ぼくだけじゃない
一年前のあの日から、ティアは時々、変なことを言うようになった。
「いま、兄ちゃんの目だった」
最初にそう言ったのは、店の裏で洗濯物を畳んでいた時だった。
シオンは店先にいて、ティアから見えるはずのない場所にいた。
それでも彼女は、入口の横に積んであった木箱の数を当てた。
三つ。
シオンがちょうど見ていたものと同じだった。
それからも、何度かあった。
ほんの一瞬。
長くても、二、三秒。
シオンが見ていた皿。
道を横切った犬。
店先で父が数えていた銅貨。
ティアは突然それを口にして、すぐに首を傾げた。
それでも、祝紋は現れなかった。
祝紋院でエルナに診てもらっても、《鑑定》では発現を確認できなかった。
「分からないことを、分かったことにしない」
エルナはそう言った。
だからシオンも、分からないまま記録した。
日付。
場所。
距離。
その時、自分が見ていたもの。
ティアが言ったこと。
どれくらい続いたか。
共通点は、まだ見つかっていなかった。
◇
「兄ちゃん、はやく」
「待って」
「さっきから待ってる」
「いま終わる」
店の前で、ティアが頬を膨らませていた。
シオンは帳面を閉じる。
今日は父に頼まれて、商店通りへ油と糸を取りに行くことになっていた。
ティアもついてきた。
十歳になったシオンと、八歳になったティア。
以前ならシオンが手を引いて歩いていたが、最近はティアの方が先へ行く。
「走るなよ」
「走ってない」
「さっき走ってた」
「いまは走ってない」
間違ってはいない。
シオンは何も言わなかった。
商店通りは昼前で、人が多かった。
野菜を積んだ荷車が通り、布を抱えた女が人の間を抜けていく。
道端では商人が声を張り、遠くからは鉄を叩く音も聞こえていた。
「レオいるかな」
「仕事してるんじゃない?」
「見るだけ」
「邪魔するなよ」
「兄ちゃんもするじゃん」
「ぼくはしない」
「する」
鍛冶屋へ寄る予定はなかった。
けれど、通りの向こうに見慣れた赤茶色の髪が見えた。
レオだった。
革袋を肩にかけ、こちらとは反対側の店へ向かっている。
「レオ!」
ティアが手を振る。
声には気づかなかったらしく、レオはそのまま角へ向かった。
その時、角の向こうから大きな音がした。
馬のいななき。
誰かの怒鳴る声。
次の瞬間、荷車が飛び出してくる。
「危な――」
シオンが言い終わるより先に、レオの姿がぶれた。
《加速》。
一度目。
石畳を蹴り、荷車の前から外れる。
続けて、もう一度。
レオの身体が鋭く前へ抜け、道の端まで移動した。
そのすぐ後ろを荷車が通り過ぎる。
積んであった樽が一つ落ち、石畳の上で割れた。
「レオ!」
ティアの声。
けれど、見ている場所がおかしかった。
レオではない。
ティアは、何もない道の途中を見ていた。
「……馬」
「ティア?」
「右から、来た」
顔色が変わる。
「それで……急に、ぜんぶ速くなって」
ティアが目を押さえ、そのまましゃがみ込んだ。
「ティア」
シオンもすぐにしゃがむ。
怖い。
そう思った。
それでも、次に何を確かめるべきかだけは妙にはっきりしていた。
「ぼくが分かる?」
「……兄ちゃん」
「頭、痛い?」
「ちょっと」
「吐きそう?」
ティアが少し考えて、頷く。
「目は?」
「ぐるぐるする」
「どこかぶつけた?」
「ぶつけてない」
「手、動かせる?」
「動く」
「立たなくていい」
自分でも、どうしてこの順番で聞いているのかは分からなかった。
ただ、確かめないといけない気がした。
後ろから足音が近づく。
「ティア!?」
レオだった。
「大丈夫か?」
「いまは立たせない方がいい」
「何があった?」
「まだ分からない」
シオンはティアを見る。
「何が見えた?」
「……馬」
「どんな?」
「右から来た」
ティアは目を閉じたまま続ける。
「すごく近くて……レオがよけて」
シオンは通りの角を見る。
ティアがいた場所からでは、馬が角を曲がる前の様子までは見えない。
