三
聞き覚えのある声で、幸せな眠りを破られた。
突然揺り起こされたわけではなく、耳障りな騒音で徐々に覚醒させられた感じ。意識の輪郭は曖昧だった。
ぼーっとした頭が、聞こえてくる言葉の意味を理解し始める。このバカ犬、とか、どんだけ図々しいんだ、とか……返事はなく、一人で怒鳴り散らしているみたい。
うるさいなあ、日下くん、またエリアスと喧嘩して――って、え、日下くん!?
私は目を見開いた。
照明を点けたまま寝ていたので寝室は明るい。ダイニングに繋がる引き戸が開いていて、その戸口に二つの人影があった。正確には、一人と一頭。
コートを着たままの日下くんは、黒い狼に掴みかからんばかりの勢いで何やら怒っている。狼の方は彼の剣幕などどこ吹く風で、しれっとあさっての方向を見ていた。
「日下……くん、何してんの……?」
我ながら間抜けな声で、私は尋ねた。今イチ現実感が湧かず、身を横たえたままだ。頭や背中が少し汗ばんでいて、もう寒気はなかった。
日下くんはギクリと私を見る。
「は、蓮村……あのこれは、別に勝手に入ったわけじゃなくて……鍵を……こいつがっ……」
よく分からない言い訳をする彼を尻目に、狼エリーは四本の脚でトトトトっとこちらに近寄ってきた。そしてベッドに飛び乗り、大きな体で私の隣に寝そべった。
「あーっ、おまえはまた!」
「……エリー、もしかして、ずっといてくれたの?」
私が頭を撫でると、エリーは三角形の耳を寝かせて、フンッと鼻息を吐いた。黒いつやつやした上毛は硬いが、下毛は羽毛みたいにふかふかしている。
こんな生き物が隣で寝ていたら、そりゃあったかいはずだ……。
吸血鬼エリアスは体温が低いのに、動物エリーは普通に暖かいというこの捻れ状態、いつもながら奇妙である。
「こら降りろ! 何つー破廉恥な真似してんだ!」
日下くんが首根っこを掴もうとしたら、エリーは素早く頭の向きを変えてパクッとやる。急いで腕を引っ込めなかったら、日下くんは手に歯型をつけられていただろう。
「こっ、こいつー!」
「エリー、やめなさい……よしよし、ありがとね」
「蓮村、甘やかすな! おまえが風邪引いたのも、元はと言えば全部こいつのせいじゃねえか」
「そうだけど、私が凍えてたから湯たんぽがわりになってくれたんだと思う。日下くんもありがとう……お見舞いに来てくれたんだよね」
私は日下くんの足元に放置されたコンビニ袋を見てお礼を言った。
日下くんは気まずげに頬を掻き、事情を簡単に説明してくれた。
九州支部からの急な依頼で八時過ぎまで残業をした日下くんは、私の容態が気になって帰りに立ち寄ってくれたらしい。何度メッセージを送っても既読にならないので、寝ているのだろうとは思ったが、心配したとのこと。確かにスマホを確認する余裕がなかった。
差し入れの食材を買ってから私のアパートを訪れて、インターフォンを押したが返事がない。しばらく待った後、やっぱり寝てるんだなと諦めて帰ろうとしたところ――。
「ドアが開いたんだよ」
日下くんは口元を歪めてエリーを睨んだ。エリーは太い尻尾を二回ほど振る。
玄関に狼エリーが座っているのを見て、彼は不覚ながら腰を抜かしそうになったという。エリー、肉球と爪を器用に使って内鍵を開けちゃうんだよね……。
訪問者が日下くんだと分かった上での行動だっただろう。驚く彼をほっといて、エリーは部屋の奥に戻り、眠りこける私の横に何食わぬ顔で滑り込んだのだとか。
差し入れだけ置いてとっとと帰れ――そう言われたんだと日下くんは主張するが、わりと当たっていると思う。
それでブチ切れた日下くんがエリーをベッドから引きずり下ろし、思わず大声を出してしまったところで私が目覚めたというわけだ。
「……騒いで悪かった。具合はどう?」
「喉は痛いけど、少し熱が下がったみたい」
私はぬるくなったスポーツドリンクを飲んだ。時刻はもう九時を過ぎている。数時間前に比べると、体は格段に楽になっていた。
「薬が効いてきたんだな。でも油断すんなよ」
日下くんはコンビニ袋から冷たいペットボトルを出してくれた。私に手渡した後、何となくそわそわと戸口まで戻る。
彼は何度となくこのアパートを訪れて、私と一緒に料理を作ったり食事をしたりしているのだけど、そういえば寝室にまで足を踏み入れたことはなかった。ワンルームなら仕方がないとして、部屋が仕切られているとやっぱり気を遣うのだろうか。
「あー、えーと、食いもん買ってきたんだけど……食欲あるか?」
「うん……柔らかいものなら食べられそう」
