雨・前編
加筆修正しました。
雨が降り始めたのは、その日の夜だった。
最初は弱かったが、朝になっても止まらなかった。
シオンは店の前から通りを見る。
軒先から落ちた雨が細い流れになって、道の端へ集まっている。
その先には、町を通る生活用の水路がある。
普段は穏やかで、水を汲んだり、道具や荷車の汚れを落としたりするのに使われている。
今日は、その水の音がここまで聞こえていた。
「今日は水路の方には近づきすぎるなよ」
ガルドが言う。
「そんなに?」
「昨日からずっと降ってるからな」
ガルドも外を見る。
「町中の雨水が、あそこに集まる」
シオンも通りの向こうを見る。
ここから水路そのものは見えない。
それでも、いつもより大きな水音が続いていた。
昼を過ぎる頃、雨は少し弱くなった。
止んではいない。
店の扉が開く。
レオだった。
髪も肩も濡れている。
「行こう」
「どこ?」
「ノアんとこ」
ガルドが奥から顔を出す。
「水路には近づくなよ」
「倉庫だけ」
レオが答える。
ガルドは少し考える。
「暗くなる前に戻れ」
「分かった」
二人で外へ出る。
町はいつもより静かだった。
店じまいを早めているところもあり、軒下では濡れた荷物を奥へ移している人がいる。
途中、男がレオを見つける。
「レオ!」
レオが止まる。
「何?」
「これ、向こうの店まで頼めるか?」
布を掛けた小さな荷物だった。
レオが受け取る。
「いいよ」
腹のあたりに祝紋が浮かぶ。
《加速》。
少しして戻ってくる。
「終わった」
また歩き出す。
今度は別の店先から声がかかる。
「悪い、これ倉庫まで持ってってくれないか?」
「いいよ」
また《加速》。
シオンは黙って見ていた。
戻ってきたレオが、一度だけ右足を軽く振る。
「レオ」
「何?」
「今ので何回目?」
レオが少し考える。
「知らない」
「結構使ってる」
「このくらい平気」
そのまま歩き出す。
シオンは少し遅れてついていった。
◇
倉庫街へ入ると、水の音がはっきり聞こえた。
倉庫の裏を生活用水路が通っている。
普段なら底の石が見えるくらい穏やかな水路だったが、今日は水位が上がり、濁った水がいつもより速く流れていた。
水路の脇には、点検や荷物の積み下ろしに使う細い作業用通路が続いている。
レオが覗き込む。
「結構増えてるな」
シオンも水路を見る。
中央。
岸寄り。
今、流れている水の速さ。
《比較解析》。
中央の方が速い。
普段なら、わざわざ比べる必要もないくらい穏やかな流れだった。
「昨日より多い?」
レオが聞く。
「それは分からない」
「見れば分かるだろ」
「昨日はもう比べられないから」
レオが少し首を傾げる。
倉庫に入ると、中では荷物を低い場所から高い棚へ移していた。
ノアも箱を一つ持って、奥へ運んでいる。
「ノア」
ノアが振り返る。
「来た」
「手伝う」
レオがすぐに箱を持つ。
「それ、上?」
「うん」
レオが走ろうとする。
ノアが言う。
「急いでないけど」
レオが止まる。
「でも早い方がいいだろ」
「まだ時間ある」
レオは少しだけ黙り、普通に歩いて箱を置いた。
すぐ次を持つ。
今度は《加速》。
ノアが見る。
「使うんだ」
「早いじゃん」
「別に急いでない」
「でも早く終わる」
ノアは何も言わなかった。
その時、棚の端に置かれていた箱が少し傾いた。
下の木箱が濡れて、ずれたらしい。
ノアが手を伸ばし、箱に触れる。
《固定》。
箱が止まる。
「今、使った?」
レオが聞く。
「うん」
「必要だった?」
「落ちそうだったから」
レオが少し笑う。
「使ってんじゃん」
「必要だったから」
「同じだろ」
「違う」
レオが眉を上げる。
「何が?」
ノアは箱を押し戻す。
「使わなくても困らない時は、使わない」
「できるのに?」
「できるけど、今はいらない」
レオは少し黙り、それから何も言わずに次の荷物を持った。
◇
外から大人の声が聞こえる。
「水路、見てくる!」
別の声が返る。
「気をつけろよ!」
倉庫の男が濡れた外套を羽織る。
「下の仕切りも見といた方がいいな」
「そんなに上がってる?」
シオンが聞く。
男は入口から水路を見る。
「この雨じゃな」
それだけ言って外へ出ていった。
シオンも入口へ行き、水路を見る。
さっきより増えたようにも見える。
でも、それは分からない。
比べられるのは今だけ。
中央と端。
右と左。
今ある流れの違い。
ノアが横に来る。
「危ない?」
シオンは少し考える。
「それは分からない」
「比べても?」
「危ないかどうかは比べられない」
ノアが水路を見る。
「じゃあ、今と昨日」
「できない」
「なんで?」
「昨日は、もうないから」
ノアが少し黙る。
「不便だな」
「うん」
レオが後ろから来る。
「でも今のことは分かるんだろ?」
シオンは頷く。
「比べるものがあれば」
レオも水路を見る。
雨がまた少し強くなった。
水面に細かい輪がいくつも広がる。
倉庫の屋根から落ちる水も、道を流れる水も、少しずつこの水路へ集まっていた。
遠く、下流の方から木を打つ音がする。
何かを補強しているような音だった。
ノアがそちらを見る。
「親父、あっち行ってる」
「何してるの?」
「水の量を調整するところ」
ノアは少し考える。
「仕切りを動かしたり、流れを分けたりするところ」
シオンも下流を見る。
ここからは建物と雨でよく見えない。
ただ、水路だけが町の奥へ続いている。
その先には人が住んでいる。
店もある。
倉庫もある。
さらに先で、水路は川へつながる。
レオが言う。
「明日には止むかな」
誰も答えなかった。
雨は、その夜も降り続いた。




