二章三十六話[全ては水の底]
***シノ視点***
次に目を開けた時――そこにあった光景を、俺はきっと……生涯忘れることはない。
「カン、ナ……っ……」
波が、止まっていた。
海がひっくり返ったかのような水流が。
島を飲み込もうとしていた災厄が。
まるで、見えない壁にでもぶつかったみたいに。
そこで、その場所で、完全に制止していた。
「す、凄い……」
「巫女、様……っ!」
震える声。呆然と空を見上げている島民達。
俺も、同じだった。
――風が、吹いている。
荒々しく、でも優しい風。
その向こうに見える――少女の背中。
どんどん遠ざかって、小さくなっていく。
それなのに。
――どうしてだろう?
今は、その背中が誰よりも……海よりも、大きく見えた。
「ご主人……っ」
泣きそうな声で。
「行、こう……」
「レイ……?」
真っ直ぐな瞳が、俺を貫く。
「行くにゃ……行か、にゃいとッ!」
「ま、待てよ……っ! それじゃカンナが――」
「――カンにゃはッ!!」
爆発したような声。俺は、喉が詰まった。
「カンにゃは……っ」
レイの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「カンにゃ……笑ってたにゃ」
「っ……ああ……」
そうだな。俺も、見てた。
震えてたくせに、泣きそうだったくせに。
それでも、アイツは――
「――なんで、だよ……っ」
伸ばした手は、もう届かない。
屋根にへばりつきながら、俺は項垂れた。
――風は、まだ吹いている。
温かな風が、俺達の乗った屋根船を少しずつ港へ運んでいく。
『――後は、お願いします』
そう言われているみたいだった。
「馬鹿、野郎ォ……っ」
騎士達が光を打ち上げる。
それはまるで、別れを告げる花火のようで……
「総員! 巫女……いや、カンナ殿に、敬礼ッ!!」
乗り合わせた騎士達。島民。ギリアンや船長……それにレイまで。
そこにいる全員が姿勢を正し、もはや彼方の少女へ礼を尽くす。
太陽のような輝きが、夜の闇を照らしてくれていた。
俺達の、行くべき道を。
「……レイ」
「……なんにゃ?」
状況は、分かってる。
もう……腹は決まったから。
「しっかり、掴まってろよ」
「っ……うん!」
だから、カンナ……後は任せろ。
せめて、ここにある命だけは、俺が――
『――再現スキル、【憤怒の境地】発動』
噴出する白炎。船は再び、水上を駆け出した。
「うおおおおおおおおおおおおお――!!」
水飛沫。
景色が流れる。流れる。流れる。
悲しいのも、悔しいのも、なにもかもを置き去りにして。
振り返るな。前だけ見てろ。
自分に言い聞かせて、俺は進む。
そして――
「――着いた、着いたぞッ!」
船長が叫ぶ。
港は、まだ災厄に呑まれてはいなかった。
白炎が消える。ガス欠。
俺達の乗る屋根船は、水のない地面を勢いよく滑り――遂に波止場まで到達した。
「皆、船へ! 早うッ!」
全員が船長の指示に従い、目の前の船に向かって疾走する。
「兄ちゃん達! なにボーッとしてんだ! 行くぞ!」
「ご主人……」
「……行こう」
人の波。
重い足を引きずりながら、ギリアンの後を追う。
揺れるタラップ。一息に渡り切った。
海が、文句有りげに波を立てている。
「生きろよ……」
呟いた言葉は、風に溶けて消えた。
「――全員乗っとるな! よし、帆を張れぇ! 出航ォーーッ!!」
雨が降り始めた。
嵐が、船の進行を遅らせる。
まるで、俺達に『逃がさない』とでも言うかのように。
「邪魔すんじゃねぇ――」
――風が吹いた。
追い風が、俺達の背中を押すかのように。
「カンナ……?」
突風を帆いっぱいに受け止め、船は島を旅立った。
「――船長! 皆様も、よくご無事で……!」
そう声をかけてくれたのは、船医イレーネ。
「うむ、どうにかのう……この者らのお陰じゃ。これだけの命を拾えたのは……」
「そ、そんなこと……っ」
ない。やめてくれ。
「流石は、“フォルムの英雄”じゃな」
「……っ!? 知って、たんですか?」
「いや、知らんかったよ……じゃが、さっきまでのお主を見れば自ずと知れる。噂に聞く、フォルムの英雄……それが事実なら、その者はきっと……お主のような人間じゃろうよ」
「それは……っ」
違う。
俺は、そんな――
「――さあ、怪我をしている方は私の所へ! 船長、ハンナさんは……」
「む? ああ……」
言葉を濁す船長。
その肩に担がれているハンナ。眠り続ける少女の姿を見て、イレーネは一瞬目を見開く。
「っ……そう……ですか……」
それ以上は、なにも言わなかった。
「後で、送ってやらねばな……儂らの流儀で」
「はい……」
「さあ、止まっとる暇はないぞ! 儂らの出番は、ここからじゃ!」
それだけの会話を交わし、船長とイレーネはそれぞれの持ち場へ走っていった。
「皆……強えな……」
俺は、こんなにも弱いのに。
今にも、崩れてしまいそうなのに。
「英雄……ね」
そんな訳、ないだろ。
だって、俺は……俺には、誰も救えなかった。守れなかったんだ。
救われただけ。守ってもらったんだ。
たった一人の、女の子に。
「――ご主人! 後ろっ!」
叫んだのはレイ。
鋭い声に、俺は――島を振り返った。
「あ……っ……」
風が、止んだ。
災厄を受け止めていた、風が。
「カンナ……っ!!」
もはや遠い景色。
波が、島を呑み込んだ。
容赦なく。全ての思い出が、全ての命が。水の底へ連れていかれる。
なにも残らない。
――終焉。
その中心で、天を突くような大蛇が、嗤っているように見えた。
「……ち、くしょお……っ」
「ご主人……っ……!」
レイが、たまらず俺に抱きついてくる。
その涙を受け止めながら、俺はその光景を目に焼き付け続けた。
――俺は、無力だ。
その日、きっとこの世界の地図から、一つの島が消えた。
次回、第二章最終話
「止まない雨はないから」
乞うご期待!




