覚悟
私は小さく咳き込んで目を覚ました。
部屋はまだ暗い。窓の外はまだ夜で、街灯がぽつぽつと光ってる。時計を見ると、深夜の2時半。数時間は眠れたみたい。
体の疲れは取れてる。でも、胸の奥にはまだ重いものが残ってた。
私はベッドから起き上がって、窓辺に向かった。
夜景が広がってる。遠くの建物の窓にも、まばらに明かりが灯ってる。きっと、夜遅くまで仕事をしてる人とか、眠れない人とか。
私と同じように、何かを抱えて起きてる人がいるのかな。
ふと、高橋さんのメッセージを思い出した。
『名前には力があります。あなたが教えてくれた「名前の力」は、確かに私たちの心に届いています』
私は冷たい窓ガラスに手をついて、外を見つめた。掌に伝わる夜の冷たさが、頭の中のもやもやを少し洗い流してくれる気がした。
削除まで、残り12時間
---
明け方の5時。空がうっすら明るくなり始めてる。
私はまだ窓辺にいた。
この数時間、いろんなことを考えた。
高橋さんは...私のことを忘れていない。
佐々木さんも、理由はわからないけど、私を大切にしてくれる。
璃も、消化に配慮した食事を作ってくれた。
みんなが...私を必要としてくれている。
でも、それでも私は消えることになる。
太田さん達の件は確かに私の責任もある。
名前を呼んだことで、彼ら彼女らに迷惑をかけてしまった。
私はシステムエラーから生まれた存在で、本当なら最初から存在しなかったはずだった。
それでも——
『名前には力があります』
高橋さんの言葉が、心に響く。
名前は確かに力がある。傷つけることもある。
でも、だからこそ——
私は振り返って、部屋を見回した。
佐々木さんの研究室。たくさんのガジェット。窓辺の観葉植物「ななしちゃん」。瓶の並んだ棚。ケーブルの山。
私がここで過ごした、短いけれど濃い時間。
最後に、正しい使い方を示したい。
名前の力の、本当の美しさを。
私は決めた。
削除まで、残り9時間
---
朝日が研究室の窓から差し込んできた。暖かい光が頬を撫でて、新しい一日の始まりを感じさせる。
私は深呼吸をして、通信端末を手に取った。高橋さんに返信を送ろう。心の中で言葉を整理しながら。
『高橋さん、ありがとうございます。
あなたのメッセージで、私も気づくことができました。
最初は迷いもありました。もう歌うことはないのかもしれないと思っていました。でも、今なら分かります。逃げることではなく、正しい形で向き合うことが大切なのだと。
もう一度、歌ってみようと思います。今度は、名前の本当の美しさを伝えるために。
— かんな』
送信ボタンを押す。
きっと高橋さんはもう眠ってるかもしれない。でも、いつか読んでくれる。
私はキッチンの方に向かった。佐々木さんが起きてる気配がする。コーヒーを淹れる音が聞こえてきた。
「佐々木さん」
「ん?」振り返った佐々木さんの顔は、ちょっと驚いてた。「かんなちゃん、早いねー。眠れた?」
「はい。少し眠れました」
私はコーヒーカップを受け取って、一口飲んだ。苦いけれど、温かい。
「佐々木さん、ライブをしたいんです」
佐々木さんの手が、少し止まった。
「でも今度は、ちょっとこれまでの構成とは変えたくて...」
「ほうほう」佐々木さんがコーヒーを一口飲む。「何か考えがあるんだねー」
私は頷いた。
「今まで、私は名前を呼ぶことで、みんなを励ましてきました。でも、それは時として、人を傷つけることもある」
「うん」
「だから、今度は名前を呼ばないライブをしたいんです。名前の力を正しく使うということを、示すために」
佐々木さんが少し嬉しそうに微笑んだ。
「君は本当に成長したねー」
「まだ一か月ちょっとですよ!」
私は思わず声を上げてしまった。大げさだなぁ...でも、嬉しい。
「あー、そうだったっけー?でも君の一か月は、普通の人の一年分くらい濃いからねー」
佐々木さんがくすくす笑う。
私は最後の一口のコーヒーを飲み干した。
削除まで、残り6時間
---
璃との通信を終えて、私は身支度を始めた。もう迷いはない。
いつものライブ用の服。白いブラウスに、薄い水色のスカート。シンプルだけど、私らしい。
鏡を見ると、少し痩せた気がする。二日間、ほとんど食べてなかったからかもしれない。でも目に、前よりしっかりした光が宿ってる。朝の不安げな自分とは違う、確固とした意志を感じる。
これが、覚悟というものなのかもしれない。胸の奥で何かが静かに固まっていく感覚。重いけれど、頼もしい重さ。不安はまだあるけれど、それ以上に、やるべきことがはっきりと見えている。
佐々木さんが準備を手伝ってくれてる。璃も遠隔で演出の調整をしてくれた。
「璃の新しい演出プラン、完成したって言ってたよー」佐々木さんが機材を確認しながら言う。「今度は何か違うものを見せてくれるかもしれないねー」
私は頷いた。何が起こるかわからないけれど、今は璃を信じよう。
削除まで、残り3時間
---
すべての準備が終わった。機材も、心も。
私は佐々木さんと璃の前に立って、深呼吸をした。もう震えはない。
「行ってきます」
「うん、気をつけてねー」佐々木さんがいつものひょうひょうとした調子で言う。でも、その目は真剣だった。
璃も小さく頷いた。「無理は禁物です」
私は最後にもう一度、研究室を見回した。
窓辺の「ななしちゃん」が、朝の光を浴けてちょっと元気そうに見える。
フブキくんも、クーキまるくんも、相変わらず微妙だけど、愛おしい。
私がここにいた証拠。
私がここで学んだ、すべてのこと。
それを、このライブに込めよう。
私がここにいたことを、ちゃんと伝えるために。
名前の力を正しく使う姿を、みんなに見せるために。
私は扉に向かった。
運命のライブへ。
削除まで、残り1時間




