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比較不能 ―《比較解析》の少年と、正解のない世界  作者: たんぱくしつ
第三章 今ある力

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まだ

低い音は、もう一度した。


今度は、さっきより近い。


大人の一人が振り返る。


 「どこだ?」


別の男が仕切りの脇を見る。


 「右じゃない」


ノアはまだ木材に手を置いていた。


指先が細かく震えている。


 「ノア」


シオンが呼ぶ。


 「もういい」


 「まだ」


ノアは手を離さない。


新しい杭は入っている。


縄も、ほとんど張り終わっている。


あと少し。


それだけ持てばいい。


そんな顔をしていた。


 「ノア、離せ」


ガルドも言う。


 「もう支えられる」


 「まだ少し」


ノアの声は弱くなっていた。


レオが近づく。


 「もういい!」


ノアが顔を上げる。


レオは右足を少し庇うように立っていた。


 「十分だろ」


ノアは少し黙った。


それから、ようやく手を離す。


《固定》が解けた。


木材が、わずかに動く。


けれど、新しく打った杭と張られた縄が受け止めた。


 「よし!」


男が支えを確かめる。


 「これで持つ!」


ノアが大きく息を吐いた。


手を開こうとする。


指が途中で止まった。


シオンが見る。


 「手、動かない?」


 「……少し痺れてる」


ノアが手を振ろうとする。


けれど、うまく力が入らない。


その時だった。


少し下流から、


ぱき、と。


乾いた音がした。


木が割れる音だった。


大人たちが一斉に振り向く。


 「何だ!」


仕切りのすぐ横ではない。


少し離れたところ。


古い木の支えの一本に、大きな裂け目が走っていた。


 「そこだ!」


男が走る。


間に合わない。


裂け目が広がる。


支えが外れた。


その瞬間。


これまで仕切りの間を抜けていた水の一部が、横へ大きく回った。


細い作業用通路へ濁った水が流れ込む。


 「離れろ!」


ガルドが叫ぶ。


水が通路を走る。


最初は、脛ほど。


それでも勢いがある。


大人たちが一斉に下がる。


ノアも下がろうとした。


一歩。


その足へ横から水がぶつかる。


身体が揺れる。


もう一歩下がろうとする。


足が滑った。


 「ノア!」


身体が傾く。


ノアはとっさに手をつこうとした。


けれど、さっきまで《固定》を使っていた手にうまく力が入らない。


石の上を指が滑る。


そのまま水の中へ倒れ込んだ。


 「ノア!」


レオが走る。


シオンが腕を伸ばす。


 「待って!」


腹のあたりに祝紋が浮かぶ。


《加速》。


レオが水の中へ飛び込んだ。


ノアはすでに横へ流され始めている。


レオがその服をつかんだ。


 「ノア!」


ノアが顔を上げる。


 「つかまれ!」


レオが腕を伸ばす。


ノアもその腕をつかんだ。


レオが引く。


けれど、通路へ流れ込む水は増えていた。


脛までだった水が、膝を越える。


レオが岸側へ足を踏み出す。


水が脚へぶつかる。


右足が遅れた。


 「レオ!」


レオが歯を食いしばる。


もう一度、足を出す。


ノアを自分の方へ引き寄せる。


それでも水は止まらない。


太腿。


その上。


二人の身体が横へ押される。


 「こっちだ!」


大人の一人が手を伸ばす。


レオもそちらへ向かおうとする。


だが、足元の石が見えない。


流れが強い。


右足に力を入れる。


うまく踏ん張れない。


 「レオ!」


レオの祝紋がもう一度光った。


《加速》。


身体が少しだけ前へ出る。


いつものようには進まない。


水の中では、足が地面を捉えきれなかった。


次の流れが横からぶつかる。


レオの右足が浮く。


 「っ!」


身体が崩れる。


それでも、ノアの腕は離さない。


二人まとめて流れに持っていかれた。


 「縄!」


誰かが叫ぶ。


太い縄が投げられる。


レオが腕を伸ばす。


指先が縄の端をかすめた。


届かない。


二人はそのまま下流へ流された。


 「下へ回れ!」


ガルドが叫ぶ。


大人たちが一斉に動く。


 「舟を出せ!」


 「先の橋へ回れ!」


 「急げ!」


シオンも走り出そうとした。


ガルドが腕をつかむ。


 「待て!」


 「でも!」


 「水際へ出るな!」


シオンは下流を見る。


建物の間を、水路が続いている。


その先。


さらに先で、川へつながる。


そこまで流されたら。


シオンは目を細める。


水。


流れ。


岸。


浮いている木片。


壁際。


柱の影。


水面から出ている石。


今あるもの。


今、比べられるもの。


ガルドの手を振りほどこうとはしなかった。


ただ、水路から目を離さなかった。

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