残しておく
雨が上がって、三日が過ぎた。
レオは祝紋院の椅子に座っていた。
右足は床についている。
けれど、いつものように爪先を動かしたり、椅子の脚を蹴ったりはしていなかった。
「痛い?」
向かいに座る男が聞く。
祝紋院で、怪我や体調を確認している職員だった。
レオは少し考える。
「痛いっていうか」
「うん」
「重い」
「どこが?」
レオが膝から下を指す。
「このへん」
男が足首を動かす。
「これは?」
「平気」
少し角度を変える。
「これは?」
「ちょっと変」
「痛い?」
「痛くはない」
男は頷き、紙に何かを書く。
シオンは少し離れた椅子から見ていた。
隣にはティアがいる。
今日はティアの確認日でもあった。
少し前に終わっている。
《共有》は出なかった。
今は、レオの足を見ていた。
男がレオに立つよう言う。
レオが椅子から降りる。
両足で立つ。
「普通に立てる?」
「うん」
「右だけに体重をかけてみて」
レオが右へ身体を寄せる。
少しだけ顔が変わった。
すぐに戻す。
「やりにくい?」
「ちょっと」
男がもう一度紙に書く。
「歩いて」
レオが部屋の端まで歩く。
戻ってくる。
歩けている。
でも、右足を出す時だけ、歩幅が少し狭くなる。
シオンはそこを見る。
水路から戻った次の日よりは、よくなっている。
でも。
いつも通りではない。
男はレオをもう一度座らせた。
「今のところ、歩けなくなるような状態には見えない」
レオの顔が少し明るくなる。
「じゃあ使っていい?」
「まだ」
すぐに返された。
レオの顔が戻る。
「なんで?」
「普通に歩く時にも違和感が残ってるから」
「でも走れると思う」
「思う、で試す必要はないよ」
レオは黙った。
男は紙を持って立ち上がる。
「しばらく無理に走らないこと。《加速》も休むこと。状態が戻ってから、また確認しよう」
「どれくらい?」
「何日とは決めない」
レオが嫌そうな顔をする。
「ずっと?」
「戻れば使える」
「いつ戻る?」
「それを見るために来てもらうんだ」
レオは納得していない顔のまま、椅子の背にもたれた。
男がエルナへ紙を渡す。
「お願いします」
「ありがとう」
エルナが受け取る。
男は部屋を出ていった。
◇
エルナは紙を読んでから、レオを見る。
「水路の日までに、《加速》を何回使ったか覚えてる?」
「覚えてない」
「シオンは?」
シオンは少し考える。
「全部は分からない」
町で頼まれて使った。
倉庫でも使った。
水路へ行く途中にも使った。
土袋を運ぶ時も使った。
少年を助けた時にも。
ノアを助けようとした時にも。
「多かった」
「そうね」
エルナが言う。
「でも、何回使ったらこうなるかは分からない」
レオが顔を上げる。
「じゃあ《加速》のせいじゃないかもしれない?」
「そうかもしれない」
レオの顔が少し明るくなる。
「じゃあ――」
「だから使っていい、にはならないよ」
止められた。
レオが口を閉じる。
エルナは続ける。
「分かってるのは、使う回数が増えた頃から右足を気にすることが増えたこと」
シオンは頷く。
「最初は、たまにだった」
「それから?」
「重いって言うようになった」
「水路では?」
シオンはレオを見る。
「右足がうまく前に出てなかった」
レオは少しだけ目を逸らした。
「最後は?」
水の中。
ノアを引いた時。
《加速》を使った。
でも、いつものようには進まなかった。
「うまく動いてなかった」
エルナが頷く。
「そこまでは、見たこと」
シオンがエルナを見る。
前にも聞いた言葉だった。
「《加速》を使いすぎたから右足が悪くなった、は?」
「そうだと思ってること」
「そう」
エルナが少し笑う。
「覚えてるね」
「うん」
レオが二人を見る。
「じゃあ、まだ分かんないんだろ?」
