店を守る
店に戻ったのは、夕方だった。
いつもなら客が途切れない時間なのに、その日は店先が妙に静かだった。
閉店の札を出したままだからだ。
ガルドはしばらく入口に立っていたが、やがて札を裏返した。
営業中。
「開けるの?」
シオンが聞く。
「ああ」
「今日?」
「今日だからだ」
それ以上は言わなかった。
ガルドは店台の内側へ入り、問題のあるルーメ草を一つの箱へまとめ始めた。
シオンも手伝う。
「これはもう売らない?」
「売らん」
「全部?」
「今回の分はな」
「でも腐ってない」
「ああ」
「薬じゃない使い方なら――」
「シオン」
手が止まる。
ガルドは怒っていなかった。
「それを考えるのは、あとだ」
「なんで?」
「今は、買った人の話が先だからだ」
シオンは箱を見る。
薬としては弱い。
でも、それ以外なら使えるかもしれない。
捨てるのはもったいない。
そう思った。
けれど父は、そこを考えていなかった。
少なくとも、今は。
⸻
最初の客が来たのは、それからすぐだった。
年配の男だった。
いつも干し肉と油を買っていく。
店に入るなり、ガルドを見る。
「聞いたぞ」
シオンの手が止まる。
ガルドはいつも通りに返した。
「早いな」
「薬草の話」
「ああ」
「本当か?」
「本当だ」
男は少し黙る。
「うちも先週買った」
ガルドは頷いた。
「残ってるか?」
「少し」
「持ってきてくれ。代金は返す」
男が眉を上げる。
「全部か?」
「今回入れた分なら全部」
「でも、使っちまった分は?」
「分かるなら、それも返す」
今度はシオンが父を見る。
そこまで返すのか。
男も同じことを思ったらしい。
「お前、それじゃ損だろ」
「そうだな」
「なら――」
「俺の店で売った」
ガルドはそれだけ言った。
男はしばらくガルドを見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……明日持ってくる」
「ああ」
「それと油」
「いつものか?」
「いつもの」
普通に買い物をして、帰っていった。
シオンはその背中を見送る。
「父さん」
「ん?」
「知らなかったのに?」
ガルドが油の瓶を棚へ戻す。
「何が」
「草のこと」
「ああ」
「父さんは悪くないんじゃない?」
ガルドは少し考えた。
「知らなかったことと、売ったことは別だろ」
「でも、ベルクさんも知らなかった」
「そうだな」
「ハンナさんも」
「そうだ」
「じゃあ誰が悪いの?」
ガルドの手が止まる。
「それ、分かったら教えてくれ」
「分かんない」
「俺もだ」
その答えが、シオンには少し意外だった。
大人なら分かると思っていた。
でも、父にも分からないらしい。
「じゃあ、なんで返すの?」
「俺が売ったから」
それだけだった。
⸻
翌日。
店の前に紙が貼られた。
今回入荷したルーメ草について。
購入した者には返金か交換をすること。
薬師や薬屋へ卸した分についても、店から連絡を入れること。
文字を書いたのはガルドだった。
シオンは横から見ている。
「もっと書かなくていいの?」
「何を」
「乾かし方とか。どれくらい光が弱かったとか」
「読むか?」
シオンは紙を見る。
長くなる。
「……読まないかも」
「だろ」
ガルドは紙を貼った。
必要なことだけ。
シオンは少し不満だったが、たぶん父の方が正しかった。
⸻
ドランは、薬房の入口にも同じような紙を出した。
「俺の方も、使った患者には話す」
「怒られる?」
シオンが聞く。
「そりゃ怒る奴もいるだろうよ」
「嫌じゃない?」
「嫌だ」
即答だった。
「じゃあ、なんで言うの?」
「黙って次も来られる方が、もっと嫌だからだ」
ドランは薬棚を整理しながら答える。
それから箱の中のルーメ草を一本取り出した。
「今度から入荷したら、これをやる」
机の上に、例の反応を見る棒を置く。
「全部?」
「全部は無理だ。抜き取りだ」
「ぬきとり?」
「何袋かあるうち、いくつか選んで調べる」
「全部やった方が安全じゃない?」
ドランがシオンを見る。
「一日じゅう草だけ見てろってか?」
「……それは無理」
「だろ」
シオンは少し考える。
全部調べれば、一番安全なのかもしれない。
でも、それはできない。
なら、どこまで調べればいいのか。
それは《比較解析》では分からなかった。
⸻
数日後。
ベルクが一人で店に来た。
「返金分」
そう言って、ガルドの前に袋を置く。
中で硬貨が鳴った。
ガルドは中を確かめなかった。
「全部じゃないぞ」
ベルクが言う。
「分かってる」
「俺も全部は払えん」
「ああ」
「ルーク村にも戻す分がある」
「そうだろうな」
短いやり取りだった。
シオンは店の端で帳簿を書いていた。
ベルクがこちらを見る。
「坊主」
「なに?」
「まだ考えてるか」
一瞬、何のことか分からなかった。
それから思い出す。
――俺は、どうすりゃよかったと思う?
