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17. 決意

第七重工業区画、地下管制室。議会から突きつけられた無慈悲なタイムリミットまで、残り二十四日。


議長から最終宣告を言い渡されてから六日が過ぎていた。


暗転した巨大なメインモニターの弱々しい光だけが、まるで冷ややかな墓標のように、ひんやりと冷え切った部屋を青白く照らし出していた


極限までクロックアップされていた量子メインフレームの排熱ファンはとうに沈黙し、今はただ、重苦しい徒労感と完全なる無力感だけが、セリアとバルカスの背中に重くのしかかっている。


追加の予算も、計画を立て直すための時間も、すべては政治家たちの保身と醜いエゴによって奪われた。


手札は完全に尽きた。俺たちが十七ヶ月組み上げてきた常識的な計算式は、いかに変数を代入しようとも、いかにパラメーターを弄ろうとも、すべて計画の完全なる終了という、残酷で絶対的な解しか弾き出さなかった。


だが、この息が詰まるような絶望のどん底で、疲労で焼き切れそうになっている俺の脳髄の最深部には、一つの忌まわしい考えが、静かに、しかし確かな熱量を持って発生しつつあった。


それは、あまりに無謀で生存確率が絶望的に低いがゆえに、俺自身の脳が、これだけはダメだと直感に訴えてくるプランだった。


三十三分の光の通信タイムラグが、予測不能なカオスの揺らぎを生み出し、星を崩壊させた。


ならば――俺自身がナノマシンの制御コアと共に小惑星へ直接赴き、タイムラグ・ゼロの現地で、俺自身の脳波で空間を直接書き換えればいいのでは。


しかし、宇宙空間においてそれを実行するには、最大の壁である絶対的な距離が立ちはだかる。


通常、五万トンの牽引艦はおろか、数百トンの小型船であっても、星の海を渡るには莫大な推進剤を燃やして加速し、目的地で同じだけ燃やして減速するという、重力と慣性に縛られた冗長な軌道を這い進むしかない。


だが、もしトポロジカル慣性共鳴則を、俺自身が乗り込む船そのものに適用し、機体の慣性を極限までゼロにしたらどうなるか。


慣性という宇宙の枷を完全に失った物体は、わずかな推力ベクトルを与えるだけで、物理法則の限界を容易く突破する。


シミュレーターが弾き出したその船の最高速度は、光速の〇・二パーセント(秒速約六百キロメートル)という、人類の航宙史においてかつてない悪魔的な絶対速度だ。


この異常な速度ならば、地球圏から数億キロ彼方の小惑星帯まで、たった十二日間で突き刺さるように到達することが可能だ。


そして、現地で星の慣性を相殺し、目標の最終パーキング・ポイントまで、星ごと空間を滑らせて移動させるのに六日間。 十二日足す六日で、合計十八日。


残り二十四日というタイムリミットに対し、残された猶予は六日間。


この六日間で船を準備し、宇宙へ飛び立てば、期限の最終日ギリギリに結果を出すことは理論上可能となる。


しかし、俺がこの計画を誰にも言わず、この六日間ずっと俺の頭の中枢に封印していたのには、明確な理由があった。


それは、あまりにも不確定要素が多すぎる、完全な自殺行為だからだ。


慣性をゼロにして光の〇・二パーセントという規格外の速度で空間を滑るということは、従来のニュートン力学に基づいた軌道計算が一切通用しなくなることを意味する。


宇宙空間は平坦な真空中ではない。太陽系の巨大な重力井戸、各惑星の猛烈な公転運動とそれに伴う重力干渉、そして通常空間と慣性ゼロ空間の間に生じる微細な次元の歪み。


それらすべての複雑怪奇な変数を加味し、出発のその瞬間に、一分の狂いもない完璧な一本の航路パスを設定しなければならない。


一度加速を始めれば、途中でブレーキを踏むことも、ハンドルを切って軌道を修正することも物理的に不可能となる。


もし初期設定の次元空間補正や出発角度に、ごくわずかな計算誤差があったなら。


光速の〇・二パーセントという圧倒的な速度は、その微細な初期誤差を、十二日間の航行中に数千キロメートルという絶望的な距離のズレへと一瞬で増幅させる。


目的地とは別の小惑星にたどり着くだけならまだいい。時間軸が外側に外れれば俺はそのまま木星の外側、もしくは太陽系の外縁、あるいは冷たい虚空の果てへと永遠に弾き飛ばされる可能性だってある。