「分からない」
エルナは答える。
「だから、今は使わない」
「なんで?」
「使って悪くなるかもしれないから」
「悪くならないかもしれない」
「そうね」
「じゃあ――」
「使わなくて困る?」
レオが止まった。
「……遅い」
「それ以外は?」
レオは考える。
「ない」
エルナが紙を机へ置く。
「なら今は、確かめるために使う必要はないと思う」
レオは黙った。
◇
しばらくして。
レオが言う。
「でも」
エルナが見る。
「あの時は使ってよかっただろ」
シオンもレオを見る。
「水路で」
レオは続ける。
「最初の子が落ちた時」
誰もすぐには答えなかった。
レオの手が膝の上で握られる。
「使わなかったら、間に合わなかったかもしれない」
「うん」
エルナが言った。
レオが少し驚く。
「使ったことを怒ってるわけじゃないよ」
「じゃあ何?」
「その一回と、その前に使っていた分は同じ?」
レオが黙る。
町で頼まれた荷物。
伝言。
急いでいない荷運び。
ノアに言われても使った。
ガルドに止められたあとも、土袋を運ぶ時に使った。
レオは椅子の下を見る。
「……違う」
エルナはそれ以上すぐには言わなかった。
ティアが隣でレオを見る。
「わたしも」
レオが顔を上げる。
「何?」
「祝紋院で、嫌だったらやめていいって言われてる」
「それと違うだろ」
「違うけど」
ティアは少し考える。
「できても、やらない時あるよ」
レオが眉を寄せる。
「《共有》は勝手に出るじゃん」
「だから練習の話」
「でも俺は自分で使える」
「じゃあ自分でやめられるじゃん」
レオが止まった。
ティアは、それ以上何も言わない。
エルナが少しだけ笑いそうになって、やめた。
シオンはレオを見る。
レオはしばらく黙っていた。
◇
祝紋院を出る。
レオは歩いている。
いつもなら、とっくに先へ行っている距離だった。
今日はシオンと並んでいる。
ティアが少し前を歩く。
「遅い」
レオが言った。
「うん」
シオンが答える。
「すげえ遅い」
「普通だよ」
ティアが振り返る。
「普通じゃない」
「わたしたちこの速さだよ」
「毎日?」
「毎日」
レオが嫌そうな顔をする。
それでも、《加速》は使わなかった。
少し歩いてから、シオンが聞く。
「水路の時」
「何?」
「最初の一回は、使ってよかったと思う?」
レオはすぐに答えた。
「思う」
「ノアの時は?」
少し間がある。
「……使う」
「今でも?」
「ノア流されてたんだぞ」
「うん」
レオがシオンを見る。
「お前なら使わないの?」
シオンは少し考える。
「ぼくは《加速》使えない」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
シオンは前を見る。
ティアが石を避けながら歩いている。
「必要だったと思う」
レオが少しだけ笑った。
「だろ?」
「でも」
レオの笑みが消える。
「その前に使ってなかったら、もっと動けたかもしれない」
レオは何も言わなかった。
シオンも、それ以上は言わない。
確かめることはできない。
もう終わったことだから。
ただ。
あの時。
レオの右足は、いつものようには動かなかった。
それだけは見ていた。
しばらく三人で歩く。
レオが小さく息を吐いた。
「次は」
シオンが見る。
「何?」
「必要な時まで残しとく」
シオンは少し考える。
「何を?」
「《加速》」
「どうやって?」
レオが止まる。
「……知らない」
ティアが笑った。
「決めてないじゃん」
「これから決めるんだよ」
レオがまた歩き出す。
もちろん走らない。
シオンもその横を歩いた。
できることは、変わっていない。
でも。
いつ使うかは、自分で決められる。
少なくとも今は。
レオは《加速》を使わなかった。




