22. 議会
時計の針は、絶対のタイムリミットである午後六時まで、残り十分を切っていた。
荘厳な大理石と金装飾に彩られた円形の議場では、最高評議会議員たちが退屈そうに欠伸を噛み殺していた。
彼らにとって、この臨時議会は単なる法的な事務処理に過ぎない。
失敗した計画の予算枠を完全に消去し、来月の統一セクター選挙に向けた新しいバラマキ政策へと資金を回すための、消化試合だった。
「――異議なしと認めます。以上をもって、ハルシュタット技師長による無謀な星捕り計画への一切の資金提供を永久に凍結し、プロジェクトチームの即時解散を……」
議席の中央でふんぞり返るウォルター議長が、冷酷な宣告と共に、最終決議の木槌を振り上げようとした、まさにその瞬間だった。
バーンッ!!
重厚なマホガニーの巨大な扉が、蝶番が軋むほどのけたたましい音を立てて蹴り開けられた。
「な、何事だ!」
「警備ドローン! 侵入者を取り押さえろ!」
議場が騒然とし、銀色の警備ドローンが一斉に銃口を向ける中、大理石の床に荒々しい足音を響かせて議場の中央へとズカズカと踏み込んできたのは、軌道力学の魔女、セリア・ヴァンダーだった。
彼女の黒髪はボサボサに乱れ、白衣には合成カフェインの染みと機械油がこびりついている。
美しい顔にはドス黒い隈が深く刻まれ、息を荒く切らしていたが、その双眸だけは、議場の誰よりも、いや、この月のどんな権力者よりも、圧倒的で獰猛な光を放っていた。
「……何の真似だ、ヴァンダー特級航法士。議会へのテロ行為とみなして即刻投獄してもいいのだぞ」
ウォルター議長が不快そうに眉をひそめ、見下すように言い放つ。
「テロ? 冗談じゃないわ。私はただ、あんたたちが待ち焦がれていた最高の宅配便の受領サインをもらいに来ただけよ!」
セリアは手の中で弄んでいた強固な暗号データチップを、議場の中央にあるホログラム・プロジェクターのハブへと力任せに叩き込んだ。
「見なさい! これが、あんたたちがゴミ箱に捨てようとした人類の未来よ!!」
セリアがコマンドを叩き込んだ瞬間、議事堂の広大な空間を埋め尽くすように、巨大で極彩色の三次元ホログラムが展開された。
そこに映し出されたのは、月面天文台の最高精度光学望遠鏡と、各種センサーが捉えた現在の宇宙空間のライブテレメトリだった。
漆黒の宇宙を背景に、無数のクレーターに覆われた直径二十キロメートルもの巨大な褐色の岩塊が、圧倒的な威圧感を持って静かに、そして確かにそこに鎮座している。
「フェイク映像ではないのか!?」
議員たちが椅子から腰を浮かせ、狼狽した声を上げる。
「フェイクなもんですか! 月と火星の中間地点、絶対安全宙域のパーキング・ポイントよ! 座標データを確認しなさい!」
セリアは議長を真っ直ぐに指差して叫んだ。
「レオン・ハルシュタットは、たった一人で光速の〇・二パーセントの次元の壁を越え、一兆トンの星セレス・マイナーを完璧に手なずけて、指定の座標まで運んだのよ!! 誤差はゼロ! 完全なる成功よ!!」
議場が、水を打ったように静まり返った。
彼らの手元の端末が、そのデータが一切の改ざんのない、月面天文台からの公式な実測データであることを無慈悲なまでに証明していたからだ。
一介の技術者が、不可能だと思われていた神の領域の奇跡を、タイムリミットの数分前に本当に成し遂げてしまった。
その圧倒的な事実の前に、傲慢な政治家たちは言葉を失い、ただ口を開けて巨大な星のホログラムを見上げるしかなかった。
「……どう? 議長殿。そして議員の皆様方」
セリアは息を整え、唇の端を吊り上げて、最高に意地悪で、悪魔的な笑みを浮かべた。
「あんたたちは先日、こう言ったわよね。市民への選挙演説の目玉にならないのであれば、続ける意味はないって」
セリアはホログラムの星を指差した。
