雨・後編
朝になっても、雨は止まなかった。
昨夜より弱くなったようにも見える。
けれど、屋根から落ちる水の音は途切れていない。
ガルドは店の前に立ち、外を見ていた。
「今日は出るな」
シオンが聞く。
「水路?」
「ああ」
ガルドは頷く。
「かなり増えてるらしい」
シオンも店の奥から通りを見る。
道の端を、濁った雨水が流れていた。
少しして、店の扉が開く。
レオだった。
濡れた髪を手で払う。
「ノアのところ行く」
ガルドが振り返る。
「行くな」
「でも、人足りてないって」
「誰に聞いた?」
「さっき、倉庫の人に」
ガルドはしばらく黙った。
「手伝うなら、無茶はするな」
レオが頷く。
「分かってる」
「《加速》も使うなよ」
レオは少し間を置く。
「……分かった」
ガルドがシオンを見る。
「お前は?」
「行かない」
「そうしろ」
レオはそのまま店を出ていった。
雨の音だけが残る。
◇
しばらくして、今度は別の男が店へ入ってきた。
全身が濡れている。
「ガルド、太い縄あるか?」
「何に使う?」
「下の水路だ」
ガルドの顔つきが変わった。
「水が多すぎる。仕切りだけじゃ支えきれん」
「調整場は?」
「動かしてる」
男が息を整える。
「でも、全部そのまま下へ流すわけにもいかない。何本か縄を足して支える」
ガルドは店の奥へ行き、束ねてあった太い縄を持ってくる。
シオンが聞く。
「止めればいいんじゃないの?」
男が首を振った。
「全部止めたら、今度は上であふれる」
ガルドも続ける。
「流れを残しながら、少しずつ調整してるんだ」
男は縄を受け取る。
「助かる」
そのまま外へ出ていった。
ガルドは扉の向こうを見る。
少し考えてから、店先の板を下ろし始めた。
「今日は閉める」
「行くの?」
「様子を見てくる」
「ぼくも」
「駄目だ」
即答だった。
シオンは黙る。
ガルドは外套を羽織る。
「ここにいろ」
そう言って、店を出ていった。
◇
昼を過ぎても、雨は止まなかった。
店の中は静かだった。
シオンは何度か窓の外を見る。
ここから水路は見えない。
ただ、通りを流れる雨水は絶えず道の端へ集まっていた。
その時。
扉が強く叩かれた。
シオンが開ける。
ノアだった。
肩で息をしている。
「シオン」
「どうしたの?」
「親父たち、水路の方にいる」
「うん」
「仕切りの脇」
ノアが一度息を整える。
「縄が一本、切れそうなんだ」
シオンを見る。
「どれが一番悪いか、見てもらえない?」
シオンは黙った。
ガルドに、ここにいろと言われている。
でも、ノアは冗談を言っていない。
「父さんは?」
「向こうにいた」
シオンは顔を上げる。
「一緒に行く」
二人で店を出た。
◇
水路へ近づくほど、水の音が大きくなっていく。
雨音よりも、流れる水の音の方が近かった。
調整場には何人もの大人が集まっていた。
石で固められた水路が少し狭くなり、その途中に太い木の板が何枚も組まれている。
完全に水を塞ぐためのものではない。
板の位置を変えて流れを絞ったり、別の通り道へ分けたりするための仕切りだった。
脇には木の杭が打たれ、太い縄が何本も張られている。
土を詰めた袋も積まれていた。
「シオン!」
ガルドが気づく。
「来るなって言っただろ」
「ノアが呼びに来た」
ガルドがノアを見る。
ノアはすぐに言う。
「縄が危ない」
近くの男も振り返る。
「一本、もう毛羽立ってる」
シオンはそちらを見る。
何本かの縄が、杭と仕切りの間に張られていた。
どれもぴんと伸びている。
雨で濡れ、表面の繊維が浮いているものもある。
一本。
もう一本。
シオンは目を細める。
今、表面から浮いている繊維の量。
《比較解析》。
一本目より、二本目。
二本目より、中央寄りの一本。
「これ」
シオンが指す。
「これが一番、ほどけてる」
男たちが縄を見る。
表面には細い繊維が何本も浮き、一本の撚りが少し開いていた。
「やっぱりこいつか」
「替えるぞ!」
男が新しい縄を持ってくる。
だが、今張っている縄をそのまま外すことはできない。
仕切りが動くかもしれない。
ノアが前へ出た。
「俺が止める」
ガルドが見る。
「できるのか?」
「分からない」
ノアは毛羽立った縄の、撚りが開きかけているところに触れる。
背中の祝紋が光った。
《固定》。
浮いていた繊維の動きが止まる。
男が縄をつかんだ。
「今だ!」
新しい縄を回す。
別の杭へ掛け、何人かで引く。
古い縄を緩めないようにしながら、新しい縄を少しずつ張っていく。
ノアの指が震える。
それでも、触れている部分はそれ以上ほどけなかった。
「もう少し!」
新しい縄が張られる。
男たちが確かめる。
「よし!」
古い縄を外す。
「ノア、もういい!」
ノアが《固定》を解いた。
手を離した途端。
開きかけていた撚りが、さらに少しばらけた。
ノアがそれを見る。
「……ほどけるのも止められるんだ」
シオンも縄を見る。
「今は、そう見えた」
「動かないようにしてるだけじゃない?」
シオンは少し考える。
「分からない」
止めたのは縄そのものなのか。
撚りが開く動きなのか。
それとも別の何かなのか。
今の一回だけでは決められない。
ノアは切り離された縄を見つめていた。
「もう少し、試したい」
少し前までなら言わなかった言葉だった。
◇
少し離れたところで、レオが土袋を運んでいた。
一つ抱える。
腹のあたりに祝紋が浮かぶ。
《加速》。
運ぶ。
置く。
また戻る。
シオンが目を細める。
「レオ!」
返事はない。
また土袋を持つ。
《加速》。
戻ってきたところで、右足が少し遅れた。
レオが一度、足を引く。
ノアが近づく。
「それ、平気じゃないだろ」
「平気」
「足」
「まだ動ける」
ノアが眉を寄せた。
「それで決めるの?」
レオが見る。
「何が?」
「使っていいかどうか」
「俺の能力だろ」
「うん」
「じゃあ俺が決める」
ノアは少し黙る。
「じゃあ、動かなくなるまで分からないじゃん」
レオが顔をしかめた。
「ならないし」
ノアは右足を見る。
「まだ?」
レオは答えなかった。
その時、水路の方から声が飛ぶ。
「水、増えてるぞ!」
別の男が叫ぶ。
「右の支え見ろ!」
「縄、もう一本回せ!」
大人たちが一斉に動いた。
ぎ、と低い音がする。
木が軋んだ。
ガルドが三人を見る。
「お前たちは倉庫に戻れ」
「でも」
レオが言う。
「戻れ」
今度は強い声だった。
三人は倉庫の方へ向かう。
後ろでは、槌で木を打つ音と水の音が続いている。
ノアが一度だけ振り返った。
「これ、まずい?」
シオンも振り返る。
雨の向こうで、何人もの大人が仕切りの周りを動いている。
「分からない」
少し間を置く。
また、木が軋んだ。
シオンはそちらを見る。
「でも、あの音は気になる」




