16. 説得
あの絶望的な閃光が網膜を焼き尽くし、三十三分遅れの破滅の映像が途絶えてから、どれだけの時間が経っただろうか。
月の地下管制室には、プラズマ冷却器の微かな稼働音と、誰の口からも発せられることのない重く冷たい死の静寂だけが横たわっていた。
脳細胞を焼き切るような遠隔予測演算の代償として、俺の口からは一筋の血が床に滴り落ちていた。
だが、俺の胸の奥底で、エンジニアとしての理性がまだ微かに、しかし確かな熱を持って燻っていた。
「……まだだ。まだ、終わっていない」
俺は震える腕に力を込め、ダイブ・シートから転げ落ちた冷たい床の上から、血を吐くような思いで立ち上がった。
コンソールに突っ伏していたセリアが、焦点の合わない虚ろな目でこちらを見上げる。部屋の隅では、バルカスが頭を抱えたまま微動だにしない。
「失敗のデータは、俺の脳と月のメインフレームに完全に記録されている!」
俺は血走った目で、二人を、そして虚空を睨みつけた。
「通信遅延の壁の中で、ナノマシンの極限の干渉圧力が一兆トンの星の内部構造をどう変容させ、崩壊に至らしめるのか。その特異点発生の完全な予測モデルを、俺たちは手に入れたんだ! これは、トポロジカル干渉における最後の、そして最大のパズルのピースだ!」
俺はよろめきながらコンソールにすがりつき、言葉に熱を込めた。
「このデータを次世代の自律型AIコアに組み込めば、地球圏からの遠隔操作なんて必要なくなる! 現地でAIがリアルタイムに位相を同調させ、完全に空間の摩擦をゼロにできる! 理論は間違っていなかった。ただ、極限環境下での実証データが足りなかったんだ。……次は、絶対に成功する!」
「本気で言ってるの……? あの狸どもが、一度星を吹き飛ばした計画に、もう一度首を縦に振るわけがないわ……」
セリアが弱々しく首を振る。
「振らせるしかない! 月の酸素が三十年で尽きる現実は一ミリも変わってないんだぞ! 連中だって、自分たちが窒息するのはご免なはずだ!」
俺はボロボロになった白衣を乱暴に羽織り直した。
「議会に掛け合ってくる。このデータを叩きつけて、追加の予算と一年半の猶予をもぎ取ってくる。……絶対に、ここで諦めるわけにはいかないんだ!」
俺は極低温の地下深層から専用エレベーターに乗り込み、議員会館のある最上層――一億人の市民が偽りの夢を貪る真珠色のドームを見下ろす、白亜の最高議事堂へと向かった。
重厚なマホガニーの扉の向こうに広がるのは、議長のいる一室だった。
冷たく輝く大理石の床と、荘厳な金装飾が施された高い天井。そこには議員の代表であるウォルター議長が、退屈そうに座りながら、冷ややかな視線を俺に向けている。
彼の身を包むのは最高級の人工絹であり、その肌はナノマシンによる若返り処置で不自然なほど滑らかだ。
俺たち技術者が地下で血反吐を吐き、睡眠を削って宇宙のカオスと闘っていた十七ヶ月間、彼らはただこの無菌室のような安全圏で、権力闘争と票読みに明け暮れていたのだ。
「――以上が、ステラ・ウィンチ計画実証フェーズ失敗の詳細な経緯です」
俺は乾ききった喉から、かすれた声を絞り出した。
「三十三分の光の通信タイムラグの壁が、星の内部のカオスな崩壊をリアルタイムで相殺することを不可能にしました。……すべては、現場での自律制御を失ったことと、私の計算の甘さが招いた結果です」
俺は深く頭を下げた。
だが、すぐに顔を上げ、ふんぞり返る初老のウォルター議長を真っ直ぐに見据えた。
「我々は失敗しました。ですが、この敗北から得たデータは、一兆トンという莫大な質量の星を制御するための致命的な変数を完全に洗い出しました! この極限のデータと予測アルゴリズムを完全自律型のAIに組み込み、新たな牽引艦を建造すれば、通信遅延の問題は完全にクリアできる。次は確実に星を捕獲し、月の軌道へ持ち帰ってみせます!」
