第4話 兄の思い出②
「いいお兄さんじゃないですか」
少年が、眉を下げてやわらかく笑う。
僕は苦笑して「今思えばそうだね」と相槌を打った。
「でも、それからも兄との関係が変化することはなかった」
「心を開けなかったんですね」
「ああ。兄は変わらず優しかったのにね。両親も僕の扱いに苦心していたようで、腫れ物に触るような態度が、ますます僕を追い詰めた」
「それは……誰にとっても気の毒な話です」
僕は苦く微笑むと、首を左右に振ってみせた。
「いや。あんなのは、ただの拗ねた子どもの甘えだったよ。今思えば、父も兄も、本当に僕を歓迎してくれていたのは、どう考えても明らかだったのに」
「七歳の子どもに、そこまでの視野を要求するほうがどうかしていますよ。あなたのせいじゃありません」
「……年上みたいなことを言うね、きみは」
僕は眉を下げて笑う。少年もまた、穏やかに口の端を持ち上げた。
「とにかく、僕は新しい家庭にまったく馴染めなかった。父や兄の顔を見るのも怖かった。自己主張もろくにできず、いつも下を向いて、自分の世界に逃げ込んでいた」
「自分の世界?」
「……物語だよ」
ぽそりと言うと、少年はなぜか嬉しそうに言った。
「もしかして、小説を書いていたんですか」
「小説っていうか、童話かな。ただの現実逃避、子どものお遊びだよ」
ちら、と皮肉げな視線を向ける。少年はあからさまに「そんな言い方をしなくても」という顔をしたが、僕は気にせず続けた。
「八歳の誕生日に、両親が万年筆をプレゼントしてくれたんだ。万年筆で絵を描くってのも、なんか違うだろ。それで何でもいいから文字を書こうと思って、僕は本が好きだったから」
「自分でも書いてみようと思ったんですね」
頷く。
「物語を書いている間は、現実のことを忘れられた。童話の中で僕は亡国の王子にもなれたし、勇ましい騎士にもなれたし、特別な力を持つ魔法使いにもなれた。人の顔を見ることすらできない、みじめな自分から離れられた」
「素晴らしいことじゃないですか」
「まあ、結果的にはそうかもしれないけど……あの誕生日は、僕の中では苦い思い出だったからなあ」
「苦い思い出?」
少年が小首を傾げる。僕は頷くと、ことり、とカウンターに両肘をついた。
「プレゼントをもらって、誕生日ケーキを食べたあと、皆で庭に出たんだ。庭には大きな樫の木があって、そこで身長測定をした。幹に背の高さを刻むんだ。この家ではそれが誕生日のお約束らしくて、幹にはいくつもの傷がついていた」
「なるほど。微笑ましい思い出ですね」
「そうかもしれない。でも、僕にとってはまったくそうではなかったんだ」
「というと?」
少年が問うような眼差しをする。
僕はちらりと少年を見て、苦笑した。
「その樫の木は、兄が生まれた年に植えられた特別な木だった。兄がどれだけその木を大切にしていたか、僕はよく知っていた」
思い出すと、今でも胸が苦しくなる。
僕の背の高さに傷をつけて、両親は笑っていた。きみもうちの家族だね、と兄も笑っていた。笑っていないのは、僕だけだった。
「兄の大切な木に、僕のせいで傷がつけられた。まるでひどい罪を犯したような気分になって、でも、僕はそんなこと頼んでいない、という反発心もあって、感情がぐちゃぐちゃになって……」
「子どもの心は繊細ですから。そういう気持ちにもなりますよね」
「そういうものかな。まあ結局、万年筆をもらったこと以外に、嬉しいことのない誕生日だったよ」
ふ、と僕は笑ってみせる。少年はどこか気遣うような瞳で僕を見た。その眼差しから目を逸らして、僕は言う。