「これ以上の目玉が、人類の歴史上のどこにあるっていうの? 月の酸素を未来永劫満たし、一億人の命を救う、一兆トンの水とレアメタルの宝庫。……もし来月の統一セクター選挙で、この星のホログラムを背にして演説台に立てば、あんたたちの支持率は天文学的な数字に跳ね上がるわ。歴史に名を残す偉大な指導者として、市民はあんたたちに熱狂するでしょうね」
セリアの言葉に、議員たちの目の色が劇的に変わっていくのがわかった。
三十年後の人類の滅亡には見向きもしなかった彼らの眼に、今度は目先の圧倒的な権力と栄光という猛烈な欲望の火が点ったのだ。
「し、しかし! この星はまだ月と火星の中間地点にあるのだろう!? 月の軌道に持ち込まなければ、資源として採掘できないではないか!」
財務委員長が、身を乗り出して唾を飛ばす。
「その通りよ。今はまだ、安全にコントロールできるかの試験をしただけ。月の衛星軌道まで牽引し、酸素生成プラントと直結させるためには、次のフェーズ、最終帰還計画へ移行する必要があるわ」
セリアは両手を広げ、議場全体を見渡した。
「レオンは今、あの星の傍らで、身動き一つ取れない棺桶のような機体の中で、あんたたちの決断を待っている。……さあ、どうするの? このまま予算を打ち切って、史上最高の選挙の目玉を宇宙の迷子にして捨てる? それとも、今すぐ全会一致で追加予算の承認と、最終フェーズの決行にサインする?」
議場は、もはや議論の必要すらなかった。
保身と欲望の塊である彼らにとって、これほど美味い果実は他にない。
先ほどまでレオンを無能な夢想家と罵っていたウォルター議長は、まるで手のひらを返したように、満面の、そしてひどく芝居がかった笑みを浮かべた。
「……素晴らしい! 素晴らしいぞ、ヴァンダー特級航法士!」
ウォルター議長は立ち上がり、大げさに拍手を送り始めた。
それに同調するように、他の議員たちも次々と立ち上がり、議事堂は割れんばかりの拍手喝采に包まれた。
「我々議会の先見の明は間違っていなかった! 厳しいタイムリミットを設けたことで、君たちの真のポテンシャルを引き出すことができたのだよ! これぞまさに、帝国議会と科学技術の偉大なる勝利である!」
(……どの口が言うのよ。本当に吐き気がするわね)
セリアは内心で猛烈な悪態をつきながらも、表面上は恭しく一礼してみせた。
彼らのこの見え透いたエゴイズムこそが、今はミナとレオンの未来を繋ぐ唯一の命綱なのだから。
「ウォルター議長。ステラ・ウィンチ計画、最終フェーズの承認を」
「もちろんだとも! 予算を承認する! 最高精度の牽引艦隊を新たに建造し、希望の星を、我々の月へ迎え入れようではないか!」
議長が木槌を高々と振り上げ、大理石の台に力強く叩き下ろした。
「帝国議会の名において、ステラ・ウィンチ計画の完全なる続行と、最終帰還フェーズの決行をここに宣言する!!」
万雷の拍手が鳴り響く中、セリアは承認データが書き込まれたアクセス・キーをひったくるように奪い取ると、議員たちに背を向け、再び防爆扉へと駆け出した。
彼女の目には、先ほどまでの疲労は微塵もなく、ただ一つの目的を果たすための歓喜の涙が浮かんでいた。
管制室の防爆扉を蹴り開けると、そこにはモニターの前に立ち尽くし、祈るように両手を握りしめているバルカスの姿があった。
セリアは荒い息を吐きながら、手の中のアクセス・キーを高々と掲げた。
「……取ったわよ!!」
セリアは、子供のように顔をくしゃくしゃにして笑い、涙をこぼした。
「あの腐った狸どもから、追加予算と、最終フェーズの完全承認をもぎ取ってきたわ!! 計画は続行よ!!」
「うおおおおおっっ!! やった! やったぞォォォ!!」
バルカスは雄叫びを上げ、セリアの細い体を抱き上げると、管制室の中でぐるぐると乱暴に振り回した。
