第6話 スイの推理
その翌日。兄が亡くなって、十五年目の夜だった。
兄の命日の真夜中に、僕はふたたびカフェ:星月夜を訪れていた。
からん、とベルが鳴る音。開いたドアの向こうでは、切ない響きのレコードが小さく鳴っている。いくつもの青い星型ランプがやわらかな光を投げかけて、カフェの中は変わらぬ静謐に満ちていた。
最奥のカウンターで、スイが本を読んでいる。僕の到来を見留めて、彼はぱたりと本を閉じた。美しい瞳がすうっと持ち上がって、僕を見る。
「いらっしゃいませ。お一人さまですね?」
「……うん」
僕はふらふらとカウンターに歩み寄ると、美しい黒壇の椅子を引いて、崩れ落ちるようにどさりと腰を下ろした。
ネクタイをゆるめ、ため息をつく。真鍮製の眼鏡の奥で、スイはどこか嬉しそうに目を細めた。
「今日はスーツなんですね。良く似合ってますよ」
「それ、皮肉?」
「まさか。本心です。ああ、大人なんだなあって感じがする」
「……やっぱり、皮肉じゃないか」
「?」
スイが不思議そうな顔をする。僕は投げやりな気持ちで、シャツの一番上のボタンを外した。
「残業してたら、終電を逃しちまって。ここがあって助かった」
「お疲れさまです」
「別に。自業自得だから」
投げやりな気持ちでぼそりと言うと、スイがかすかに小首を傾げる。僕は自嘲的な笑みを浮かべた。
「色々考えてたせいで、昨夜は一睡もできなくてね。明け方になってうとうとして、とうとう寝坊してしまった。どれだけ眠るのが嫌いでも、睡眠不足に苛まれても、それだけはしないようにって思ってたのに……」
気遣わしげなスイの眼差し。それから逃げるように目を逸らして、僕はぼそぼそと続けた。
「それでこっぴどく怒られて、ついでとばかりに先輩のミスまでおっ被されて、でも反論なんかできるわけがない。せめて自分から残業を申し出て後始末をしていたら、終電はとっくに出てた、ってわけ」
「そうですか……」
頷く。僕はぐったりと背を丸めると、低く呟いた。
「いつもそうだ。どんなに頑張っても、睡眠不足のせいで失敗ばかり。僕だって眠ろうとしたさ。でも、悪いことばかりが頭の中を巡って、どうしてもうまくできない」
「……」
絞り出すような僕の言葉に、スイは何も言わなかった。ただ静かに息をつくと、背筋を伸ばして僕に微笑みかける。
「ご注文は、コーヒーでよろしいですか?」
「……うん」
ぼそりと相槌を打つ僕に、スイはそれ以上なにかを聞くこともなく、流れるような手つきでコーヒーを挽き始めた。干渉しすぎない態度が、今はやけにありがたかった。
「どうぞ」
そっとカップが差し出される。青と金で縁取りされた、星座の模様の綺麗なカップ。その中には、淡い茶色のミルクコーヒーが揺れている。
(――あれ?)
「僕、ミルク入れてなんて言ったっけ」
「なんというか、胃が痛そうな顔をしていましたので」
「よく見てるね」
「見なくてもわかりますよ、さすがに」
「……僕、そんなにひどい顔してる?」
スイは無言で頷いた。重々しい表情だ。
「色々考えていたせいで、とおっしゃっていましたが……何かあったのですか? 目の下の隈もひどいです」
「……ああ、うん……」
ずっ、とミルクコーヒーをすする。砂糖たっぷりの甘いミルクコーヒーは、僕の心をやわらかく温めてくれた。
ふーっ、と息を吐く。どこかで聞いたようなレコードの音楽に、どこかで嗅いだことのあるようなスイの香り。懐かしいミルクコーヒーの味が甘く心に染み込んで、ほどよく暖められた店内には、淡いブルーの光が満ちている。
なんの根拠もなく、ここは大丈夫な場所だ、と思った。だからだろうか、思ったよりあっさりと言葉が出た。
「――わかったよ。兄の死にまつわる謎が」
ぴくり、とスイが眉を持ち上げる。その端正な顔を見返して、僕は疲れたように笑った。
「やっぱり、兄は僕のせいで死んだんだ」
語尾が震えるのは避けられなかった。情けない顔で笑う僕に、スイはただ静かに尋ねる。
「どうしてそうお考えに?」
やわらかな声。僕は曖昧に「うん」と呟いて、ミルクコーヒーを一口飲んだ。ほわりと温かい余韻が、こわばった喉をゆるめていく。
