18 行動開始
まだ子どもの話です。
「これは、ダニエル様がお一人で?」
「え、ええ…すみません、勝手に…」
先程までとは違って片付いた部屋の様子にトレイさんは何か考えているようだった。
「ベッドも、窓も、衣類もですね?」
「…はい…」
「奥もよろしいですか?」
奥と聞いてドキリとする。お風呂場のことを言っているのは間違いなく、あの布が干されたバスタブを見たらトレイさんはなんて言うだろうか。
「…あの、その、ちょっと…」
「何かありましたか?」
「あの、ちょっと洗い物を…」
「洗い物?」
「は…い。顔を拭きたくてタオルを洗ったのですが、ついでにと思って、他にも少し…」
トレイさんは私を見下ろしていたが、
「ちょっと失礼しますね」
と私の脇をスタスタと通り抜けて奥へと進んでしまった。
「あっ!トレイさん!」
慌てて追いかけたが先に中の様子を確かめたトレイさんはお風呂場の様子を見て固まっていた。改めて見るとバスタブの縁にぐるりと干された布類は見苦しく、使うにしてもみすぼらしい物だ。
およそこの子の身分には合わない光景で、でもこの子の扱いはこの光景よりも酷いのが事実だろう。このままこの子を放って置くわけにはいかないのだから、自分のことを自分ですることについて許可をもらわなくては、と思った私はトレイさんに頼むことにした。
「…あの、トレイさん、すみません、勝手に。でも自分のことは少しでもできるようになりたいんです。だからこうして」
「ダニエル様」
「はっ…っい…」
遮られ、ダメだろうか、と思ったが彼の続けた言葉は意外なものだった。
「申し訳ございません。ダニエル様はここのご子息です。本来ならば全て使用人がお世話をすべきでしたのに、こんな、こんなことを…」
「えっ、そんな謝ることなんて。わ、わた…僕は、その…」
「ダニエル様、自分のことは自分でとおっしゃいましたね」
「は、はい。あの、少しずつでも自分のことはできるようになりたいと思っていて、まずは身支度を整えたり、部屋を片付けたりで大したことはできませんが」
「承知いたしました。ではそのようになさってください。旦那さまからは、ダニエル様が命令されたことには応えるよう仰せつかっております」
「え、そうなんですか?」
私はちょっと驚いて聞いてしまった。だってそれならこんな状態で放っておかれるものだろうか。子どもなのだからいろいろとしてほしいことを頼むものなのではないか。そんな疑問が顔に出てしまったのだろう、トレイさんは怪訝な顔をしながらもそれに答えてくれた。
「ここで過ごし始めた時にお伝えはしましたが…確かにあの時はダニエル様も動揺していらしたから…ダニエル様、このお部屋で過ごされている理由を?」
「え?あ…ええと…」
「2ヶ月前にエドガー様が木から落ちて怪我をなさいましたね」
「…」
もちろん全く覚えていないので答えられずにいると、トレイさんは腰をかがめて私の視線に自分のそれを合わせて話しだした。
「その時、エドガー様を止めなかったことを旦那様に叱られ、お部屋で謹慎となりました。覚えていらっしゃいますか?」
エドガーって人が木から落ちた。この子はそれを止めなかったので叱られて謹慎させられた。小さい子の面倒をみなかったということだろうか。うん、やっぱり全然思い出せない。
それにしても、トレイさん、何歳くらいなんだろうか。さっきこの体を軽々と抱き上げた様子から、30歳くらいかな?と想像した。こうして見ると黒い髪に薄茶色の瞳、太ってはいないけれど背も高くしっかりした体つきで、頼もしい感じがする。この人、どうしてこんな子どもの世話をしているのだろう、他にいくらでも仕事がありそうなのに…。
私の様子にこれはダメだと思ったようでトレイさんは椅子に座るよう促してくれた。私は素直に従った。トレイさんは椅子に掛けた私の前に跪き話を続けた。