「じゃあ雑炊か何か作るわ。台所借りるぞ。冷蔵庫開けるぞ」
「えっ、ありがと! ご飯は冷凍にしたのがあるから……」
やるべきことが決まって、日下くんは俄然いきいきとしてきた。キッチンまわりに関しては、勝手知ったる私の家である。私が起き出そうとすると、いいからいいからと押し止められた。
「できたら起こすから寝てろ……あ、忘れてた」
日下くんはベッドの向かいにあるローチェストに目を止めた。
そこにある写真立てと、三基の位牌に。
コートを脱ぎ、ローチェストの前に正座する。そして深く頭を垂れて、数回呼吸をする間、合掌をした。
折り目の正しい、それでいて自然な所作だった。家族にきちんと挨拶をしてくれて私は嬉しかったのだけど、同時に、仏前や墓前での作法に慣れた人の振る舞いだというのが感じ取れて、少し切なくなった。
彼にもまた、毎朝毎夕、悼む相手がいる。悪夢にうなされる夜を過ごしている。
彼の喪失感と私の喪失感は、当然のことながら別物だろう。でも、苦しみも嘆きも経験して、それでも懸命に前に進もうとする彼の姿には、とても勇気づけられるのだ。
私はもう一度ありがとうと言った。日下くんは苦笑して、コンビニ袋を手に立ち上がった。
「味は保証しねえからな。エリー、おまえもこっち来て手伝え」
狼の手も借りたい、なんて、まさか本心でエリーに労働力を期待しているわけではないはず。厚かましい狼を私から引き離すための方便だ。
エリーは面倒臭そうに体を起こした。ベッドから飛び降りた時、黒い姿は本来の造形に戻っていた。
白い頭髪に指を突っ込んで掻く仕草は、まだちょっとイヌ科ムーブが抜けていない。
「肉が食いたい。それか、甘味」
「そんな消化の悪いもん、病人に食わせられるか」
「なら、いらん」
エリアスはフンと鼻を鳴らしてから、いきなり私に顔を寄せた。
首筋から耳の後ろ、頬まで冷たい感触に包まれる。白い両掌が私の顔を挟んだのだ。それから額にも冷たいものが――。
「うん、さっきほど熱くないな。これで死なずに済みそうだ、俺のおかげで」
どこで覚えてきたんだか、自分の額を私の額にくっつけて、エリアスは満足げに言った。
吐息は氷のようだったが、光る緑の目に邪気や欺瞞は窺えなかった。
「何を偉そうに……」
「このセクハラ吸血鬼!」
呆れた私がエリアスを押しのける前に、日下くんの右ストレートが飛んでくる。エリアスは彼の拳を軽くはたいてやり過ごし、次の瞬間には窓際に移動していた。本気を出されると、動きが速すぎて人間にはまったく見えないのだ。
「用は済んだ。もう行く。あとは冬馬、おまえが暖めてやれよ」
「毛玉と一緒にすんな!」
エリアスは口元に牙を覗かせて薄く笑った。
窓が開き、凍える外気が吹き込んでくる。雪のちらつく冬の夜へ、黒い後ろ姿はためらいなく飛び出して行った。
猛禽のシルエットが窓ガラスを一瞬横切った。日下くんは思い切り顔を顰めて、やや乱暴にアルミサッシを閉めた。
日下くんが作ってくれた鶏雑炊は、少し煮すぎてご飯が糊にみたいになっていたけれど、優しい味がした。
喉が痛いので、全部食べるのにずいぶん時間がかかってしまった。その間日下くんは言葉少なに私を眺めていて、食後の服薬まで見届けると、追い立てるように寝床に戻した。
「食器はそのままでいいから……」
「病人が気ぃ遣うな」
洗い物の水音を聞きながら、私はうとうとし始めた。
結局、日下くんがいつ帰ったのか分からなかった。
翌朝目が覚めると、キッチンには鍋に作ったお味噌汁と、ラップのかかったおむすびが二つ。朝食用らしい。玄関は施錠され、家の鍵はドアの新聞受けに入っていた。
何から何までお世話になったことに感謝しつつ、私はちょっと形の歪な塩むすびを頬張った。熱はほとんど下がっており、喉に痛みは残るものの、体は楽になっていた。
寝室の窓を開けると、夜の間にまた積もったらしい雪が、眩しく朝日を跳ね返していた。
風邪から回復した爽快感と相まって、冷たい風も心地よく感じる。氷点下の気温で、体の悪いものが浄化されるような気さえした。
何かいいことがありそうだ!
庇から滑り落ちた雪が音を立てる。ベランダに出た私は、朝日の中で大きく伸びをした。
私の無責任な予感は、予兆を感じていたという意味で当たっていた。
数日の後に、それが動き出したのだ――決して『いいこと』ではなかったが。
オフィスを訪れた招かれざる客は、告げた。
「捜してほしい人物がいる」
それが、SCの遭遇した最大の事件の始まりだった。
「スノーホワイト・メヌエット」完