第2話:『高所恐怖症の王子様』
『キサラギに、すべてを奪われる』
テーブルの上に提示されたメモを囲み、部屋の空気は凍りついていた。
エアコンの微かな送風音だけが寂しく響く。
「……殺されたって、どういうことですか……?」
黒髪ボブのひまりが、掠れた声で呟いた。
顔からは完全に血の気が引き、怯えた瞳で麗華を見つめている。
「警察は……警察の発表では、ライトくんは連日のハードスケジュールによる過労と、うつ状態による突発的な飛び降り自殺だって……」
「警察が何と言おうと、関係ありません」
麗華はぴしゃりと言い放った。
上品だった口調は跡形もなく消え、氷のように冷たい。
「あの子が自らベランダの手すりを乗り越えるなんて、絶対にあり得ないのよ。――だってライトくんは、重度の高所恐怖症だったんだから」
「え……?」
ひまりが目を見開く。
麗華は腕を組み、冷徹な眼差しで全員を見回した。
「観覧車に乗ることも、ホテルの上層階に泊まることすら嫌がっていた子が、自らマンションの7階のベランダから飛び降りると思う? 恐怖で足が竦んで、手すりに近づくことすらできなかったはずよ」
「それは……確かに、有名なお話ですよね」
スーツ姿のアサミが、メガネのブリッジを指で押し上げながら冷静に口を開いた。
「彼のファースト写真集のメイキング動画でも、歩道橋の上で顔を蒼白にして震えている姿が収められていました。彼が高所恐怖症だったのは、熱心なファンなら誰でも知っている事実です」
「でしょ!?」
金髪ギャルのユカが、身を乗り出してテーブルを叩いた。
「ライトが自分で飛び降りるわけないじゃん! 事故か……誰かに無理やり突き落とされたかに決まってんじゃん!」
ユカの言葉に、ひまりが息を呑む。
部屋の隅に座るゴスロリ服のイチゴだけが、相変わらず無表情で沈黙を守っていた。
「そうよ。あの子は自分から飛び降りたのではない。誰かにそこまで『追い詰められた』の」
麗華の目が不気味に細められる。
「あの日、あの子の部屋に入り込み、精神的に死の淵まで追い詰めた人間がいる。それがこのメモに書かれた『キサラギ』……あの子のすべてを奪った悪魔よ」
「……待ってちょうだい、麗華さん」
それまで沈黙を保っていたアサミが、静かに、だが重々しい声で割り込んだ。
「あなたの言う『追い詰めた』という説には同意するわ。けれど、話の飛躍が過ぎるんじゃないかしら。なぜその『キサラギ』が、この部屋にいると決めつけるの?」
「ふふ、簡単な理屈よ」
麗華が冷たく微笑む。
「あの夜、あの子のマンションの防犯カメラには、不審な外部の人間は一切映っていなかった。けれど、あの子のスマホには、ファンサイトを通じて繋がっていた人物からの連絡が直前まで残されていたの。……あの子のプライベートに侵入できたのは、ファンサイトの人間だけよ」
密室に、重苦しい沈黙が落ちる。
お互いを牽制し合うような、痛烈な視線が交錯した。
「冗談じゃないわ……」
ユカが不機嫌そうに舌打ちをする。
「私たちがライトを殺したって言いたいの!? ふざけないでよ! ここにいるみんな、ライトのことが大好きで集まったファンじゃん! 殺すわけないでしょ!?」
「ファン、ねえ……」
アサミが、冷ややかな視線をユカ、そしてひまりへと向けた。
その口元に、どこか蔑むような微かな笑みが浮かぶ。
「愛が高じすぎて狂気に変わるなんて、オタクの世界では珍しくもないでしょう? 『自分だけのものにならないなら、壊してしまえ』……そう考える人間が、この中にいないと誰が断言できるの?」
「なっ……あんた何言政……!」
「いいえ、アサミさんの言う通りよ」
麗華が静かに肯定する。
「この中に、ライトくんを死に追いやった犯人がいる。全員の嘘を暴くまで、私はこのドアを開けるつもりはないわ」
互いに向けられる疑心暗鬼の牙。
それまで「仲間」だと思っていた目の前の人物が、一瞬にして「不気味な容疑者」へと姿を変えていく。
その時だった。
ずっと静観していたアサミが、ゆっくりと立ち上がり、冷酷な笑みを深めたのは。
「いいでしょう、麗華さん。あなたの提案に乗りわ。……どうせ全員、化けの皮を被った嘘つきなんだから」
アサミは手元のタブレット画面を全員に見せるように掲げた。
「ええ、彼は殺されたのよ。――そしてその犯人は、間違いなくこの部屋にいるわ」