「とにかく、その万年筆がきっかけで、僕は物語という逃避先を得た。ただ――事態はそれだけでは終わらなかったんだ」
※
誕生日から半年ほど経った、冬のこと。
学校から帰った僕は、リビングのローテーブルで物語を書いていた。没頭していた僕は、玄関のドアが開く音に気づかなかった。
「なにしてるの?」
急に背後から兄の声がして、僕はびくっ、と身を強張らせた。慌てて身体でノートを隠す。
兄は不思議そうな声で、そっと僕のほうに身をかがめた。
「宿題? それなら手伝おうか」
「ち、ちがう……」
声が震える。このノートは、僕にとっての聖域だった。誰にも見られたくない、触れられたくない、僕の心のもっとも柔らかい部分だったのだ。
縮こまって震えている僕に、兄は優しい声で語りかける。
「そうなの? 宿題じゃないなら、お絵描きとか?」
そう言って、僕の頭を撫でようとする兄。
「ッ――さわるな‼」
ぱしっ、と乾いた音。僕は反射的に、兄の手を強く払い除けていた。
その勢いで、ノートがばさりとローテーブルから落ちる。白い表紙がめくれて、中の文字があらわになった。
兄がノートを拾い上げる。
「これ……お話? トーマくんが書いたの?」
「かえせ!」
ばっ、とノートを奪い取って、僕は必死にノートを胸元に抱え込んだ。
兄は目をぱちぱちさせていたが、僕が涙目になっているのを見て、床に膝をつくと、やさしい笑顔で僕に語りかけた。
「勝手に見ちゃってごめんね。まだ八歳なのに、こんなにたくさんの文章を書けるなんて、お兄ちゃんびっくりしちゃって――」
「――やめろよッ‼」
気が付けば、ものすごい大声で叫んでいた。兄がびくりと黙り込む。
ぐらぐらと心が煮えたぎる。突き上げる感情が抑えられない。今まで我慢していた全てが、一気に溢れ出したようだった。
僕はノートを抱えたまま、髪を振り乱して涙声で叫んだ。
「いいかげんにしてよ! いちいち何でもぼくに構って、うっとうしいんだよッ‼」
「トーマく――」
「ぼくは一度も頼んでない! ミルクコーヒーもいらない、宿題もいらない、家族になってなんて、そんなのぼくは頼んでない‼」
「っ――」
兄がひるんだように口を噤んだ。僕はぎゅうっと背を丸めて、目を閉じて、振り絞るように絶叫する。
「いらない、いらない、おまえなんかいらない‼ 今すぐどっか行っちまえ‼」
喉を枯らして全力で叫んで、それきり――シン、と辺りが静かになった。
兄はなにも言わなかった。ただ、呼吸すら忘れたように絶句している。いつまでも不慣れなリビングに静寂が降りて、時計の秒針の音だけが、こちこちと他人行儀な音を響かせている。
兄がどんな顔をしているのか、見るのが怖かった。だから僕は、じっと下を向いていた。
兄は――とても長い間、黙っていた。痛いほどの沈黙が、がらんとした室内をじっと満たしている。
そして、永遠に続くかと思われた静けさのあと、ふっ、と兄が息を吐く音が聞こえた。
目の前がかすかに陰って、兄の手が近付いていくる。兄は僕の頭を撫でようとして、けれどその手は僕に触れることなく離れて行った。
「……そうだね、その通りだ。ほんとうに……ごめんね」
それだけを静かにささやいて、兄の気配がついと離れて。そして、兄は無言でリビングを出ていった。
かちゃり、と閉まるドアの音。静かになる。
誰もいない部屋の中、僕はとうとう耐えきれず、肩を震わせて泣き始めた。
「っ……う、うっ、うぇええ……」
べそべそと涙をこぼす。ノートを抱えて、ひっくひっくと背を痙攣させて、僕はただ、リビングの床にへたりこんでいた。
泣きながら、強烈な感情が僕の中を荒らしていく。
――お兄ちゃんに、まるで相手にされなかった!
