まだ
低い音は、もう一度した。
今度は、さっきより近い。
大人の一人が振り返る。
「どこだ?」
別の男が仕切りの脇を見る。
「右じゃない」
ノアはまだ木材に手を置いていた。
指先が細かく震えている。
「ノア」
シオンが呼ぶ。
「もういい」
「まだ」
ノアは手を離さない。
新しい杭は入っている。
縄も、ほとんど張り終わっている。
あと少し。
それだけ持てばいい。
そんな顔をしていた。
「ノア、離せ」
ガルドも言う。
「もう支えられる」
「まだ少し」
ノアの声は弱くなっていた。
レオが近づく。
「もういい!」
ノアが顔を上げる。
レオは右足を少し庇うように立っていた。
「十分だろ」
ノアは少し黙った。
それから、ようやく手を離す。
《固定》が解けた。
木材が、わずかに動く。
けれど、新しく打った杭と張られた縄が受け止めた。
「よし!」
男が支えを確かめる。
「これで持つ!」
ノアが大きく息を吐いた。
手を開こうとする。
指が途中で止まった。
シオンが見る。
「手、動かない?」
「……少し痺れてる」
ノアが手を振ろうとする。
けれど、うまく力が入らない。
その時だった。
少し下流から、
ぱき、と。
乾いた音がした。
木が割れる音だった。
大人たちが一斉に振り向く。
「何だ!」
仕切りのすぐ横ではない。
少し離れたところ。
古い木の支えの一本に、大きな裂け目が走っていた。
「そこだ!」
男が走る。
間に合わない。
裂け目が広がる。
支えが外れた。
その瞬間。
これまで仕切りの間を抜けていた水の一部が、横へ大きく回った。
細い作業用通路へ濁った水が流れ込む。
「離れろ!」
ガルドが叫ぶ。
水が通路を走る。
最初は、脛ほど。
それでも勢いがある。
大人たちが一斉に下がる。
ノアも下がろうとした。
一歩。
その足へ横から水がぶつかる。
身体が揺れる。
もう一歩下がろうとする。
足が滑った。
「ノア!」
身体が傾く。
ノアはとっさに手をつこうとした。
けれど、さっきまで《固定》を使っていた手にうまく力が入らない。
石の上を指が滑る。
そのまま水の中へ倒れ込んだ。
「ノア!」
レオが走る。
シオンが腕を伸ばす。
「待って!」
腹のあたりに祝紋が浮かぶ。
《加速》。
レオが水の中へ飛び込んだ。
ノアはすでに横へ流され始めている。
レオがその服をつかんだ。
「ノア!」
ノアが顔を上げる。
「つかまれ!」
レオが腕を伸ばす。
ノアもその腕をつかんだ。
レオが引く。
けれど、通路へ流れ込む水は増えていた。
脛までだった水が、膝を越える。
レオが岸側へ足を踏み出す。
水が脚へぶつかる。
右足が遅れた。
「レオ!」
レオが歯を食いしばる。
もう一度、足を出す。
ノアを自分の方へ引き寄せる。
それでも水は止まらない。
太腿。
その上。
二人の身体が横へ押される。
「こっちだ!」
大人の一人が手を伸ばす。
レオもそちらへ向かおうとする。
だが、足元の石が見えない。
流れが強い。
右足に力を入れる。
うまく踏ん張れない。
「レオ!」
レオの祝紋がもう一度光った。
《加速》。
身体が少しだけ前へ出る。
いつものようには進まない。
水の中では、足が地面を捉えきれなかった。
次の流れが横からぶつかる。
レオの右足が浮く。
「っ!」
身体が崩れる。
それでも、ノアの腕は離さない。
二人まとめて流れに持っていかれた。
「縄!」
誰かが叫ぶ。
太い縄が投げられる。
レオが腕を伸ばす。
指先が縄の端をかすめた。
届かない。
二人はそのまま下流へ流された。
「下へ回れ!」
ガルドが叫ぶ。
大人たちが一斉に動く。
「舟を出せ!」
「先の橋へ回れ!」
「急げ!」
シオンも走り出そうとした。
ガルドが腕をつかむ。
「待て!」
「でも!」
「水際へ出るな!」
シオンは下流を見る。
建物の間を、水路が続いている。
その先。
さらに先で、川へつながる。
そこまで流されたら。
シオンは目を細める。
水。
流れ。
岸。
浮いている木片。
壁際。
柱の影。
水面から出ている石。
今あるもの。
今、比べられるもの。
ガルドの手を振りほどこうとはしなかった。
ただ、水路から目を離さなかった。