「ダニエル様はまだお小さいので、少々混乱なさっているようですね。私から説明させていただいても?」
「はい、お願いします」
食い気味に答えた私の様子に一瞬驚いたトレイさんはすぐに柔らかい笑顔を見せてくれた。
「もちろんですとも…エドガー様が怪我をなさったことで家の中はエドガー様が元気になられることが最も重要となりました。それで、木に登るのを止めなかったダニエル様とお会いすると気が塞ぐとのエドガー様の言葉で坊ちゃまはこのお部屋で一日の大半をお過ごしになることになりましたね」
「…はぁ…」
話を聞いても思い出せないのはこの子がまだ小さいことと、本当にこの2ヶ月で混乱していることとが原因なのだろう。子どもはショックが大きいと心身に大きな影響がでるものだ。
「…旦那様はダニエル様がお命じになったことには応えるようにとおっしゃいましたが、ダニエル様はエドガー様のことを心配なさって最初の頃はこのお部屋で泣いてばかりでございました。
1週間ほどたって泣き止まれた後は、私どもに何かを頼むようなこともなく、このお部屋でじっとしていらっしゃいました。お食事は流石に私たちも心配で指示がなくてもお運びしましたが、それもあまり召し上がらず…」
「そうですか…」
「今日はめずらしくお部屋から出られて、エイダが仕事をしているのを手伝うと」
「ああ、あの…それで転んでしまったということ?」
「そうです。エイダは久しぶりにダニエル様が外に出られたのにこんなことになってしまって心配しておりましたよ」
「それは…申し訳なかったです」
「ダニエル様、なぜ使用人にそのような言葉を」
「えっ?」
「階段から落ちた後、ずっとでございますね。どうなさったのですか。エドガー様の怪我のことも覚えていらっしゃらないようですし、もしや…ご記憶が?」
「あ、え、いや、その…あの…」
「…」
トレイさんの視線に耐えきれなかった私は白状してしまった。
「…はい、その、ちょっといろいろと思い出せないと言うか…落ちたことでびっくりしたのかな…はは…は…あ、あのぅ、エドガー様って誰ですか?」
そしてこの私の返答にトレイさんは真っ青になり、立ち上がった。
「あ、や、トレイさん、待ってください、大丈夫ですから。どこか痛いとかもないですし、多分すぐに思い出せると思うので。本当に、大丈夫です、落ち着いてください!」
私も椅子から下りてトレイさんの袖口を引っ張り、子どもにしてはだいぶな言葉遣いで説得してしまったので、トレイさんもハッと我に返ったようだ。
「ダニエル様…」
「あー、ええと、その、エドガー様は僕の姿を見たくないんでしょう?それならここでしばらくすごすことに変わりはないし、そのうちいろいろと思い出すだろうから、このままでもいいかなと思ったりして…ダメですか?」
「ダニエル様、エドガー様は、あなたのお兄様ですよ」
「えっ、そうなの?」
思わず取り繕う間もなく答えると、トレイさんの顔が引きつった。
「あ、いやその兄弟なんだろうなとは思ったんですけど、木から落ちて止めなかった僕が叱られたっていうから弟なのかなとか…」
言い訳をしたつもりがトレイさんの顔が更に悲壮感漂うものになってしまったので
「…あー…その、なんか…ごめんなさい?」
とりあえず謝った。トレイさんは何か言おうとして口を開いたが思い直したように閉じ、そしてまた開いた。
「エドガー様はダニエル様の2つ上のお兄様です。そしてダニエル様は8歳です」
「へえ。あ、いや、はい、そうなんですね」
トレイさんが優しいのをいいことになんだか正直な感想が出てしまう。いけないいけない。それにしても兄の怪我の責任を弟、それも8歳の弟に負わせるとは。これは思っていたよりもずっと酷い状況だと感じてちょっと呆れると共にムッとしてしまった。
「エドガー…お兄様の怪我は今はどうですか?お元気ですか?」
