入、完了。セレス・マイナーとの相対速度ゼロ」


俺は乾いた唇を舐め、汗と涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、震える手でメインコンソールを操作し、地球圏へ向けて量子通信のパルスを放った。


「月面管制室、こちらレオン。Mark-51、予定座標に到着した。……機体およびナノマシン・タンクに損傷なし。セリア、お前が引いた究極の直行軌道は、完璧だった。バルカス、お前の作った世界一頑丈で窮屈な乗り物は、僅かな歪すらなかった」


俺は大きく深呼吸をし、最後にこう付け加えた。


「……無事に、生きて着いたぞ」


メッセージが送信される。


当然のことながら、管制室からの返答はすぐには来ない。


俺のいるセレス・マイナーと月との距離。


そこには、光の速度でも片道三十三分という絶対的な通信遅延の壁が横たわっているのだ。


俺の無事に着いたという声がセリアたちの耳に届くのは三十三分後。


さらにそこから彼らが歓喜の声を上げ、その返事が俺の元へ届くまでに、往復で一時間六分もの空白の時間が生まれる。


俺は強張った首の筋肉をわずかに動かし、静かにモニター越しの小惑星を見つめていた。


この十二日間、彼らもまた月の地下管制室で、俺が宇宙の迷子になっていないか、生きた心地のしない時間を過ごしていたはずだ。


俺は、一時間六分という孤独で静寂な時間を、彼らの安堵の顔を想像しながら、ゆっくりと味わうように待った。


やがて、コックピットのタイマーが、発信からきっかり一時間六分を刻んだその瞬間。


ノイズ混じりの通信スピーカーから、待ち焦がれた声が、爆発するように飛び込んできた。


『——ッ!! レオン!! 聞こえる!? ああもう、バカ!! 本当に辿り着いたのね!!』


最初に響いたのは、セリアの、普段のクールな面影など微塵もない、涙声でぐしゃぐしゃになった絶叫だった。


『テレメトリ確認したわ! 座標ズレ、ゼロ! そうよ、その通りよ!失敗なんてするわけない!当たり前でしょ!私を誰だと思ってるのよ!』


『……でも、よかった……本当によかった……っ! あんたが宇宙の迷子にならなくて、本当によかった……!!』


通信の向こうで、セリアがコンソールに突っ伏して泣きじゃくる声が聞こえる。


それに被さるように、バルカスの野太い、しかし明らかに震えている声が響いた。


『ハッ、見ろセリア、俺の言った通りだ! 俺の組んだ船があれば、光速の〇・二パーセントの旅なんて屁でもねえんだよ!!』


バルカスは強がって大声で笑っていたが、すぐに鼻をすすり上げる音が聞こえた。


『……よく生きて辿り着いた、レオン。お前がチューブの中でペースト状になってなくて心底安心したぜ。そっちの景色はどうだ? 俺の作った最高傑作の乗り心地は満喫できたか?』


片道三十三分という絶望的な距離。


リアルタイムの会話のキャッチボールなど成立しない。


それでも、一時間六分前の俺の言葉に対する彼らの感情の爆発は、通信遅延という物理的な壁を軽々と飛び越え、冷え切っていた俺の心に圧倒的な熱を注ぎ込んでくれた。


「……ああ。最高の乗り心地だったよ。二人とも、本当にありがとう」


俺は涙で滲む視界を拭い、一人で誰もいないコックピットの中で一人微笑んだ。


だが、それでいい。俺たちの信頼は、すでに光の速度を超えて完璧に繋がっている。


「……さて。無事を祝うのはここまでだ。残された時間は少ないぞ」


俺は表情を引き締め、脳波デバイスを再び深く同期させた。 議会が突きつけたタイムリミットまで、残り六日。


「これより、ミッションの最終フェーズに移行する。ナノマシン・タンクをセレス・マイナー表面へ展開し、トポロジカル・マッピングを俺の脳波と直接同期させる」


俺は眼前に鎮座する一兆トンの星を睨み据え、技術者としての獰猛な笑みを浮かべた。


「アトラスの失敗は繰り返さない。タイムラグのない現地で、俺が直接この星の次元をねじ伏せる。……月を救うためのステラ・ウィンチ、星の強奪を開始する!」

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