一つだけ
曇り空が続いていた。
倉庫の前では、一台の荷車が右側へ少し傾いていた。
車輪そのものではない。
その奥。
車輪を支える木枠と、それを留めている金具のあたりがずれている。
荷はまだ積まれたままだった。
このまま動かせば、もっと外れるかもしれない。
「これ、運ぶの?」
レオが聞く。
近くにいた男が首を振る。
「今動かすのはまずい」
右側が沈んでいるせいで、荷を下ろすのにも少し危なそうだった。
シオンは荷車を見る。
左側。
右側。
今、荷台の左右にかかっている重さ。
《比較解析》。
右の方が大きい。
「右の方に重さがかかってる」
シオンが言う。
男も右側を見る。
「やっぱりか」
ノアが荷車に近づいた。
「止める?」
「全部?」
レオが聞く。
ノアは少し考える。
「やってみる」
荷車の側面に手を置く。
背中の祝紋が光る。
《固定》。
一瞬、傾いた荷車が止まった。
けれど、すぐに車輪のあたりがじり、と動く。
ノアが眉を寄せた。
「……重い」
手を離す。
荷車そのものを止めるには、重すぎる。
シオンはしゃがみ、車輪の奥を見る。
ずれている場所。
木枠。
金具。
その中で、外へ押し出されるように動いている部分がある。
「じゃあ、ここだけなら?」
ノアもしゃがむ。
「ここ?」
シオンが指す。
「さっき動いたの、そこ」
ノアは少し迷ってから、ずれかけている金具に触れた。
《固定》。
男が荷車を見る。
少し待つ。
さっきまで外へずれていた金具は、その場所で止まっている。
「そのまま保てるか?」
ノアが頷く。
「たぶん」
「無理そうならすぐ言えよ」
「うん」
「じゃあ、荷を下ろすぞ」
大人たちが動く。
一つ。
また一つ。
レオも運ぶ。
シオンも、持てる大きさの荷を下ろした。
荷が減るにつれ、右側へかかっていた重さも小さくなっていく。
ノアの腕は少し震えている。
それでも、荷車全体を止めようとした時より長く保っていた。
最後の荷を下ろす。
「もういいぞ」
男の声で、ノアが《固定》を解く。
金具はすぐには動かなかった。
男たちが荷車を支えながら、ずれた金具を元へ戻す。
木枠も確かめ、槌で留め直した。
「よし」
男が車輪を軽く揺らす。
今度はずれない。
ノアは直された部分を見る。
「……全部止めなくてもいいのか」
シオンが頷く。
「困ってるところだけ止めればいい時もある」
ノアは少し黙った。
自分の手を見る。
それから、倉庫の横にある古い扉へ目を向けた。
上下二つの蝶番で留められている。
「これでも試していい?」
倉庫の男が扉を見る。
「壊すなよ」
「壊さない」
レオが扉をゆっくり押す。
ぎい、と音を立てて開く。
「まず上?」
シオンが聞く。
ノアが上の蝶番の金具に触れた。
《固定》。
「押して」
レオが同じように扉を動かす。
さっきとは動き方が違った。
上の金具はほとんど動かない。
その代わり、下側の蝶番と扉の端がわずかに揺れる。
レオが手を止めた。
「なんか変」
ノアが《固定》を解く。
今度は下の蝶番。
同じように試す。
また、扉の動き方が変わった。
ノアは上と下を見比べる。
「止める場所で変わる」
「うん」
シオンも扉を見る。
同じ《固定》。
同じ扉。
でも、どこを止めるかで他の場所の動きが変わる。
そのあと、積んである空の木箱でも試した。
一番上の箱。
一番下の箱。
横から押さえている木の支え。
触れる場所を変える。
同じように押しても、全体の動き方が変わった。
ノアは、試すたびに少し考えるようになっていた。
昨日までは、
『困ってないから』
それで終わっていた。
今は違う。
「じゃあ、これは?」
ノアの方から次を探している。
◇
片づけを始める。
レオが木箱を一つ持ち上げた。
「これ、向こうでいい?」
「うん」
ノアが答える。
レオの腹のあたりに祝紋が浮かぶ。
《加速》。
木箱を抱えたまま、一気に倉庫の反対側まで運ぶ。
箱を置く。
振り返った時だった。
右足がわずかに滑った。
「っ」
レオがすぐに反対の足を出す。
転びはしない。
そのまま立て直した。
シオンは見ていた。
「レオ」
「何?」
「今」
「滑っただけ」
レオは右足を一度地面につけ直す。
それから、普通に歩いて戻ってきた。
歩き方は変わっていない。
でも。
昨日も、その前も。
右足を気にしていた。
ノアもレオの足元を見ていた。
何も言わない。
少しして、ノアがシオンを見る。
「もう少し、試せるかも」
「《固定》?」
「うん」
ノアはさっき直した荷車を見る。
そのあと、古い扉を見る。
「止める場所、もっと変えたらどうなるか」
シオンも同じものを見る。
一つの物を止める。
それだけだったはずの能力。
でも。
どこを止めるかで、その周りまで変わる。
遠くで風の音がした。
空はまだ低い。
雨は、まだ降っていなかった。




