二章外伝[蛇の足跡]
――愛しのヴィオレへ。
その財布がなくなっていることに気付いたのは、船の甲板に立ってすぐのことだった。
金の刺繍が入った蛇革の、いつか……誰かに貰ったそれ。
「誰だったかしらね……」
遥か遠く、時間の中に置き去りにした記憶。
もう顔も思い出せない。私に愛しいと言ってくれた誰か。
そんな彼から貰った贈り物を、なぜ未だに持ち歩いていたのか。
なんだか可笑しくて、笑ってしまう。
「まあ、いいわ……」
きっと、どこかで落としたのね。
船に乗り込むためにお金を払って……そこまではあったのだから、戻って探せば見つかるかもしれないけれど。
「いいわ……もう」
後戻りはしない。
出来ない所に、私はいるのだから。
そのまま進もうとした時――
「――お前はいつから“ヴィオレ”なんて名前になったんだ?」
後ろの方からそんな声が聞こえて、私は思わず振り返っていた。
「――レイ、正直に言えよ? これ、どうしたんだ?」
「そ、そこに落ちてたんだにゃ! 本当にゃ! レイは、それを拾っただけで……」
まだ年若そうな銀髪の少年が、猫耳の生えた獣人の女の子を問い詰めている。
「――とりあえず、この財布は持ち主に返す! いいな?」
「も、もちろんにゃ!」
白い毛並みの猫ちゃんに「ご主人」と呼ばれている少年。その手には――見覚えのある財布。
気付けば、私の足は二人のもとへ向いていた。
「――あの……少し、よろしいかしら?」
二つの視線が私に集まる。
きょとんとした顔の猫ちゃんと、少し目のやり場に困った様子の男の子。
――可愛らしい子達ね。
近くで見て、そう思った。
思わず舌なめずりしそうになってしまう。
困った癖。駄目駄目、今はまだ……ここでは、穏便にいかなきゃね。
緩みそうな口元をどうにか抑えて財布を返してもらった。
「ああ、親切な方達に拾ってもらえてよかったわ。大切な物なの。本当にありがとう」
「にゃははー! レイ、親切にゃ!」
「ちょ、お前、調子乗んな!」
仲が良さそうな二人。獣人と人間が、珍しい。
主従の関係ではないのかしら? 猫ちゃん、大事にされてるのね。羨ましいわ。
なんてことを思う自分が可笑しくて、笑いが漏れた。
「王都までご一緒かしら? まだ先は長いわね。どうぞ、良い旅を」
楽しい旅になりそう。
そんな予感に、胸が躍った。
***
面白い。なんて面白いの。
シノ君……だったかしら?
料理人だったのね、あの子。初めて見た時から気にはなっていたけれど……まさか、まさかあんなに私を楽しませてくれるなんて。
躰を冷たい感触が伝う。
部屋の浴室で水浴びをしながら、私は笑いが止まらなかった。
「うふふ、美味しかったわ……」
まだ口に残る香辛料と魚介の香り。
「カレー……だったかしら?」
知らない料理。初めての味。
あそこまでの料理ができる子だとは思わなかった。
食堂で水みたいなスープが出てきた時はどうしようかと思ったけれど……あれ程の才能に出会えたんだもの。収穫だったわ。
「そうそう、収穫といえば……」
“あの子”も、そうだ。
食堂の給仕さん。名前も分からないけど、あの青い髪の女の子。
彼女からは、私と同じ匂いがする。
同じように……世界から愛されなかった者の匂いが。
「いつか、ゆっくりお話しなきゃね……」
良い出会いに恵まれたと思う。
そういう意味では、あのニックとかいう残念な料理人さんにも、存在価値はあったかしら?
「それにしても……」
目立ち過ぎたわね、少し。
目的の島に着くまでは大人しくしてないといけないのに、つい口が滑っちゃった。
まだまだ、お楽しみの時間は後に取っておかなきゃ。
「ふふふっ……」
嗤いながら、私は水栓を閉めた。
濡れた躰を拭いて、大判の綿布を羽織る。
「――あら?」
浴室から出ると、そこに思わぬ客人の姿があった。
「アナタは……」
ニックだった。
この船の料理人。残念な料理を作る、残念な人。
その彼が、何故こんな時間に私の所へ?