「はい、大変お元気になられて、今日もお庭を歩いていらっしゃいました」
その言葉に、そう言えばさっき庭で親子を見かけたなと思い出した。
「ああ、さっきお庭を歩いていたのが…」
「ご覧になりましたか。ではご一緒されていた」
「ふうん、あれが…僕の父親と母親、ということか」
弟を部屋に閉じ込めておいて、部屋から見えるだろう庭を3人で歩いていたところに悪意を感じた私の話し方はこれまでよりもキツイものになってしまった。
「…ダニエル様」
「あ、お父様、お母様、のほうが相応しい?」
「…はい」
心配そうなトレイさんには申し訳ないけれど、あの親子の姿を思い出したら、良い子でいようという気持ちは急速にしぼんでいった。
「ええと…あの、トレイさん申し訳ないんですけど、僕は本当にすっかり忘れているみたいなので、えー、ここでの僕の生活について?ですけど。なので、変なところがあったら指摘して教えてください、ダメでしょうか?」
「…それはもちろん構いませんが」
「早速の質問ですが、僕がお願いしたことは聞いてもらえる、そういうことでしたよね?でも僕はこれまで泣いてばかりで、その後は何も要求しなかった、だからここでこんな有様だった」
「はい、左様でございます…」
「そのことで両親が僕の様子を見に来たりすることはおそらくなくて、つまり…うーん…僕が何かを要求するとは思われていなかった、またはそんなことはどうでもよかった、そしてその結果こんな風になるって、お父様はわかっていて、もしくはそう言っておけばトレイさんたちがなんとかするだろうと思って、そういう指示を出した、ってことで合ってる?はっきり言えば僕のことはどうでもよかった、ってことで」
「…」
言葉に詰まるトレイさんを見て、推測が正しいこと、そしてこれは少々きついことを言わないと進まないなと思った私は思い切って子どものフリをやめることにした。
「あの、僕は8歳ということだけど、階段から落ちたせいなのか、これまでのことは全然覚えていなくて、どこか別なところから来た、みたいな感じがするんですよね。
だから、できればトレイさんも僕をダニエルっていう子ではなく、他所の人というつもりで説明してほしい。こんなこと言ったら傷つくかなとか、まあ僕が子どもの姿だから心配かもしれないけど、全然覚えていなから気にしないで大人に説明する感じでお願いできるとありがたいんだけど、どうでしょう」
「…ダニエル様、あの…」
「はっきり言って、ダニエルって呼ばれても全く自分だとは思えないし、実際僕の名前を呼ぶ人なんてこれまでの様子からして、ここにはほとんどいなかったでしょう?そう呼ばれるの、不愉快なくらいなんですよね」
僕はニッコリ笑って言い放った。実際この子の置かれた立場に腹が立っていた。まだ8歳の子どもが要求しないことを見越して放置していた大人たち、特に親に対して。でもそれに与していた他の大人たちにも。虐待なんて許さない。なんとかしてこの子が生きていけるようにしなくては。
「トレイさん、聞いていますか?僕が要求することには応える、それが父親の指示でしょう?なら従ってもらわなくては」
目を見開くトレイさんに更に続ける。
「まず、身体を洗いたいのでお湯の準備をお願いします。そして汚れたものの洗濯を。ああ、あの汚れたぬいぐるみと、あとは浴室の僕が洗ったものも、もう一度お願いしますね。
それから食べるもの。僕が食べている間にこれまでのことの説明と僕の質問への答えを求めます。できるだけ早くお願いします」
トレイさんの顔色を見て、人は本当に驚くと顔が白くなるんだなと思った。
「ああ、そうだ、このことは父親、母親、エドガーには言わないように。絶対に。いいですよね?」
お読みくださり、ありがとうございます。
反撃…というほどでもありませんが、ダニエルが主張し始めました。




