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「ミシェル!」
こちらへ歩いてきたオスカルは、リディアの姿を認めるとほんの僅かに足を止めた。ごく短い間だったが、普段は人に会えばすぐ笑う男が、何の表情も浮かべないまま彼女を見ていた。
けれど次の瞬間には、いつものオスカルに戻っていた。
「先生も一緒だったんですね」
「ええ。少し話をしていただけです」
リディアは何事もなかったように答えた。
「ミシェル、もう医務室は終わった?」
「ああ」
「どうだった?」
「何もない」
「良かった。僕も心配はしてたけど、何もないならそれが一番だよ」
その言葉に、ミシェルは眉を寄せた。
「先生に言ったのはお前だろう」
「僕?」
「治癒師から聞いた」
「ああ……そのことか」
オスカルは悪びれる様子もなく頷いた。
「勝手なことをして悪かった。でも、あの状態を見たら放っておけないだろう?」
「僕には先に言えたはずだ」
「言ったよ。何度も。でも君、聞く耳持ってなかったじゃないか」
返す言葉がなかった。
オスカルは困ったように笑い、それから冗談めかして肩を竦める。
「怒るなら治ってからにしてくれよ」
「病人扱いするな」
「だから、そういう意味じゃないって」
いつものやり取りのはずだった。それでも、ミシェルの気持ちは軽くならなかった。
「では、私はこれで」
リディアは軽く会釈し、二人の横を通り過ぎる。その際、ほんの一瞬オスカルと視線が交わった。
「知り合いか?」
咄嗟に訊くと、オスカルが振り返った。
「え?」
「フェルゼン先生と」
「初対面だよ。どうして?」
「今、見ていただろう」
「そりゃ見るよ。新任の先生なんだから」
笑いながら返されてしまえば、それ以上追及する理由はなかった。
自分が疑いすぎているのだろうか。誰かの視線に意味を見出し、何気ない沈黙へ理由をつけ、知らない女の中に死んだ少女の面影を探している。
治癒師に言われたばかりの言葉が、ふたたび頭を過ぎった。
「オスカル」
「何?」
「彼女の正式な名前、覚えてるか」
隣を歩いていたオスカルの足が止まった。
「彼女って?」
「昔の僕の……」
それ以上言わなくても、誰のことかは伝わったようだった。
オスカルの表情から、先ほどまでの軽さが少しだけ失われる。
「急にどうしたの」
「いいから答えてくれ」
「もちろん覚えてるよ」
「ほかにも名前があったか?」
オスカルは考え込んだ。
「……ほかにもって何?」
「僕たちが呼んでいた名前以外にも、別の名前が入っていなかったか」
不自然と言い切れるほど長い沈黙ではなかった。
それでも、ミシェルには何かを選んで答えたように聞こえた。
「どうだったかな。子供の頃はみんな、普段の名前で呼んでただろ? そこまでは覚えてないよ」
「そうか」
「何かあった?」
「いや。少し気になっただけだ」
そう言って歩き出したものの、胸の中には小さな引っかかりが残った。
昔なら、オスカルの「覚えていない」という言葉を、そのまま受け取っていた。
今は違う。
彼が何かを忘れているのか、忘れたふりをしているのか、その区別すらつかなくなっている。
けれど、それを疑う自分の方こそおかしいのではないかという思いも、同時に消えてくれなかった。
その夜、ミシェルは自室の机に便箋を広げた。宛先は父だ。
書斎机の端に置いたランプが、白い便箋を淡く照らしている。魔法筆を取ったものの、何から書けばいいのか分からず、しばらく空白の紙を眺めていた。
父へこの話をするのは久しぶりだった。幼い頃は何度も尋ねた。
彼女はどうなったのか。自分は何をしたのか。どうして伯爵家の人たちはいなくなったのか。
けれど、父から返ってくる答えはいつも似たようなものだった。
『もう終わったことだ』
『お前は何も悪くない』
『忘れなさい』
大人になるにつれ、その言葉が優しさではなく、拒絶に聞こえるようになった。
何度か書き出しては消し、ようやく一行目を書く。
『父上に、確認したいことがあります』
その先で魔法筆が止まった。
彼女は本当に死んだのか。湖から引き上げられた時、まだ生きていたのか。カニンガム女史は、なぜあの場所にいたのか。
訊きたいことはいくらでもあった。
けれど、それを一度に書けば、また以前と同じように答えを拒まれる気がした。
ならば、今回は違う訊き方をするしかない。
事実だけを尋ねる。誰でも答えられるはずの、ごく簡単な事実を。
ミシェルはしばらく考えた後、ゆっくりと続きを書いた。
『幼い頃、僕の婚約者だった彼女の正式な名前を教えてください。僕たちが普段呼んでいた名だけではなく、ほかに名があったのなら、それもすべて』
書き終えてから、しばらくその一文を見つめた。
これだけなら、父が何を隠していたとしても答えられるはずだった。それでも、封を閉じるまでには時間がかかった。
返事が来ることを望んでいるはずなのに、同時に、来てほしくないとも思っている。
もし何もなければ、これまで通りでいられる。
リディア・フェルゼンは、たまたま昔の婚約者に似た若い教師に過ぎず、昨夜の夢も最近の疲れが見せたものだったということにできる。
けれど、もし……。
そこから先を考えるのをやめ、ミシェルは封を閉じた。手紙を学院の使い魔へ預けると、小さな鳥の姿をした魔法生物は窓辺で一度羽根を震わせ、そのまま夜の空へ飛び立っていった。
遠ざかっていく影を見送りながら、昨夜の夢の中で聞いた声がまた蘇る。
『まだ脈があります』
もし、それが本当に過去の記憶だったなら。
そして、リディア・フェルゼンという女が、かつて自分の知っていた名前をもう一つ持っていたなら。
これまで真実だと思ってきたもののうち、いったい何が残るのだろう。
彼女は死んだと信じてきた。オスカルは何も覚えていないと言い、父は何も語らなかった。そしてミシェル自身も、自分の記憶を信じることができなくなっている。
確かなものを求めて手を伸ばすほど、これまで揺らがないと思っていたものが、少しずつ形を失い始めていた。