俺は証言台を強く叩き、魂の底からの叫びをぶつけた。
「だからこそ、もう一度チャンスを頂きたい! あと十八ヶ月……追加の予算と一年半の猶予さえ頂ければ、必ずこの計画を成功させ、この月の未来を救ってみせます!」
俺の必死の訴えが、静まり返った議長室に反響する。
だが、返ってきたのは、賛同の拍手でも、危機感を共有する言葉でもなく――ウォルター議長からの、ひどく冷たく、そして事務的な溜息だった。
「……ハルシュタット技師長。君の技術的な情熱と、得られた財産とやらには敬意を表そう」
ウォルターは手元のホログラム端末を無造作に指で弾きながら、まるで出来の悪い子供を諭すような、氷のように冷徹な声で口を開いた。
「だがね、君は一つ根本的な勘違いをしている。我々議会は、君たちの壮大な実験に無限の小切手を切る慈善団体ではないのだよ。我々が君に与えた条件は極めて明確だったはずだ。十八ヶ月以内に、小惑星の軌道を完全に制御下に入れたという実証結果を提出すること。……君はそれに失敗し、五万トンの牽引艦と高価な観測プローブ、そして莫大な国家予算を宇宙の塵に変えた。これは明白な事実だ」
「それは……不可抗力の重力異常が――」
「不可抗力だろうが何だろうが、我々政治家にとっては結果がすべてなのだよ、技師長」
ウォルターは薄い唇を歪めて笑った。
「君は先ほど、あと一年半の猶予と追加予算が欲しいと言ったな。……君は自分が何を言っているのか、分かっているのかね?」
「議長、これは政治の駆け引きの話をしているのではありません!」
俺は思わず声を荒げた。
彼の利己心と生存本能に訴えるしか、この計画を繋ぐ道はない。
「このまま計画を打ち切れば、三十年以内に、月のレゴリスが限界を迎え、一億人の市民を支える酸素と冷却電力が完全に枯渇するんですよ! それはあなた方議員も例外ではないはずだ! 何もしなければ、この真珠色のドームは三十年以内に完全な棺桶になります! あなた方だって、等しく窒息して死ぬことになる! だから――」
「三十年後の死、か」
鼻で笑うように言葉を遮った。
「君たち科学者はいつもそうやって、遠い未来の不確定な絶望を盾にして予算を無心する。いいかね、技師長殿。我々政治家にとっての永遠とは、三十年後ではない。三か月後に迫った統一セクター選挙までの期間なのだよ」
俺は息を呑んだ。
「三十年後の酸素枯渇など、今の市民にとっては実感の湧かない遠いおとぎ話に過ぎん。市民が求めているのは、今自分たちが繋がっている仮想空間の青空が、明日も明後日も綺麗に晴れていることだ。我々が莫大な予算を割いて君のステラ・ウィンチ計画を承認したのは、それが次回の選挙において、市民に我々が永遠の楽園を約束したとアピールするための、最も分かりやすい打ち上げ花火になるからだ」
ウォルターは、手元のホログラム・データをパチンと弾いて消した。
「君が見事に星を捕獲し、その壮大な映像を選挙戦のクライマックスで大々的に放映できれば、我々の勝利は盤石だった」
ウォルター議長が冷徹に言葉を引き継ぐ。
「だが、君は星を花火のように宇宙の彼方で木っ端微塵に吹き飛ばしてしまった。もし君にさらに一年半の猶予を与えれば、当然次の選挙には間に合わない。それどころか、莫大な追加予算を注ぎ込んだ結果、またカオスが、などと言い訳をして失敗すれば、我々は野党から無能な科学者に血税を注ぎ込み続けた愚か者として糾弾され、失脚しかねない」
議長の目が、蛇のように細められた。
