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インバース・クロニクル ~逆転料理人は異世界を救ってとっとと帰る~  作者: 夜長月虹
第二章【甚雨の邂逅編】

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二章外伝[抜錨少女]

抜錨ばつびょう】…イカリを上げて、船が出航すること。


これは、世界に選ばれなかった少女のお話――

 お母さんが笑ったのを、見たことがなかった。


 ――プレヌメール。


 海の向こう。あの島を見ていると、嫌でも思い出す。


 昔の話。

 まだ小さかった私がどれだけ話し掛けても、どれだけ笑っても、どれだけ泣いても。

 お母さんから向けられる目は、いつも同じだった。


 ――拒絶。


 それから、恐怖もあったかもしれない。

 私と顔を合わせる度、ビクリと震えて顔を逸らす母親。

 まるで化け物でも見たかのような反応……無垢だった子供の心に、それは十分過ぎるほどの傷を付けた。


 ――能無し《ノーマン》。


 お母さんからそう呼ばれた。お父さんからそう呼ばれた。島の人からも。会う人皆から、そう呼ばれた。

 侮蔑と、失望を込めて。

 誰も……“ハンナ”という私の名前を呼んではくれなかった。


「――おお、ここにおったか。ハンナや」


 ふいに、背後から声が掛かる。

 振り返った先にいたのは、見知った顔。

 三年前、島から逃げ出した私を拾ってくれた恩人――


「船長……」

「ふぉっふぉ。なんじゃ、難しい顔しおって。船酔いでもしたか?」


 いつも通り、軽い雰囲気で言ってくれる船長。

 ああ、ありがたい。

 この人は、そういう人だ。昔から。


「大丈夫です。今日は、波も穏やかですから」

「ふぉっふぉ、そうか……成長したのう。この船に来た頃のお前さんと来たら……」

「昔の話です」


 それだけ言って、私は顔を背けた。

 ふっと笑い、顎髭を撫でる船長

 沈黙が流れる。潮風が、頬を掠めた。


「……ニックのことは」


 改まって、船長は言う。


「あやつのことは、残念じゃった……」

「……はい」


 空気が重くなる。

 船の料理人――ニック。

 いなくなってしまったその人の顔が、頭に浮かぶ。


「分からぬものよ……人生というものは」

「そう、ですね……」


 本当に、分からない。

 つい数日まで一緒に働いていたことが、嘘みたいだ。

 少し気難しいところもあったけど、悪い人じゃなかったのに。


『――おいハンナ! 皿はまだか!? ぼさっとするな!』

『――なにしてる!? 能無し《ノーマン》だからできないなどと言うなよ?』

『――ほら、味見だ。どうだね? 美味いか?』


 そんな声は、もう聞こえない。

 葬儀も昨日終わって、彼は海に還ってしまった。


「あの……“あの人”は?」

「む? 誰じゃな?」


 頭に浮かんでいたのは、まるで蛇のような……。


「……ヴィオレさんです。あれから、どうしてるのかなって」

「気になるか?」

「少しだけ……」


 いや、本当はすごく。


 そんな私の気持ちを察したのか、船長は遠くを眺めながら言う。


「……大人しいもんじゃよ。言った通り、部屋から出ることなく、静かに過ごしとる。食事もちゃんと摂って、平穏そのものじゃ」

「そう、ですか……」


 平穏……あんな事があったのに、いつも通りに過ごしている。

 教会の暗部――“白影”と呼ばれたあの人の、柔らかな笑みが頭に浮かんだ。


「恨んではいかんよ、ハンナや。あれは、事故みたいなものだったんじゃから」

「恨んでなんか……」


 いない。いないけど、この波立つ気持ちだけは、なかなか消えてはくれない。

 そんな自分の幼さも、私は嫌だった。


「ほれ、じきに島じゃ。お前さんは……また留守番か?」


 そう聞かれて、


「いえ……」


 私は首を横に振った。


「行きます。行かせてください」

「……大丈夫かね? あそこには……」


 そこで言葉を飲み込む船長。

 なにを言おうとしていたかは分かる。

 でも、


「決めたんです。私が……ニックさんの仕事を引き継ごうって」


 料理なんて全然できないし、食材にも詳しくない。

 なにもないのが私……だけど、それでも。


「このままじゃ、駄目。船の皆のために、私だってなにかしたいんです……っ」

「そう、か……」


 それだけ言うと、船長は私の目をジッと見つめた。


「……うむ、よかろう。お前さんがそう言うなら。行くがええ」

「あ、ありがとうございます」

「ひとまず食糧の補充を任せるからの。今までニックの元で働いとったお前さんなら、できるはずじゃ」


 ポンと私の肩を叩く船長。


 ――任された。


 そのことが無性に嬉しくて……胸の中が、少しだけ晴れたような気がした。


「――あ、いたいた! ハンにゃー!」


 騒がしい声が割り込んできた。

 顔を向けると、そこには猫耳の生えた少女。確か、名前は――