「レオ」
「ん?」
「最初に馬が見えたの、角を曲がる前?」
「ああ」
「どっちから?」
「右」
シオンは、もう一度ティアを見る。
偶然同じことを言っただけかもしれない。
でも、今までの記録とは違う。
今回は、自分が見ていたものではない。
「レオ」
「ん?」
「二回使った?」
「……使ったけど」
「やっぱり」
「なんで分かるんだよ」
「右足」
レオが自分の足を見る。
「二回使った後、少し引きずる」
「見すぎだろ」
いつものレオなら笑ったかもしれない。
でも今日は笑わなかった。
ティアの前にしゃがむ。
「俺が見てたやつ?」
ティアは少ししてから、頷いた。
「……たぶん」
シオンは、その言葉に引っかかった。
たぶん。
まだ、決めてはいけない。
◇
ティアの吐き気が落ち着くまで、三人は近くの日陰で休んだ。
父にはレオから事情を伝えてもらい、シオンはティアを連れて祝紋院へ向かった。
エルナは診察室でティアの顔を見ると、すぐに椅子を引いた。
「座って。無理して話さなくていいから」
ティアが座る。
シオンはその横に立ったまま、話し始めた。
「レオが《加速》を使った時にティアがレオの視界を見ました。それで速すぎて気持ち悪くなって、たぶん《加速》の視覚情報がそのまま――」
「シオン」
止められた。
「なに?」
「一回、分けよう」
エルナは机から紙を一枚取る。
「見たこと」
紙の左側を指す。
「そうだと思ったこと」
今度は右側。
「別々に話して」
シオンは口を閉じた。
「……違うの?」
「違うことがある」
エルナは責めるようには言わなかった。
「まず、あなたが実際に見たことは?」
シオンは少し考える。
「レオが《加速》を二回使った」
「うん」
「そのあと、ティアがしゃがんだ」
「うん」
「頭が少し痛いって言った。吐き気と、目がぐるぐるする感じも」
「それから?」
「ティアが、右から馬が来たって言った」
「見える場所だった?」
「たぶん――」
言いかけて止める。
「ぼくが確認した限りでは、見えにくい場所だった」
エルナが少し笑う。
「その言い方ならいい」
紙の左側に短く書く。
「じゃあ、そうだと思ったことは?」
「ティアがレオの視界を見た」
「それは?」
シオンは少し黙る。
「……まだ、確かめられてない」
「そう」
「でも、レオが見たものとは合ってる」
「そこは確認できる」
エルナは、あとでレオからも話を聞くと言った。
それからティアの様子をもう一度確かめ、《鑑定》を使う。
瞳の奥に淡い光が浮かんだ。
しばらくして、エルナの表情がわずかに変わる。
「まだ、祝紋の発現は確認できない」
「じゃあ何なの?」
シオンが聞く。
「分からない」
エルナはあっさり答えた。
「でも、前より調べる理由は増えた」
シオンは鞄から小さな帳面を取り出し、新しい頁を開く。
『今日あったこと』
その下に書く。
『レオが《加速》を二回使った』
『ティアは、馬が見えにくい場所にいた』
『ティアは右から来た馬を知っていた』
『頭痛、吐き気、目がぐるぐる』
少し空ける。
『まだ分からないこと』
『近くにいたから?』
『知ってる人だから?』
『見るだけ?』
さらに少し考える。
これまで起きたことは、すべてシオンとティアの間だった。
だから、自分とティアの間だけに起きる何かだと思っていた。
でも今日は違った。
シオンは最後に一行だけ足す。
『ぼくだけじゃない』
その下に、もう一つ。
『見たことと、考えたことは分ける』
書き終えたところで、隣からティアが覗き込む。
「字、小さい」
「読むなよ」
「見えるもん」
「じゃあ離れて」
「やだ」
いつもの声だった。
シオンは少しだけ息を吐く。
今は、まだ分からない。
分からないことが、一つ増えただけだった。
ただ、帳面の最後に増えた一行だけは、これまでとは違っている。
『ぼくだけじゃない』
今までの記録を、最初から見直す必要がありそうだった。