「うん」
「答え出たか?」
「出てない」
ベルクは少し笑った。
「そうか」
今度の笑い方は、前より少しだけ軽かった。
ガルドが聞く。
「これからどうする?」
ベルクは肩をすくめる。
「薬草はしばらく扱わん」
「やめるのか」
「信用が落ちた」
その言葉に、シオンが顔を上げる。
「誰に?」
「薬屋に」
「全部?」
「全部じゃない」
ベルクは笑う。
「全部に嫌われたら、商売終わりだ」
でも、前と同じではないらしい。
ドランはしばらくベルクから薬草を買わないと言った。
西通りの薬屋も、別の仕入れ先を探している。
悪いものを売ろうとしたわけではない。
それでも、一度起きたことはなかったことにはならない。
「次からはどうするの?」
シオンが聞く。
「いつもと違うやり方をした品は、そのまま売らん」
「《鑑定》で大丈夫でも?」
ベルクは一瞬止まる。
「ああ」
「じゃあ捨てる?」
「知らん」
ベルクは頭を掻いた。
「値を下げるかもしれんし、用途を変えるかもしれん。先に薬師へ聞くかもしれん」
「いっぱいある」
「商売ってのは、そういうもんだ」
シオンは帳簿の端に、小さく書く。
『だいじょうぶ=何にでもつかえる、ではない』
少し考えて、その下に続けた。
『同じものでも、つかい方でちがう』
書いたあとで、自分でも少し分かりにくいと思った。
でも、消さなかった。
⸻
ハンナの村でも、乾燥のやり方を戻すことになった。
雨が続いた時は出荷を遅らせる。
どうしても方法を変える場合は、それを商人へ伝える。
その代わり、ガルドたち町の商人側も、出荷が遅れたからといって、すぐに取引を切らない。
そういう話になったらしい。
シオンは、その話し合いの全部を聞いたわけではない。
父が何度か村へ行った。
ベルクも行った。
商人組合の人間も来た。
大人たちが何度も話し合い、その結果だけをシオンは聞いた。
「それでいいの?」
シオンが聞いた時、ガルドは言った。
「分からん」
まただった。
「でも決めたんでしょ?」
「決めないと次に進めないからな」
シオンには、それが少し不思議だった。
正しいと分かってから、決めるわけではないらしい。
分からなくても、決めなければならないことがある。
⸻
エルナが店へ来たのは、騒ぎが落ち着き始めた頃だった。
今日は制服の上に、薄い外套を羽織っている。
「終わった?」
シオンが聞く。
「何が?」
「調べるの」
「一応ね」
エルナはガルドに何枚かの書類を渡した。
「祝紋院としては、《鑑定》の異常ではないと判断したわ」
ガルドが紙を見る。
「じゃあ、何だったんだ?」
「《鑑定》で分かる範囲の外に、使い方に関わる違いがあった」
「難しいな」
「簡単に言うと、本物だった。でも、同じようには使えなかった」
「それなら分かる」
エルナは次にシオンを見る。
「あなたのことも記録に追加した」
「なんて?」
「《比較解析》。条件を揃えた上で、別の方法では見つけにくい差を確認した」
シオンは眉を寄せる。
「むずかしい」
「大人向けだから」
「強くなったって書いた?」
「書いてない」
少し残念だった。
エルナはそれに気づいたらしい。
「能力は変わってないもの」
「でも前より使えた」
「そうね」
「じゃあ、なんで?」
エルナは少し考える。
「あなたが変わったからじゃない?」
シオンは黙る。
能力は同じ。
できることも同じ。
二つを、一つの基準で比べる。
それだけ。
なのに、前とは違う。
「強い能力になったわけじゃない」
エルナが言う。
「でも、使い方は少し面白くなった」
「少し?」
「少し」
三年前と同じように、変なところで正直だった。
⸻
その夜。
店を閉めたあと、シオンは机にノートを広げていた。
今回書いたページを最初から見る。
重さ。