「我々にとって、君の計画はもはや政治的価値がゼロなのだよ。市民への選挙演説の目玉にならないのであれば、これ以上リスクを冒して続ける意味などどこにもない。……我々にとって、三十年後の窒息よりも、次回の選挙での失脚のほうが、よほど現実的な死だ」
「……選挙の票のために、人類が生き残るための唯一の希望をドブに捨てるというのか!?」
俺は激しい怒りで全身の血が沸騰するのを感じ、身を乗り出した。
周囲の警備ドローンが一斉に俺を警戒する。
「三十年後、あなた方の首を絞めるのは、野党でも市民の不満でもない! 真空という絶対的な物理法則なんだぞ!! 自分が三十年後に窒息して死ぬ現実から、目を背けているだけじゃないか!」
「若き天才技師くん。君はやはり、現実というものを理解していないね」
ウォルター議長が、哀れむような目で俺を見下ろした。
「三十年後……その頃には、ここにいる我々の大半はとうに政界を引退し、最上層の特権階級用コールドスリープ施設で優雅に眠りについているか、火星のプライベート・ドームへ移住を済ませているさ。酸素が尽きて苦しむのは、地下で仮想現実にチューブを繋がれたままの、無知で怠惰な一億人の下層市民だけなのだよ」
俺は言葉を失い、絶句した。
彼らの傲慢なエゴイズムは、俺の想像を遥かに超えていた。
彼らは最初から、月と人類の未来など本気で救う気はなかったのだ。
自分たちの目先の権力と保身、そして特権階級としての逃げ道。それさえ確保できれば、一億人が窒息死しようが、科学の真理が潰えようが、どうでもよかったのだ。
俺が命を懸けて守ろうとしたミナの未来を、彼らはただの数字以下のゴミとして扱っている。
「市民に絶望を与えてパニックを起こさせるより、我々は別の代替案を提示する。例えば、市民のVRダイブ時間を更に伸ばし、仮に終焉が来た際には、安らかに仮想世界の中で永遠に眠っていただこうじゃないか。そちらの方が、失敗した星捕り計画よりよほど現実的で、支持率の落ちない堅実な政策だ」
太った議長が、勝ち誇ったように付け加えた。
「……ふざけるな」
俺は奥歯を噛み砕きそうなほど食いしばり、低い声で唸った。
「俺たちの血反吐を吐くような計算も……ヘイムダルが砕け散る瞬間まで送り続けてくれた未来へのデータも……ミナの……未来の子供たちの命も! 全部お前たちのくだらない椅子取りゲームのオモチャだったって言うのか……!」
「言葉を慎み給え、ハルシュタット技師」
ウォルター議長は不快そうに顔をしかめ、冷酷な最終宣告を下した。
「ここにはいないが議会の結論は満場一致で既に決定している。しかし我々も契約を反故にするような野蛮人ではない。十八ヶ月の期限が切れるまでの残り時間は、法的手続きに則り、計画の維持に必要な最低限の予算とサーバーの電力使用権を認めよう。……だが」
議長は手元の木槌を手に取り、大理石の机にコンッと冷たい音を響かせた。
「期限の午前零時をもって、ステラ・ウィンチ計画の全権限を剥奪し、一切の予算を凍結、プロジェクトチームは即刻解散とする。追加予算は一クレジットたりとも出さない。再考の余地はない。……ご苦労だったね、技師長。本日はこれまでとする。残りの一ヶ月で、せいぜい美しい報告書のまとめでも書くことだ」
部屋を出た俺は廊下を歩いていた。握りしめた拳の爪が手のひらに食い込み、血が滲んでいることにも気づかなかった。
論理も、情熱も、科学的真理も、政治家のどす黒い自己保身とエゴイズムの前では、ただの無力なノイズに過ぎなかったのだ。
第一理学塔の地下へ向かう専用エレベーターの中。
極低温の地下深層へと下降していく箱の中で、俺の心は完全に折れ、黒く冷たい絶望の底へと沈んでいた。
残り、一ヶ月。 たった三十日で何ができる?
