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医務室を出た後も、治癒師の言葉は妙に頭に残った。
昨日、庭園で見た少女も、季節外れの花も、本当はどこにも存在していなかった。そのことだけを考えれば、幻視という言葉は否定しにくい。
けれど一方で、夢の中に現れた湖畔の光景が、忘れていた記憶である可能性まで完全に退けられたわけではなかった。
廊下の窓から庭園を見下ろしてみると、今日は何もおかしなものは見えない。季節通りの草木が風に揺れ、その間を数人の生徒が談笑しながら歩いているだけで、昨日の白い少女の姿などどこにもなかった。
「シュデール卿」
背後から声をかけられミシェルが振り返ると、リディアが数冊の本を腕に抱えて立っていた。
一瞬だけ身体が強張ったが、昨日と違う服を纏い、濃い色の教師用ローブを羽織った姿は、どう見ても学院へ赴任してきた若い教師にしか見えない。
「……フェルゼン先生」
「もう医務室はよろしいのですか」
「ええ」
「それなら良かったです」
それだけ言って通り過ぎるかと思ったが、リディアは足を止めたまま、少し迷うようにミシェルを見た。
「昨日は、驚かせてしまったようですね」
「先生が謝ることではありません」
「それでも、私を見た時のあなたが、誰か別の人を見ているように思えたものですから」
思いがけない言葉に、ミシェルは返事をためらった。
間近で見ると、昨日よりもよく分かる。
目元の形も、鼻筋も、幼い頃の少女そのものというわけではない。成長すれば顔立ちは変わるものだし、記憶の中にいる彼女はまだ子供なのだから、似ているかどうかを正確に比べること自体が難しい。
それでも、笑う直前にほんの少しだけ目尻が下がるところや、考える時に親指で抱えた本の背をなぞる癖に、妙な懐かしさを覚える。
「私の顔が、どなたかに似ていたのでしょうか」
死んだ婚約者に似ているなどと、本人を目の前にして言えるはずがなかった。
「……人違いでした」
「そうですか」
リディアはそれ以上追及しなかった。
むしろ、それがミシェルには気になった。昨日のような騒ぎを起こされたのだから、普通ならばもう少し理由を聞いてもおかしくない。それとも教師として、生徒の事情へ踏み込みすぎないようにしているだけなのだろうか。
「先生は、隣国の出身なんですか」
「いいえ。生まれはこちらの国です。ただ、幼い頃に家族と隣国へ渡りました」
ミシェルの質問に、リディアは殊更なんでもないように答える。その様子に戸惑いは全く見えなかった。
「……幼い頃というと?」
なおもミシェルが質問を重ねるも、リディアは嫌がらずに答える。
「八歳になる少し前だったと思います」
彼女が湖へ落ちたのも、その頃だった。
胸の内に浮かんだ考えを打ち消すように、ミシェルは窓の外へ一度視線を向けた。
「どうして隣国へ?」
「家の事情です」
答えは簡潔だったが、それ以上を話すつもりがないことは伝わってくる。
「フェルゼンという姓も、その時から?」
「いいえ。母方の姓です。隣国へ渡った後、母方の親族の養女になりましたので、それ以来フェルゼンを名乗っています」
ミシェルは、思わず黙り込んだ。
幼い頃にこの国を離れ、母方の家へ入り、姓まで変わった。ひとつひとつを見れば、あり得ない話ではない。貴族の子供が親族の家へ養子に入り、家名を変えること自体も珍しいことではなかった。
目の前にいる女性の声や顔立ちに覚える懐かしさと重ねると、偶然で済ませるにはあまりにも出来すぎているように思えた。
「……リディアという名前も、その時に変えたんですか」
そう訊くと、リディアは微かに微笑んだ。
「いいえ。リディアは昔から私の名前です。ただ、幼い頃はこちらでは別の名前で呼ばれていました」
「別の名前?」
「正式な名前には、リディアのほかにもう一つ名前があるんです。父方の家にいた頃はそちらを使っていましたが、母方の家へ移ってからはリディアを名乗るようになりました。ですから、後から新しい名前を付けたわけではありません」
それを聞いた瞬間、安堵すればいいのか、それとも逆なのか、ミシェル自身にも分からなかった。
婚約者だった少女を、リディアと呼んだ記憶は一度もない。彼女の正式な名前をすべて知っていたかと問われれば、自信はなかった。幼い頃のミシェルにとって、彼女はいつも同じ一つの名前で呼ぶ存在で、それ以外の名まで意識したことなどなかったからだ。
「もう一つの名前は?」
訊ねると、リディアはしばらく答えなかった。その沈黙が、ミシェルには妙に長く感じられた。
先ほどまで淀みなく答えていた彼女が、初めて言葉を選んでいる。
「…………シュデール卿」
「何です」
「その名前を聞いて、あなたはどうするつもりですか」
問い返されて初めて、自分でも答えを持っていないことに気づいた。
もし同じ名前だったら。その時自分は、目の前の女性を生きていた婚約者だと信じるのだろうか。それとも、自分の記憶がまた何かを作り出したのだと思うのだろうか。
それ以前に、もし彼女が本当に生きていたのなら、自分は何を言えばいい。
ずっと死んだと思っていた。
自分が殺したかもしれないと思っていた。
だけど……その真偽を確かめるために、本気で何かをしたことがあっただろうか。
周囲の大人が口を閉ざしたから、自分もそれに従った。幼かったことを理由にして、年月が過ぎるほど訊くことを怖がるようになり、最後には罪悪感を抱えていることそのものを、彼女への贖罪のように考えていたのかもしれない。
「……分かりません」
正直にそう答えると、リディアはしばらくミシェルを見つめた後、静かに視線を落とした。
「そうですか」
ただそれだけだった。
けれど、その声音には一瞬、言葉にできない何かが滲んだような気がした。
その時、廊下の向こうから聞き慣れた声がした。




