二章三十五話[波風は彼方へ]
『面白イ! 面白いワ、料理人サン! アナタは、ドコまで私ヲ悦ばせてクレルの?』
雷鳴のように響く嬌声。
それがすぐ後ろで聞こえたような気がして、俺は更にスピードを上げた。
『……でモ、だからコソ、残念』
うるさい。
黙れよ。
『コノ素敵な時間モ、そろそろ終わらせナきゃイケナイもの』
後ろは振り返らない。
そんな暇はない。
「――おいおいおいおい、来た! 来やがったぞ!!」
ギリアンの絶叫。
それだけで、頭に浮かぶ。
天を突く大蛇、司災獣ナーガ。
ソイツが波を纏い、災厄そのものとなってこちらへ迫ろうとする――絶望の姿が。
すぐ傍で、ヴィオレが嗤っているような気がした。
「ご、ご主人……っ!」
「分かってるッ!」
追いつかれる。
呑まれる。
見えなくても、感じてしまった。その気配、圧力みたいななにかを、そう遠くない所で。
大口を開けた大蛇のイメージが、頭に絡みついて離れない。
「――港じゃ! 見えたぞ! 儂の船が!」
助か……った?
あそこまで行けば、逃げ切れる――
「――いや」
駄目だ。
駄目だ駄目だ駄目だ。
遠目に見える港を見て、俺は首を振った。
避難してきた人達がいる。
出航の準備をする船乗り達がいる。
女も、子供も、青年も、老人も。
あそこには、命が集まっている。
そんな場所に、あんなデカブツ……あの災厄を、連れてはいけない。
「く、そ……ッ」
どうする? どうする!?
方向転換? 今から?
でも、それじゃ、ここにいる人達は……どうなる?
『――アハハハはハハハはハハハハはははハハハ!』
声が近い。
時間がない。
迫られる決断。
どうすればいい?
どうやって……俺は、俺は――
「――シノさん」
真っ白になる。
誰かが、俺の目の前に立っていた。
「大丈夫です」
なにが?
「シノさんも、レイさんも、ここにいる誰も……死なせません」
「お、前……っ」
なにを……なにを、言ってんだよ?
「だって――」
やめろよ。
そんな顔で、笑うな。そんな目で、俺を見るなよ。
「――ワタシが守りますから」
「待っ――」
言う暇はなかった。
風が吹く。
その瞬間――一人の少女が空に舞い上がった。
「カンにゃッ!?」
レイが叫ぶ。
消える白炎。俺は、思わず速度を落としてしまった。
「ば、馬鹿野郎ォ! なにしてんだ!? 戻れッ! 戻れってんだ! 逃げんだよ、お前も! 一緒に!」
振り返り叫ぶ。
風を纏い、宙に浮かぶ少女へ。
「カンにゃ! カンにゃっ! 駄目にゃ!!」
レイが、手を伸ばして叫ぶ。
そうだ。
ふざけんな。そんなの、許さねぇ。
なんで、お前が……そんな。
カンナは、答えない。
代わりに、そっと微笑んで――
「――ありがとう…………大好き」
風が、優しく頬を撫でた。
そう思った次の瞬間、
「ぐ……ッ!?」
目を開けていられない程の突風が吹いた。
まるで、俺達を押し出すかのように。
閉じた視界。頬を伝って流れたのは、きっと水飛沫だけじゃなかった。
***カンナ視点***
「行っちゃった……な」
お父さんも、お姉ちゃんも、レイさんも。そして――
「――っ……」
離れていく、大切な人たちの背中。
――行かないで。
言いそうになってしまう。
――追いかけたい。
そう思ってしまう。
胸が張り裂けそうで、苦しかった。
――怖い、逃げたい。
それでも、ここから動く訳にはいかなくて。
震える体。拳を握って、どうにか奮い立たせた。
「ありがとう……」
シノさん――ワタシに勇気をくれるのは、いつだってあの人の料理だ。
どんな状況でも料理をするあの人の姿……あの人のお陰で、今ワタシはここにいる。
「美味しかったな……」
最後に食べるのが、蛇になるだなんて思わなかったけど。
とても美味しくて、温かくて。
力が湧いてきたから。
「皆さん、どうか……生きて」
一言だけ呟いて、前を向いた。
『アハッ! ドウしたの、巫女さん? もしかして、私を待っテテくれた?』
目前に迫る津波。
ワタシの故郷を呑み込む水の壁の中から、蛇が愉快そうに嗤っていた。
「はい……待って、いました」
風が吹く。吹き荒ぶ。
踊る髪、はためく衣。
風が、渦を巻く。
『アハハはは! 嬉しいワ! 巫女様ガ一緒に踊っテくれルなんテ!』
波の中で、災厄が嗤っている。
許さない。
父を、姉を、島の皆を苦しめる存在を。ワタシは絶対に許さない。
「アナタは、ここで止めます」
聖獣の巫女として。
「いいえ――」
――大好きな人達を、守るために。
「お願い。力を、貸してください……!」
――ワタシの全部を、あげるから。
祈り、願う。
そして――
『アらあら?』
――風が吠える。
獰猛な暴風が、荒波を受け止めた。
次回「全ては水の底」
乞うご期待!