水分。
魔力。
硬さ。
厚さ。
どれも間違ってはいなかった。
でも、欲しかった答えにはならなかった。
草を薬に近い形へ変えた。
ほかの条件をできるだけ揃えた。
そして、反応する光を比べた。
そこで初めて、欲しかった違いが見えた。
シオンは最後のページに書く。
『くらべられないなら、くらべられるようにする』
前にも書いた言葉。
その下に、もう一つ加える。
『わかっても、どうするかはべつ』
少し考える。
それでいい気がした。
⸻
「兄ちゃん」
後ろから声がした。
振り返る。
ティアが眠そうな顔で立っている。
「寝たんじゃなかったの?」
「お水」
「父さんは?」
「奥」
「じゃあ父さんに――」
「兄ちゃんがいい」
仕方なく立ち上がり、水差しを取る。
ティアがその横をついてくる。
「今日、何書いてたの?」
「草のこと」
「草好き?」
「別に」
「ずっと草見てた」
「見てたな」
「へんなの」
ティアが笑う。
シオンも少し笑った。
水を注いで渡す。
ティアが両手で杯を持つ。
その時、机の端から鉛筆が落ちた。
シオンは見ていなかった。
背中を向けていた。
なのに、一瞬だけ見えた。
机の上を転がる鉛筆。
端を越える。
落ちる。
それを、少し離れた場所から見下ろしていた。
シオンは振り返る。
鉛筆が床に当たり、小さな音を立てた。
「……?」
机を見る。
さっき自分が座っていた場所からなら見えた。
でも、今立っている場所からは見えない。
「兄ちゃん?」
ティアが杯を持ったまま、こちらを見ている。
「今、見た?」
「なにを?」
「鉛筆」
「見たよ」
「落ちるところ?」
「うん」
当然のように答えた。
シオンは黙る。
何だったのだろう。
《比較解析》ではない。
線も出ていない。
左目にも、いつもの感覚はなかった。
ただ一瞬、自分ではない場所から見えた気がした。
「兄ちゃん?」
「……なんでもない」
ティアは首を傾げる。
その時、店の扉が叩かれた。
こんな時間に。
ガルドが奥から出てくる。
「誰だ?」
扉を開ける。
立っていたのは、エルナだった。
「ごめんなさい。記録の紙を一枚置いていって――」
そこで言葉が止まる。
エルナの視線が、シオンではなくティアへ向いた。
ほんの一瞬だった。
ティアが杯を持ったまま言う。
「こんばんは」
「……こんばんは」
エルナはいつもと同じ声で答えた。
それから机の上に残っていた紙を見つけ、手に取る。
「これね」
ガルドが言う。
「わざわざ今取りに来なくてもよかっただろ」
「明日の朝一番で出さないといけないの」
「大変だな」
「仕事だから」
昼間と同じことを言った。
けれど、帰る前。
エルナはガルドにだけ、小さな声で聞いた。
「ティアちゃん」
「ん?」
「最近、何か変わったことある?」
ガルドが首を傾げる。
「特には」
「そう」
エルナはそれ以上聞かなかった。
ただ、ティアをもう一度見る。
それから帰っていった。
⸻
その夜。
シオンは布団の中で目を閉じた。
今日のことを考える。
薬草。
店。
父。
ベルク。
ハンナ。
エルナ。
そして、落ちた鉛筆。
どう考えても、自分の位置からは見えなかった。
けれど、見えた。
ティアは見ていた。
それだけなら普通だ。
なら、なぜ自分まで見えたのか。
答えは出ない。
シオンは目を閉じたまま、頭の中で二つを並べようとする。
自分。
ティア。
何を比べればいいのか分からない。
そもそも、比べる話なのかも分からなかった。
しばらくして、昔から頭の奥に残っている言葉がふと浮かぶ。
――Solve.
――Compare.
――Coagula.
意味は、まだ分からない。
けれど、分からないことが一つ増えた。
シオンは少しだけ笑う。
眠くなるまで、そのことを考え続けた。