込み上げたのは、ひどく的外れな憤り。
子どもの癇癪を、大人が穏やかに宥めてみせただけ――そんな兄の態度が悔しくて、幼い自分が情けなくて、やるせなくて。感情がめちゃくちゃにかき乱されて、我慢できなかった。
今思えば、兄は本当に、僕が物語を書いたことに驚いていたのだろう。でも当時の僕は、ただバカにされたとか、侮辱されたとか、からかわれたとか、兄の態度をそんな風にしか受け取れていなかった。
ごしごしと涙を拭い、ノートを手に立ち上がる。僕は万年筆の蓋を閉めて、もう誰にも見つからないよう、ノートを服の中にしまった。
リビングを出て、兄の部屋の前を通り過ぎ、そろそろと二階に上がる。自室に入ると、僕は椅子を引っ張って、まっすぐにベランダに向かった。
――あいつはぼくの大事なものをブジョクした。
――だから、ぼくも同じことをしてやるんだ。
的外れな感情でいっぱいになった僕は、椅子の上に乗って、ベランダから身を乗り出す。冷えた手すりに上体をもたせかけ、手を伸ばした。
すると、ちょうど目の前にあった樫の枝に手が触れた。十五年の歳月を経て、樫の木は大きく育ち、二階からでも十分手が届く高さになっていたのだ。
ポケットから袋止めの針金を取り出して、ノートのリング部分と枝をきつく結ぶ。そっと手を離してみれば、白いノートはぶらりと樫の枝に吊るされた。
ふふん、と鼻息をつく。
(あいつの大事な木の中に、ぼくのノートを隠してやったぞ)
これでもう、誰にも僕の物語を見られることはない。そう思ったのだ。
満足気に腰に手を当てる。そのとき、びゅう、と冬風が吹いた。がさがさと枝が揺れ、白い表紙のノートがあらわになる。
「……これじゃあ、すぐにバレちゃうなあ」
僕はふたたび椅子にのぼると、樫の枝に手を伸ばした。ぐっと枝を引っ張る。そして力を込めて、ばきり、と枝を折った。
ばきばきと音を立て、僕はいくつもの枝を強引に折り取っていく。背の高さに傷をつけたときのことを思い出し、ひどい罪を犯しているような気になって、でも同時に、ざまあみろ、という気分にもなっていた。
(知らない、ぼくはわるくない! お兄ちゃんが悪いんだ!)
子供じみた反発の決意を胸に、さらに枝を折り取っていく。
十分な枝が集まったころ、僕はさらにポケットから針金を取り出して、ノートの周りを囲うように、枝をいくつもぶら下げた。
「……うん、これなら見えないよね!」
自信満々の当時の僕。だが、こんな隠し方では、見えないのは二階のベランダからだけで、下から見上げればノートの白はすぐに目についただろう。とはいえ当時の僕は子どもで、多角的な視野など持てるはずもなかった。
上機嫌な僕は、ふふふ、と不敵に笑ってみせる。
兄に仕返しもできて、さらにノートまで隠せるなんて!
(そう、ぼくはやったんだ!)
薄暗い達成感を胸に、僕は意気揚々とベランダから自室に戻っていった。兄と目も合わせないまま夕食を済ませ、お風呂に入り、半ばふて寝のように布団に潜り込み――
そして、その次の朝。
――僕の部屋のベランダで、兄の亡きがらが発見された。
あの朝のことは、今でも覚えている。
ベランダの冷たい床にへたりこむ僕の前で、父が必死の形相で心臓マッサージをしている。母は僕の肩を抱いて、大丈夫、大丈夫、と呪文のように唱え続けている。
その光景のただ中で、僕はただ、呆然と目を見開いていた。凍えきったくちびるから、震える声が絞り出される。
「……ねえ。ここ、ぼくの部屋のベランダ、だよね」
母は答えない。父はマッサージを続けている。
「お兄ちゃん、なんでここにいるの……?」
答えはない。ただ、大丈夫、大丈夫、と母の呪文が聞こえてくるだけだ。
「お兄ちゃん、僕を起こさなかった……」
心臓マッサージの音。母の震え声が、嗚咽に変わっていく。はらはらと、涙のようなぼたん雪。
目の前では、信じられないような光景が繰り広げられていて、現実感がまったく湧いてこなくて。
「ねえ――なんで?」
その疑問に答える人は、ひとりもいなかった。
十五年経った、今も。