「スイくん、兄の命日はふたご座流星群の日だった、って言ってたよね。よくニュースでも話題になるくらい有名な流星群だ、とも」
もし僕が癇癪を起こさなければ、あの夜、家族みんなで天体観測をしていた世界もあったのかもしれない。
苦い気持ちを噛み締めて、僕は続けた。
「兄は多分、流星を見ようとして、寝る前に窓の外、夜空を見上げたんだと思う。兄の部屋は、僕の部屋のちょうど真下だった。最期の夜、兄が空を見上げたとき……そこにはなにが見えたと思う?」
スイが控えめな声で言う。
「……あなたのノート、ですか?」
「その通り」
僕は自嘲的に笑った。
「いくらノートを枝と一緒に吊ったからって、隠したことにはならない。下のほう――兄の部屋から見上げれば、すぐにわかってしまう。ましてやノートの色は白だ。夜闇の中、それはとても目立ったことだろう」
「ええ、そうでしょうね」
スイの反応的に、今のところ僕の推理は正解らしい。
僕はますます自嘲の笑みを深めて、続けた。
「たぶん、兄はそれが我慢ならなかったんだ」
「――え?」
きょとり、とスイが目を丸くする。
僕はカップのふちを指でなぞりながら、絞り出すように言った。
「あの樫の木は、兄にとってとても大切なものだった。兄は僕の行為が許せなかったんだろう。だから――」
「ベランダに出て、ノートを回収しようとした、と?」
頷く。
しかしスイは眉を寄せた。
「なぜそう思ったんです? ベランダに出た理由は他にも考えられるじゃないですか」
「いや。兄はノートを取ろうとして、そして死んだ。そうとしか考えられない」
僕の断言に、スイは口を噤む。その端正な顔をじっと見つめて、僕ははっきりと言った。
「たしかに、兄は心臓が弱かった。でも、母親から聞いてわかった。真冬のベランダにちょっと出たくらいで発作が起こるほど、兄の体調は切迫した状態ではなかった」
「でも、発作は実際に起こったんですよね」
「ああ。それには明確な原因があったんだ」
そこまで言うと、僕は一瞬だけ息を詰める。そして、すっ、と小さく吸って、言った。
「――手すりだよ。ベランダの」
かつて育った家、二階のベランダを思い出しながら、僕はできるだけ淡々と言った。
「真冬、それも深夜のベランダだ。金属製の手すりは冷え切っていた。樫の枝に手を伸ばしたとき、兄はベランダから身を乗り出したはずなんだ。そのとき、兄の胸板――心臓は、氷のように冷えた手すりに押し付けられて……」
「……急激な温度差のショックで、心臓発作が起きてしまった」
「ああ、そうだよ」
ぽつりと呟く。
「そのとき、兄は掴んでいたノートを手放して……倒れた。だから僕のノートは地面に落ちていたんだ」
そうささやくと、僕はカウンターに両肘をつき、頭を垂れてうなだれた。
「兄は僕のせいで死んだ。僕が樫の枝なんかにノートを吊るさなければ、兄は死なずに済んだんだ。僕が眠ったから悪いことが起きたんじゃない。もっと前、僕がノートを吊るしたせいで、あんなひどいことが起こったんだ……」
肺の中の全てを吐き出すようにして、言う。弱々しい声が青く静かな店内に散って、僕は震える呼吸を繰り返して――それでも、スイは返事をしなかった。
長い、長い沈黙があった。レコードの物悲しげな音だけが、すすり泣くように響いている。僕はそれをなにかの断罪だと思って、甘んじて受け入れた。
けれど。
「……半分、ですね」
「え?」
スイの呆れたような、なだめるような声に、僕は思わず顔を上げた。
やわらかな瞳が、真鍮製の眼鏡ごしに僕を見つめている。
「正解したのは半分だけ。残りの半分は、とんだ見当違いです」
「で、でも――それしか考えられないじゃないか! 兄がわざわざ深夜に僕の部屋に侵入して、ベランダで発作を起こした理由なんて、あのノートを奪い取ろうとしたとしか思えない!」
言い募る僕に、スイはふっと目を細めた。そして、ほっそりした指先が、真鍮製の眼鏡を外す。
かちり、とカウンターに眼鏡を置く音。なにも遮るもののなくなった、美しい眼差しが、静かに僕を見つめ返した。
「いいですか。嵌まっていないピースがあるんですよ」
「ぴ、ピース?」
「はい。雪と、写真です」