「――レイ、だったっけ? なに? なにか用?」


 私が尋ねると、レイは私の腕を無遠慮に掴んできた。


「ちょっ、な、なによ!?」

「ご主人が呼んでこいって! 朝ごはん! 皆で食べるにゃ!」


 意外と強い力で引っ張られ、私は仕方なく従った。


「ふぉっふぉ、悪いのう。お主のご主人、船の食事を任せてしまって」

「大丈夫! ご主人、好きでやってるからにゃ!」


 あっけらかんと言うレイに、船長は笑って「ありがとう」を伝えた。

 一方で、私は複雑な気分だった。


「ね、ねぇ……アナタのご主人は、その……怒ってないの? 私のこと?」

「へ? にゃんで?」

「なんで、って……私、疑ってたのよ? ニックさんを殺したのが、アナタのご主人だって」


 全ては誤解で、私の早とちりだったのに。


「でも、謝ったにゃ?」

「それはまあ、勿論……」


 ニックさんの葬儀の時だった。

 参列していたレイのご主人――ニックさんと同じ料理人だったあの人には、心からの謝罪と感謝を伝えたつもりだけど。

 それを受け取ってもらえたかは、分からない。

 あの時は、目を合わせられなかったから。


「気にしてないにゃ! ご主人は、そんな小さな人間じゃにゃい! 平気平気!」


 そう言って笑うレイが、私にはとても眩しく見えた。


「そんなことより! 早く食堂行くにゃ! レイ、お腹空いたー!」

「わ、分かったから! そんなに引っ張らないで――」


 容赦なく手を引かれているその中で、


『――お姉ちゃん』


 そんな声が重なって。

 私は思わず島の方を振り返っていた。


「……“カンナ”……」


 零れた名前は、風に溶けて消える。

 小さな手。取り合って砂浜を歩いた記憶が蘇る。

 捨てた記憶が。


 ――会いませんように。


 “あの子”にだけは。

 暗い感情が、また胸の中で渦を巻く。


 ――お母さんが笑ったのを、見たことがなかった。


 私に向けては。


 ――お父さんが優しかった所を、見たことがなかった。


 私に向けては。


 ――能無し《ノーマン》を産んだ母親は早死にする。


 そんな言い伝えを信じて、日々憔悴していったお母さん。

 そんなのは迷信だと、言い聞かせるお父さん。


 ――くだらない。


 子供心に、私もそう思っていた。

 そんな中で産まれた、あの子。

 妹は……全部持って生まれてきた。

 愛情も、才能も。私が持てなかったものを、全部。


『――カンナちゃん……よかった。アナタを産めて』


 お母さんは、最期にそう言って笑った。


『――期待しているぞカンナ』


 お父さんは、そう言ってあの子を撫でた。

 そんなあの子のことを、私は――


『――生まれてきてくれてありがとう』


 嫌いには、なれなかった。


 本当に早く居なくなってしまった母が、それで救われたと思ったから。


 ――聖獣の巫女。


 カンナがそれに選ばれた日。

 私は島を出た。

 いちゃいけないと思ったから。

 あの子のために、なんて綺麗なことは言わない。

 羨ましくて、妬ましくて、苦しかったから。

 私は逃げた。

 あの子に「お姉ちゃん」と呼ばれることから。

 逃げ出した。


 あれから、三年。

 戻らないつもり……だったけど――


「……会いませんように……」


 ――嫌いになりたくないから。


 島は、祭りの時期のはずだ。

 聖獣の巫女にとって、一番大切な時。

 あの堅物のお父さんが、カンナの外出を許す訳がないと分かってはいても、心がざわつく。

 水平線の向こう。島の影が鮮明になる毎に、体が緊張していくのを止められない。


「ハンにゃ? おーい」


 手を引かれる感覚。

 ハッと我に返ると、レイが不思議そうに私を見ていた。


「大丈夫? 浮かない顔にゃ」

「別に、平気……」


 ぶっきらぼうに答えながら、私は頭の中の思い出に蓋をした。


「よく分かんにゃいけど、ご飯食べるにゃ! ご主人の料理なら、皆笑顔になれるにゃ!」

「笑顔に……」


 レイと二人、船の廊下を歩く。

 食堂が近付くにつれて、なんだかいい匂いがしてきた。


「……なるほど……」


 いつの間にか頬が緩んでいる自分に気付いて、可笑しくなった。


 ――料理は人を笑顔にするもの。


 レイのご主人の言葉。

 その意味が、なんとなく分かった。


「……今度、教えてもらおうかな……?」


 料理人――シノ。

 あの人が作る料理には、笑顔が集まる。

 ニックさんの仕事を引き継ぐなら、私にも、そんな料理ができたらいいと思う。


「にゃ? なんか言ったにゃ?」

「なんでもないわ。ほら、行きましょ」


 食べて、飲んで、お腹と心を満たしたら……一歩を踏み出そう。

 能無し《ノーマン》だとか、そんなの関係ない。

 ここから、私の道を歩くんだ。

 いつか……誰かの笑顔を作るために。

次回も外伝です。

「蛇の足跡」

乞うご期待!

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