↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/15

8

「ミシェル!」

 

 こちらへ歩いてきたオスカルは、リディアの姿を認めるとほんの僅かに足を止めた。ごく短い間だったが、普段は人に会えばすぐ笑う男が、何の表情も浮かべないまま彼女を見ていた。


 けれど次の瞬間には、いつものオスカルに戻っていた。

「先生も一緒だったんですね」

「ええ。少し話をしていただけです」

 リディアは何事もなかったように答えた。

「ミシェル、もう医務室は終わった?」

「ああ」

「どうだった?」

「何もない」

「良かった。僕も心配はしてたけど、何もないならそれが一番だよ」


 その言葉に、ミシェルは眉を寄せた。

「先生に言ったのはお前だろう」

「僕?」

「治癒師から聞いた」

「ああ……そのことか」

 オスカルは悪びれる様子もなく頷いた。


「勝手なことをして悪かった。でも、あの状態を見たら放っておけないだろう?」

「僕には先に言えたはずだ」

「言ったよ。何度も。でも君、聞く耳持ってなかったじゃないか」

 返す言葉がなかった。

 オスカルは困ったように笑い、それから冗談めかして肩を竦める。


「怒るなら治ってからにしてくれよ」

「病人扱いするな」

「だから、そういう意味じゃないって」

 いつものやり取りのはずだった。それでも、ミシェルの気持ちは軽くならなかった。


「では、私はこれで」

 リディアは軽く会釈し、二人の横を通り過ぎる。その際、ほんの一瞬オスカルと視線が交わった。


「知り合いか?」

 咄嗟に訊くと、オスカルが振り返った。

「え?」

「フェルゼン先生と」

「初対面だよ。どうして?」

「今、見ていただろう」

「そりゃ見るよ。新任の先生なんだから」

 笑いながら返されてしまえば、それ以上追及する理由はなかった。


 自分が疑いすぎているのだろうか。誰かの視線に意味を見出し、何気ない沈黙へ理由をつけ、知らない女の中に死んだ少女の面影を探している。


 治癒師に言われたばかりの言葉が、ふたたび頭を過ぎった。


「オスカル」

「何?」

「彼女の正式な名前、覚えてるか」

 隣を歩いていたオスカルの足が止まった。

「彼女って?」

「昔の僕の……」

 それ以上言わなくても、誰のことかは伝わったようだった。


 オスカルの表情から、先ほどまでの軽さが少しだけ失われる。


「急にどうしたの」

「いいから答えてくれ」

「もちろん覚えてるよ」

「ほかにも名前があったか?」

 オスカルは考え込んだ。

「……ほかにもって何?」

「僕たちが呼んでいた名前以外にも、別の名前が入っていなかったか」


 不自然と言い切れるほど長い沈黙ではなかった。


 それでも、ミシェルには何かを選んで答えたように聞こえた。


「どうだったかな。子供の頃はみんな、普段の名前で呼んでただろ? そこまでは覚えてないよ」

「そうか」

「何かあった?」

「いや。少し気になっただけだ」


 そう言って歩き出したものの、胸の中には小さな引っかかりが残った。


 昔なら、オスカルの「覚えていない」という言葉を、そのまま受け取っていた。


 今は違う。


 彼が何かを忘れているのか、忘れたふりをしているのか、その区別すらつかなくなっている。


 けれど、それを疑う自分の方こそおかしいのではないかという思いも、同時に消えてくれなかった。


 その夜、ミシェルは自室の机に便箋を広げた。宛先は父だ。


 書斎机の端に置いたランプが、白い便箋を淡く照らしている。魔法筆を取ったものの、何から書けばいいのか分からず、しばらく空白の紙を眺めていた。

 父へこの話をするのは久しぶりだった。幼い頃は何度も尋ねた。

 彼女はどうなったのか。自分は何をしたのか。どうして伯爵家の人たちはいなくなったのか。


 けれど、父から返ってくる答えはいつも似たようなものだった。

『もう終わったことだ』

『お前は何も悪くない』

『忘れなさい』

 大人になるにつれ、その言葉が優しさではなく、拒絶に聞こえるようになった。


 何度か書き出しては消し、ようやく一行目を書く。

『父上に、確認したいことがあります』

 その先で魔法筆が止まった。


 彼女は本当に死んだのか。湖から引き上げられた時、まだ生きていたのか。カニンガム女史は、なぜあの場所にいたのか。


 訊きたいことはいくらでもあった。


 けれど、それを一度に書けば、また以前と同じように答えを拒まれる気がした。

 ならば、今回は違う訊き方をするしかない。

 事実だけを尋ねる。誰でも答えられるはずの、ごく簡単な事実を。


 ミシェルはしばらく考えた後、ゆっくりと続きを書いた。


『幼い頃、僕の婚約者だった彼女の正式な名前を教えてください。僕たちが普段呼んでいた名だけではなく、ほかに名があったのなら、それもすべて』


 書き終えてから、しばらくその一文を見つめた。


 これだけなら、父が何を隠していたとしても答えられるはずだった。それでも、封を閉じるまでには時間がかかった。

 返事が来ることを望んでいるはずなのに、同時に、来てほしくないとも思っている。


 もし何もなければ、これまで通りでいられる。

 リディア・フェルゼンは、たまたま昔の婚約者に似た若い教師に過ぎず、昨夜の夢も最近の疲れが見せたものだったということにできる。


 けれど、もし……。

 

 そこから先を考えるのをやめ、ミシェルは封を閉じた。手紙を学院の使い魔へ預けると、小さな鳥の姿をした魔法生物は窓辺で一度羽根を震わせ、そのまま夜の空へ飛び立っていった。


 遠ざかっていく影を見送りながら、昨夜の夢の中で聞いた声がまた蘇る。


『まだ脈があります』


 もし、それが本当に過去の記憶だったなら。

 そして、リディア・フェルゼンという女が、かつて自分の知っていた名前をもう一つ持っていたなら。


 これまで真実だと思ってきたもののうち、いったい何が残るのだろう。

 

 彼女は死んだと信じてきた。オスカルは何も覚えていないと言い、父は何も語らなかった。そしてミシェル自身も、自分の記憶を信じることができなくなっている。


 確かなものを求めて手を伸ばすほど、これまで揺らがないと思っていたものが、少しずつ形を失い始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。