そんな疑問に答えるかのように、ニックはその手に持っていたものをこちらに差し出してきた。
「申し訳ございません、勝手にお邪魔して。ノックはしたのですが……コチラ、ルームサービスです」
「ルームサービス? 私、頼んでいないのだけど?」
「ええ。ですから、これは……私の個人的な気持ちです。あなたへの無礼、謝罪させていただきたく」
頭を下げるニック。
差し出されたその料理――デザートは、砂糖やクリームをふんだんに使って果物の甘さを引き出したような……数刻前の彼ならおそらく作らなかったであろうものだった。
「わざわざご丁寧に……ありがとう。そういうことなら、いただこうかしら」
言いながら、私は皿を受け取ろうと片手を伸ばす。
そのさなか……顔を上げたニックと目が合った。
――ガシャン!
唐突な破裂音。
飛散する皿と、食材達。
「……あらあら、もったいない。どうしたの? 料理人さん?」
尋ねられたニックは、その瞬間目を見開き、体を震わせていた。
「な……な、んだ……それ、それは……ッ?」
差された指先、それを追って、私は視線を落とした。
――ああ、見えちゃってたのね。
ニックの目は、顕わになっている私の胸元へ――
「――なんなのだ!? その“印”はッ!?」
そこに刻まれた“邪教の印”を捉えていた。
「ふふっ……バレちゃった?」
「そ、んな……き、貴様は……まさか……ッ」
残念ね。
アナタは……運が悪かった。
「邪きょ……ッ!?」
それ以上、彼が喋ることはなかった。
「ごめんなさいね。騒ぎになるのは困るの。まだね」
後ずさるニック。その手には、一匹の蛇が噛みついていた。
「さようなら」
崩れるニックを少し押す。彼はテーブルに頭を打ち付け、そのまま動かなくなった。
「ふふ、ふふふふ……あらまあ、困っちゃうわ。こんな所で寝てしまうなんて」
予定外だった。
けれど、こうなってしまったものは仕方がない。
残念な料理人さん。
せめて最期は、馴染みのある場所でお眠りなさい。
「さて……お片付けしないとね」
割れた皿の破片を拾い集める。
散らばったデザート……少し摘んで、口に入れた。
「へぇ……やればできるじゃない」
まぶされた砂糖とクリームで果物の甘さが引き立たされ、とても完成度の高いデザートだった。
「ふふ、ごちそうさま」
アナタの最後の料理……美味しかったわ。
唇に付いたクリームを舐め取りながら、私は彼の遺体を抱き抱えた。
***
雨が、心地いい。
ひんやりと、じんわりと体を濡らす感触。つい浸りたくなってしまう。
島のはずれ。海岸で一人、私は静かに海を眺めていた。
「残念だったわね、ハンナちゃん……」
可哀想なお姉ちゃん。能無し《ノーマン》のハンナちゃん。
船の給仕なんかしていてもきっと心は晴れないと思ったから、せっかく色々とお手伝いしてあげたのに。
結果は、残念。
「まあ、仕方がないかしら……」
彼女の妹、カンナちゃん。
聖獣の巫女として選ばれた女の子。
私達が滅ぼすべき存在は、そう容易い相手じゃない。それだけのことだから。
「やっぱり駄目ね、人任せにしちゃ」
面白いものが見れたのは良いけど、このままじゃ仕事が終わらない。
『――滅ボセ。殺セ。消シ去レ』
ずっと、頭に声が響いてる。
不快な音。
分かっているから、黙っていてほしい。
そう思うけど、止むことはない。
お仕事を終わらせるまでは。
「やれやれ……お役目って大変だわ――ねぇ? “アナタ”も、そう思わない?」
そう言って私は目線を下げる。
お尻の下、そこで力なく横たわる老人は、なにも答えてはくれない。
――“火守り役”。
島でそう呼ばれていた彼。
島のお祭りで大事な役目を持っていた彼は今、私から椅子代わりにされているのに、何一つ文句を言わない。
「ふふ……釣れないわね」
なんて、馬鹿なことを言う自分が可笑しかった。
既に事切れ、ただの肉塊となった彼には、もうなにもできないのに。
私、なにを言っているのかしら?
「さて……と」
立ち上がり、私は火守りの遺体を海に投げ捨てた。
「次は……カンナちゃん」
もうそろそろ遊びは終わり。
一気に終わらせるのは、好みじゃないけど、これもお仕事だから。
「ふふふ、待っててね」
せめて楽しく、皆一緒に――
「――沈めてあげるから」
雨が、少し強くなった。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
これで本当に第二章は終わり、次回からいよいよ第三章開幕です!
乞うご期待!