二度と月へ帰還することのできない、完全な宇宙の迷子だ。


誰にも見つけられず、生きたまま冷たい鉄の棺桶に閉じ込められ、酸素が尽きるまで終わりのない絶望を味わいながら死ぬ。


本来、このステラ・ウィンチ計画そのものが、まさに無人機を使ってそのトポロジカル慣性共鳴則による超高速航法と次元空間の歪みについて、データ収集し、安全な航行モデルを検証・確立するための初期実証実験なのだ。


それを、一度の検証データすら得られていないまま、いきなり生身の人間が乗り込み、急造の準備で、ぶっつけ本番で実行するなど、科学者としては正気の沙汰ではない。


人間の限界を遥かに超えた狂気だった。


だが、もはやこれしか、ミナの未来を救う道は残されていない。


俺は、床に落としていた視線をゆっくりと上げ、重い身体を引きずるようにしてコンソールから立ち上がった。


俺は、怪訝な顔でこちらを見るセリアとバルカスに背を向け、管制室の重い防爆扉を開けた。


この狂気を実行に移す前に、俺にはどうしても、けじめをつけておかなければならない人がいた。


居住区角の上層。微かなオゾンの香りと、規則正しい生命維持装置のリズムが支配する無菌のクリーンルーム。


重い気密ドアを開けると、ミナはベッドの上に身を起こし、静かに窓の外のどす黒い地球と、冷たい星空を見つめていた。


厚い透明セラミックの向こうには、三十年後に完全な死の星となる月面の荒野が広がっている。 俺の足音に気づき、彼女は振り返って柔らかく微笑んだ。


「お兄様……。この一週間ずっと怖い顔。やっと毎日来てくださるようになったのに、まだ、この前のことを引きずっているの?」


俺は何も言わず、ベッドの傍らに膝をつき、シーツの上にある彼女の細く冷たい手を、両手で強く、壊れ物を扱うように包み込んだ。


鼓動が早鐘を打ち、喉が干からびるように渇いている。


「ミナ。……すまない。俺は君に、どうしても謝らなければならないことがある」


ミナの柔らかな笑顔がスッと消え、澄んだ瞳が不安げに揺れ動いた。


「前も言ったが、予算は、あと二十四日で完全に打ち切られる。議会は三十年後の人類の死よりも、目先の選挙を選んだ。追加の猶予も予算も、何一つもらえなかった」


俺は言葉を一つ一つ絞り出すように区切りながら、彼女の瞳から目を逸らさずに言った。


これから口にする言葉が、彼女の心をどれほど深く切り裂くか分かっていた。


「……だから、俺自身が直接、船に乗って星を動かしに行く」


「……え?」


ミナが小さく息を呑み、その華奢な肩がビクッと跳ねた。


「俺が乗り込む船自体の慣性を極限まで無くすことで、光の〇・二パーセントという悪魔的な速度を出す。それで小惑星まで飛び、現地で俺が直接ナノマシンを操作して、二十四日以内に星の移動を成功させる。通信遅延のない現地での直接操作……これしか、もう未来を繋ぐ方法がない」


ミナの瞳孔が激しく揺れ、青白い頬からさらに血の気が引いていくのがわかった。


「待って……待ってください、お兄様。何を言ってらっしゃるの? 自分で船に乗るって……そんなこと、今まで一度もなかったじゃない?」


彼女の声が震え出し、俺の手を氷のように冷たい指で縋るように強く握り返してきた。


「光の〇・二パーセントって……私にはよくわからないけれど、けれど危険なことは分かりますわ……。もし、少しでも計算が狂ったら、お兄様はどうなるの?」


「……二度と、地球圏には帰れなくなる。永遠に宇宙を彷徨い続けることになる。下手をするとどこかの惑星にぶつかって、その瞬間に消滅する」


俺は残酷な真実を、一切の嘘を交えずに告げた。


「船の慣性を無理やりゼロにして、超高速で飛ぶんだ。出発時の初期設定の次元補正に、少しでも誤差があれば、宇宙空間で途中でブレーキを踏むことも、軌道を修正することもできない。本来なら、無人機で検証しなければならない技術なんだ。それを、ぶっつけ本番でやる。……絶対に生きて帰れるという保証は、どこにもない」


「ダメよ!!」


ミナは悲鳴のような、喉を切り裂くような声を上げ、ベッドから身を乗り出して俺の胸にすがりついた。


彼女の細く弱々しい腕が、必死に俺の背中へ回り、決して行かせまいと強く、強くしがみつく。


「お願い、行かないで! なんで……なんでお兄様が、そこまでしなきゃいけないのですか!?死にに行くようなものじゃない!」


「ミナ、聞いてくれ……」


「聞きたくありません! 酸素が尽きるなら、私と一緒にここで息を止めてくれるって、ずっと私のそばにいてくれるって言ったじゃないですか!なのに、どうして……!」


彼女の熱い涙が俺の白衣を濡らし、嗚咽が静かな病室に響き渡る。


「どうして私を置いて、そんな暗くて冷たい宇宙に、二度と帰ってこれないかもしれないところに、自分から行くのですか! 一億人の命なんてどうでもいい! 私はただ、お兄様が隣で生きていてくれれば、それでいいのです!」