プローブの一隻も建造できない。新たな星の観測もできない。
議会がこの三十日間に予算を出すと言ったのは、単なる契約上の事務処理に過ぎない。
もうお前たちは何もできないだろう、という残酷な嘲笑だ。
宇宙の絶対的な物理法則と、人間の底知れぬ愚かさ。その二つの巨大な壁に完全に押し潰され、俺の頭脳は完全に機能停止に陥っていた。
『三十年後に酸素が尽きるなら、その時は二人で一緒に息を止めればいいわ』
ミナの優しく、儚い笑顔が脳裏に浮かぶ。
俺はあの時、必ず彼女の未来を繋いでみせると約束した。
約束を守るため、彼女の見た夢から相対力学のヒントを得て、ドッキング計算を成し遂げた。セリアが血を吐くような思いで軌道を編み上げ、バルカスが意地と誇りをかけてフレームを組んだ。
そのすべてが、議員たちのくだらない保身のために、あと三十日でゴミ箱に捨てられるのだ。
「俺は……俺たちは、何のためにここまで……」
俺はエレベーターの冷たい金属の壁に額を押し当て、呻き声を漏らした。
物理法則の壁なら、どれほど高くても知性と計算で越えられた。
だが、人間の底知れぬエゴと、政治という名の自己保身の壁は、俺の数式ではどうにもならなかった。
エンジニアとしての絶対的な敗北感と無力感が、俺の魂を真っ黒に塗り潰していく。
やがてエレベーターが最下層に到着し、重い足取りで第七重工業区画のラボへ戻る。
重厚な防爆扉を開けると、そこには暗転したモニターの光に照らされ、絶望に沈むセリアとバルカスの姿があった。
数時間前まで、天才たちが狂気じみた熱量で宇宙の法則に喧嘩を売っていたあの場所は、今はまるで墓場のように静まり返っている。
俺が入ってきた音に気づき、セリアがゆっくりと顔を向けた。
俺の表情、そして俺が纏っている絶望の空気を見て、彼女はすべてを悟ったように、自嘲気味に口角を歪めた。
「……その顔を見れば、わかるわ。追加予算と期限の延長は、もらえなかったのね」
セリアの声は、ひどく掠れていた。
俺は唇を噛み締め、深く、重く頷いた。
「……ああ。連中は三十年後の死より、三か月後の選挙を選んだ。俺たちに与えられた猶予は、計画の当初の期限である残り三十日間だけだ。その後、ステラ・ウィンチ計画は永久に凍結される。……再考の余地はないと、完全に叩き捨てられた」
「残り一ヶ月……ハッ」
バルカスが顔を上げ、空虚な笑い声を漏らした。
「船のフレームすら焼けねえ期間だ。議会のジジイどもは、相変わらず物理法則を魔法か何かと勘違いしてやがる。いや……俺たちがもう何もできないと分かってて、事務的に最後通牒を突きつけてきやがったんだな」
「選挙の目玉にならないものは切り捨てる。連中らしい、合理的で最低な判断ね」
セリアも顔を上げず、机に顔を伏せたまま力なく呟いた。彼女のいつもの不敵な響きは完全に失われ、ただ深い徒労感だけが滲んでいた。
「俺たちが十七ヶ月……命を削って積み上げてきたものは、結局何だったんだろうな」
バルカスが、油と煤にまみれた巨大な両手を見つめながら、絞り出すように言った。
「あのアトラスの骨組みも、ヘイムダルのセンサーも……。三十分遅れのデータに縋って、未来を書き換えようとしたあの狂気の時間も。全部、星屑と一緒に消えちまいやがった。挙げ句の果てに、政治家どもの選挙の道具にもなれずにお払い箱だ」
俺は何も答えることができなかった。
掛けるべき言葉が見つからない。俺の傲慢な遠隔操作が星を爆発させ、政治家を説得することもできず、彼らの努力をすべて無に帰したのだから。
「……すまない」
俺は絞り出すように呟き、自らのコンソールに崩れ落ちるように手をついた。
両手で顔を覆う。これ以上、何を計算すればいいのか。どんな数式を書けば、この絶望を覆せるのか。
地下管制室は、プラズマ冷却器の微かな稼働音だけが響く、冷たく暗い墓標のようだった。
モニターの端で、赤く点滅するカウントダウン・タイマーだけが無慈悲に時を刻み続けている。 計画終了まで、残り二十九日十五時間三十八分。
星を失い、船を失い、時間と予算すらも奪われた俺たちには、もう逆転の数式を書き込むキャンバスすら残されていなかった。沈黙のラボを、息が詰まるような深い絶望と完全なる無力感が包み込んでいた。




