理由
削除まで、残り18時間
佐々木さんがコーヒーカップを持って戻ってきた時、私はまだ端末を握りしめていた。
「かんなちゃん、コーヒーでも飲む?」
いつものひょうひょうとした口調だけど、少し抑えめで優しい。心配してくれてるのが伝わる。
私は端末を机に置いて、振り返る。
「はい」
久しぶりに、素直に答えられた。
佐々木さんは別のカップにコーヒーを注いでくれる。湯気が立ち上って、いつものあの香り。
「どうだった?メッセージ」
「...温かかったです」
私はカップを両手で包む。熱い。でも、心地いい熱さ。
「みんな、私のことを忘れてなくて」
「そりゃそうでしょー」佐々木さんは自分のカップを持って、椅子に座る。「君の歌を聞いた人たちだからねー」
コーヒーを一口飲む。
私も真似して飲んでみる。少し苦いけど、温かい。胃の奥まで温まる感じ。
「佐々木さん」
「ん?」
「なぜ私を助けてくれるんですか?」
佐々木さんの手が、少し止まった。
「私はいろんな人に迷惑をかけて...管理局にも追われて、」
私の声が小さくなる。
「なのに、どうして」
佐々木さんはコーヒーカップを見つめて、しばらく黙っていた。
「んー」
彼は困ったような顔をして、髪をくしゃくしゃっと掻く。
「君が歌ってるのを見てると、何だか...嬉しくなるんだよねー」
「嬉しく?」
「うん。君が一生懸命で、真っ直ぐで」佐々木さんはコーヒーを一口飲む。「今ここにいる君は確かに君だしー」
私は佐々木さんを見つめる。眼鏡の奥の目が、穏やかに笑ってる。
「それだけ?」
「それだけ」
佐々木さんは苦笑いして、また髪を掻く。
「まあ、理由なんてそんなもんかなー」
コーヒーを飲んで、窓の外を見る。
「君は自分のことを迷惑だって言うけど、僕から見たら、ただの女の子だよー」
「女の子...」
「歌が上手で、真面目で、ちょっと頑固で」佐々木さんがくすっと笑う。「植物の世話を忘れたら気にしちゃう、優しい女の子」
私はななしちゃんの方を見る。さっき水をあげたばかりの葉っぱが、少し元気になってる。
「でも、私のせいで太田さんが...」
「それは君のせいじゃない」
佐々木さんの声が、少し真剣になった。
「監視社会の問題が、たまたま君を通して見えただけ」
「でも...」
「君は誰かを傷つけようとして歌ったわけじゃないでしょ?」
私は首を振る。
「だったら、それでいいんじゃない?」
佐々木さんは立ち上がって、窓辺に歩いていく。
「完璧な人なんていないしー。僕だって、このガジェットたちでよく失敗してるし」
フブキくんを指差して苦笑いする。
「大切なのは、失敗から学ぶことかなー」
私はコーヒーを飲む。さっきより、苦くない。
「佐々木さん」
「ん?」
「ありがとうございます」
佐々木さんは振り返って、いつものひょうひょうとした笑顔を見せる。
「どういたしましてー」
でも、その笑顔の奥に、何か言いたそうな表情が見えた気がした。
佐々木さんがマグカップを手に取り、コーヒーを口に含む。ひと呼吸、間を置いてから飲み込む。
私はその動作に見覚えがあった。何か言いにくいことがある時の、佐々木さんの癖。
何か、隠していることがあるのかもしれない。
でも、今は聞かない。
今は、この温かさを大切にしたい。
「佐々木さんのコーヒー、美味しいです」
「ありがとうー。君が元気になって、何よりだよー」
グルルルル。
静寂を破って、お腹が大きく鳴った。
「あ...」
私は慌てて手でお腹を押さえる。顔が熱くなる。
そういえば、あの日から何も食べてない。コーヒーしか口にしてない。
「そりゃあ、お腹もすくよねー」佐々木さんがくすくす笑う。「二日間、ほとんど何も食べてないでしょ?」
「すみません...」
「謝ることないよー。生きてる証拠じゃない」
グルルルル。
また鳴った。今度はもっと大きく。
その時、通信モニターがパッと光った。璃の顔が映る。
「体調はどうですか」
璃の声は簡潔だ。でも、心配そうな表情が画面越しに見える。
「はい...少し、元気になりました」
「安心しました。佐々木から連絡を受けました」璃が何かの袋を持ち上げる。「食事を準備しています。できたら持参しますね」
「えっ、でも...」
「遠慮は不要です。お腹空いてるでしょ?おなかの音が聞こえました」
璃の表情に小さく笑みが浮かぶ。
グルルルル。
二回目。もう隠せない。
「璃、ありがとう」
「すぐに到着します」
通信が切れた。
佐々木さんが机の上を片付け始める。
「璃も心配してたんだよー。君が元気じゃないと、演出プランに集中できないってさ」
「心配かけちゃって...」
「まあ、みんな君のことが大切だからねー」
しばらくして、研究室の扉が静かに開いた。璃が温かそうなお弁当箱を持って入ってくる。夕日が差し込む研究室の中で、璃の短い黒髪がオレンジ色に光って見える。いつものように無駄のない動き。
研究室の空気は温かく、佐々木さんが淹れたコーヒーの香りと、璃が持ってきた食事の匂いが混じり合っている。フブキくんは静かに風を送り続けて、クーキまるくんの小さなブーンという音が心地いいBGMになってる。
「体調はどうですか」
「はい...おかげさまで」
璃は机に正確にお弁当を配置する。卵焼きと、おにぎりと、温かそうなスープ。指先に微かな絵の具の跡が見える。
「消化に配慮して食材を選択しました。調理自動化プログラムも最適化済みです。無理は禁物です」
湯気が立ち上って、いい匂いがする。
私のお腹が、また小さく鳴った。
「食べよう」佐々木さんが椅子を引いてくれる。「璃の作ってくれる料理は最高だよー」
私は箸を取って、おにぎりを一口食べる。
塩味が優しくて、お米の甘さが口の中に広がる。
涙が出そうになった。
「美味しい...」
璃が小さく頷く。「回復を確認しました。良好です」
久しぶりの食事。温かくて、優しくて。
私がここにいることを、みんなが喜んでくれる。
璃は立ったまま、私が食べる様子を静かに観察している。佐々木さんはいつものひょうひょうとした調子で、でも優しい目で見守ってくれてる。
「栄養摂取、順調です」璃が小さく呟く。
「璃のスープ、いつもと同じ味で安心したよー」
私は箸を置いて、二人を見回す。
「ごちそうさまでした」
手を合わせる。久しぶりにお腹がいっぱいだ。
「美味しかったです、璃」
璃が小さく頷く。「良かったです」
佐々木さんが椅子から立ち上がる。
「今夜はゆっくり休んだほうがいいよー。二日も食べてなかったんだからねー」
私の心の中で、カウントダウンが鳴る。
18時間。
「はい...少し、休みたいです」
食事をして、体が温まって、急に疲れが押し寄せてきた。二日間の緊張が解けたのかもしれない。
佐々木さんと璃が顔を見合わせる。
「わかった。ゆっくり休んでねー」
「睡眠は重要です。体力の回復に必要です」璃も静かに言う。
私は寝室へ向かう。足取りが重い。
でも、不思議と心は軽くなっていた。