彼女の痛切な叫びが、俺の胸をナイフのように何度も何度も抉る。


三十年後に一緒に息を止めて、静かに死を受け入れる。それは確かに、ある種の甘美な逃避だった。絶望を受け入れ、残された時間を彼女と静かに過ごすのは、一番楽な選択だ。


だが、俺は彼女の震える背中を抱きしめ返し、搾り出すように言った。


「三十年間、君と一緒に穏やかに過ごすことは、とても魅力的だ。……でも、俺は嫌なんだ。俺は、君にどうしても、もっと長く生きてほしい」


「長生きなんていらない!!」


ミナが俺の胸を叩き、激しく泣き叫んだ。


「私が欲しいのは永遠の命なんかじゃありません!お兄様がいない未来なんて、三十年生き延びたって何の意味もないのよ! 私を迷子にしないでください……!」


「ミナ!」


俺は彼女の肩をそっと掴み、涙でぐしゃぐしゃになった顔を無理やり上げさせた。


「俺は技術者だ。俺は、この絶望的な状況を覆すための、最後に残されたたった一つの鍵なんだ。一パーセントでも可能性があるなら、そこから逃げることはできない」


俺の声も、抑えきれずに激しく震えていた。


「俺の大義名分は人類の救済なんかじゃない。これは俺の完全なエゴだ! 俺は、君がこの月の空の下で、風を感じて笑える未来を、どうしても俺の手で作ってやりたいんだ! 俺の命と引き換えにしてでも、君の生きる未来を作りたいんだ!」


「いやっ……! そんな未来、お兄様が帰ってこないかもしれない未来なんて、私はいらない! どうして私の気持ちをわかってくれないのですか!」


ミナは激しく首を振り、再び俺の胸に顔を埋めて子供のように泣き続けた。俺の白衣を握りしめる彼女の指が、白く鬱血している。


どれほどの時間が流れただろうか。


彼女は泣き続けた。


だが、彼女は誰よりも知っているのだ。俺が一度決断を下した以上、どれほど危険な賭けであろうと絶対にそれを曲げないことを。


俺の狂気じみた技術者としての矜持と、彼女への深い愛情が、その決断の絶対的な根底にあるということを、彼女は痛いほど理解してしまっていた。


やがて、彼女の嗚咽が少しずつ静まり、しゃくり上げながら、ゆっくりと震える手で体を離した。


涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔。赤く腫れ上がった瞳。


それでも彼女は、必死に唇を噛み締め、俺の顔を真っ直ぐに見つめ返した。


その瞳の奥には、弱々しい少女の、それでいて俺の覚悟を受け止めるために、覚悟を決めようとしている光が宿っていた。


「……私じゃ、どんなに反論しても、お兄様を止められないのね」


彼女は震える両手を伸ばし、俺の頬にそっと触れた。


冷たい指先が、俺の皮膚の温度を確かめるように這う。


「お兄様は、昔からずっとそう。一度決めたら、絶対に止まらない。……私が泣いてすがっても、お兄様は行ってしまわれる」


「……すまない、ミナ」


「謝るくらいなら……一つだけ、絶対の条件があります」


ミナの瞳から、最後の一滴の涙がこぼれ落ちた。


「絶対に、絶対に生きて帰ってきてください。星なんか途中で捨ててきてもいい、計画が失敗したっていい。ただ、お兄様が私のところに生きて帰ってきてくれることが、何よりも一番大切なのです。……宇宙で永遠の迷子になんてなったら、私、絶対に許しません。約束できないなら、ここから行かせません」


彼女は再び涙をこぼしながら、小さな小指を差し出した。


俺は彼女の小指に自分の小指を絡め、固く誓った。


「ああ、約束する。宇宙の果てからでも、何があっても必ず君の元へ、生きて帰ってくる」


俺は彼女の額に深く、長くキスをし、溢れそうになる自分の涙を必死に堪えて、立ち上がった。


背後で「気をつけてね」という震える声が聞こえたが、俺は決意が鈍らないよう振り返らずに気密ドアを抜けた。


もはや、迷いは一切なかった。


俺の命は、彼女との約束を果たすためだけに存在する。


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