「ちょっと、下ろしなさいよこのゴリラ!! 目が回る!!」
セリアは笑いながらバルカスの頭を叩き、地面に降り立つと、すぐにメインコンソールへと飛びついた。
「喜ぶのは後よ! レオンに……あの孤独な鉄の棺桶の中で待ってるバカレオンに、この最高の知らせを送らなきゃ!!」
セリアは震える指で量子通信のチャンネルを開き、三十三分遅れで届く数億キロの彼方へ向けて、マイクを強く握りしめた。
「レオン! 聞こえる!? セリアよ!!」
彼女の声は、歓喜と興奮で大きく上ずっていた。
「議会から、最終フェーズの承認を勝ち取ったわ! 予算は無限大! あんたが命懸けで持ち帰ってくれたあの星が、あのジジイどもの首根っこを完全に押さえつけたのよ!! もう、タイムリミットに怯える必要はないわ!」
バルカスもマイクに身を乗り出し、野太い声で叫んだ。
「小惑星を月の軌道へ引き入れるために、今すぐ俺の工廠をフル稼働させて、安全で頑丈な牽引艦隊を作ってやる! お前はもう、何一つ心配しなくていいんだ!」
セリアは涙を拭い、最後に、最も大切な言葉を紡いだ。
「……ミナちゃんの未来は、完全に確定したわ。三十年後の窒息なんて、もう絶対にあり得ない。あんたは、本当に月を救ったのよ。だから……」
彼女はマイク越しに、深く、優しい声で語りかけた。
「任務は完了よ、レオン。あんたの乗るMark-51の帰還軌道は、私が世界で一番安全で優しいルートを引いてあげる。……だから、安心して、私たちの元へ帰ってきなさい!」
歓喜に満ちた二人の声が、光のパルスとなって宇宙の深淵へと放たれた。
――それから、三十三分後。
暗黒の宇宙空間に浮かぶ、極小の機体Mark-51。
身動き一つ取れない極限の拘束状態のまま、レオン・ハルシュタットは、暗転したコックピットの中で、静かに目を閉じていた。
限界を超えた脳波ダイブの反動と緊張の糸が切れたことで、彼の肉体は深い疲労の底に沈み、意識は微睡みの中をたゆたっている。
やがて、コックピットのスピーカーから、ノイズ混じりの、しかし確かに歓喜に満ちたセリアとバルカスの声が響き渡った。
『……ミナちゃんの未来は、完全に確定したわ。三十年後の窒息なんて、もう絶対にあり得ない。あんたは、本当に月を救ったのよ』
その言葉が耳に届いた瞬間、レオンの閉じられていたまぶたから、一筋の温かい涙がこぼれ落ち、頬を伝って流れ落ちた。
「……そうか。……勝ったんだな、俺たちは」
レオンはゆっくりと目を開け、バイザー越しに、宇宙空間を見つめた。ミナの生きる未来を照らす希望を作ることが出来た。
不可能だと言われた物理法則の壁。 決して埋まらないと思われた通信遅延の絶望。 そして、人間の傲慢なエゴと権力の壁。
そのすべてを、彼らは知性と狂気、そして互いを信じる圧倒的な絆の力で、完全に殴り壊し、ねじ伏せたのだ。
もはや、彼らを縛るものは何一つない。
三十年後の死の運命は完全に書き換えられ、真珠色のドームの下には、いつか本物の青空が広がる日が来るだろう。
レオンは、狭いシートの中でわずかに口角を上げ、最高に満ち足りた、穏やかな笑みを浮かべた。
「……待っててくれ、ミナ。約束を果たすために、今帰るぞ」
レオンはメインフレームにアクセスし、セリアが月から送ってくれた、地球圏への帰還軌道をナビゲーション・コアにセットした。
「トポロジカル慣性共鳴則、起動。……Mark-51、帰還シークエンスへ移行」
音のない宇宙空間で、Mark-51が、再び青白いプラズマの光を放った。
だが、それはもう、死の淵を歩くような悪魔的な閃光ではない。
愛する者たちが待つ故郷へ向かうための、温かく、力強い希望の光だった。
広大な宇宙空間に見守られながら、小さな鉄の船は、青く輝く地球と月が待つ母なる宙域へ向けて、静かに、そして真っ直ぐに、光の航跡を描きながら帰途に就いた。




