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起き上がってもなお、夢の中で聞いた声は鮮明に残っていた。
『まだ脈があります。魔力を切らさないでください、呼吸を戻します!』
ただの夢だと考えれば、それまでのことだった。ここ数日の自分を思えば、過去への執着が都合のいい光景を作り上げている可能性の方が、よほど現実的に思える。
けれど、彼女が湖へ落ちた日の記憶には以前から大きな空白があり、昨夜見たものがその隙間へ入り込んだだけの夢なのか、それとも失われていた記憶が形を取り戻したものなのか、ミシェルには判断がつかなかった。
覚えているのは、庭園で遊んだこと、白い服を着た彼女が笑っていたこと、菓子のクリームを袖につけたオスカルを二人でからかったこと。そして、その日の夕方には大勢の大人たちが湖の周囲を走り回り、伯爵夫妻が泣いていたことだった。
それらの間に何があったのかを思い出そうとすれば、記憶は決まって曖昧になる。
昨日までは、その空白こそが自分の罪なのだと思っていた。忘れたのではなく、忘れなければ生きていけなかったから、幼い自分が記憶の奥へ押し込めたのではないかと。
だが、昨夜の夢の中で湖から引き上げられた少女には、まだ命があった。
そのことが、これまで疑うことさえなかった前提に、小さな亀裂を入れていた。
寝台から足を下ろすと、床の感触がひどく頼りなく感じられた。昨夜は何度も目を覚ましたらしく、寝衣は汗を吸って肌に纏わりついている。窓の外には朝の光が差し込み始めていたが、いつもなら清々しく思える時間も、今日は夢の続きを無理やり断ち切られたような落ち着かなさがあった。
洗面台の鏡に映った自分は、思っていた以上に疲れた顔をしていた。目の下には薄く影が落ち、頬にも普段ほどの色がない。これではオスカルでなくとも体調を気遣うだろうと思ったものの、その考えが妙に腹立たしくて、ミシェルはいつもより乱暴に顔を洗った。
冷たい水が皮膚を流れても、昨夜の光景までは消してくれなかった。
少女の兄が水辺に膝をついていた。その傍らにカニンガム女史がいた。そして、治癒師は確かにまだ脈があると言った。
もしあれが記憶なのだとしたら、自分が知らされなかったことは、思っていたよりずっと多い。
学院へ向かう頃には、昨夜見たものについて誰にも話さないと決めていた。夢の中にカニンガム女史がいたことも、少女が湖から引き上げられた時にまだ息があったことも、まして、それが記憶かもしれないなどとは口にするつもりはなかった。
今の自分がそんな話をすれば、何を言っても病人の妄言として受け取られかねない。それに、最近あったことについては、すでに自分の知らないところで話が広がり始めている。
廊下ですれ違う下級生がこちらを見て、すぐに目を逸らす。教室へ入れば、少し前まで続いていた会話が不自然に途切れることがある。誰も面と向かって何かを言うことはなかったが、それがむしろ、学院内でどのような噂が立っているのかを雄弁に物語っていた。
王弟の息子が、急に教室を飛び出して、誰もいないところで誰かを追いかけていた。ちょっとおかしくなってるらしい——そんな話になっていても不思議ではない。
ところが午前の授業を終えたところで、担任から医務室へ行くよう告げられた。
「昨日のこともある。念のため診てもらいなさい」
「体調に問題はありません」
「それを判断するのは君ではないよ、シュデール卿」
穏やかな言葉だったが、断る余地はなさそうだった。
机の上の教本を閉じながら、ミシェルは僅かに眉を寄せた。
「誰かが頼んだんですか」
「誰かが、とは?」
「いえ……何でもありません」
担任は不思議そうな顔をしたものの、それ以上は訊かなかった。
——オスカルが何か言ったのではないか。
そう思ってしまったこと自体が嫌だった。
以前なら、彼が教師へ相談したとしても、単純に自分を心配してくれたのだと思えただろう。それなのに今は、相手の何気ない行動にまで裏の意味を探そうとしている。
医務室へ向かう途中、廊下ですれ違った生徒たちがこちらを見て、それまで続けていた会話の声を僅かに落とした。以前なら気にも留めなかっただろう視線が、今では少し煩わしく感じられる。
学院付きの治癒師は四十代半ばほどの女性で、ミシェルも実技授業で怪我をした時には何度か世話になったことがある。いつもと変わらぬ柔らかな物腰で椅子を勧められ、それだけで身構えていた気持ちが解けた。
「昨日は大変でしたね」
「大したことではありません」
「そうでしょうか」
治癒師はそう言いながらミシェルの手首へ指を当てた。指先から淡い魔力が伝わり、腕を通って肩口までゆっくりと巡っていく。目を閉じれば、自分のものではない魔力が身体の中を探っているのが分かった。
「魔力循環には問題ありません。疲労はありますが、それほど酷くもありませんね」
「でしたら、もう戻っても?」
「もう少しだけ付き合ってください」
治癒師は手を離すと、今度はミシェルの顔を真っ直ぐに見た。
「最近、きちんと眠れていますか?」
「一応は」
「夜中に目を覚ますことは?」
「……時々」
「夢をよく見ることは?」
「夢?」
不意を突かれ、思わず聞き返す。
「強い疲労や精神的な負担が続くと、昔の記憶を夢の中で繰り返したり、起きている時までその光景を思い出したりすることがあります。珍しいことではありませんよ」
「誰かから何か聞いたんですか」
問い返す声には、自分が思った以上に警戒が滲んでいたらしい。治癒師は僅かに眉を上げ、それから困ったように笑った。
「昨日のことは学院中に知られていますから」
「オスカルからは?」
「ヴァルディエ卿からも、少しだけ。最近あなたがぼんやりしていることが増えたことや、授業中に声をかけても気づかないことがあるので心配だと仰っていました」
やはり、と思った。
しかし、それだけなら何もおかしくはない。友人の様子がおかしければ治癒師へ相談することもあるだろう。ミシェル自身、逆の立場なら同じことをしたかもしれない。
それでも、自分の知らないところで状態を説明されていたことに、拭いきれない苛立ちが残った。
「ほかに何か言っていましたか」
「シュデール卿?」
「最近の僕が、変だとか……」
「そのような言い方はしていませんよ」
治癒師は少し考えてから、言葉を選ぶように続けた。
「昔の出来事を思い出しているようだ、と仰っていました。けれど、そのことを無理に聞き出してほしいとも言われていません。あなたを心配しているのだと思います」
その答えに安堵すべきなのか分からず、ミシェルは黙り込んだ。
「僕は病気なんですか」
問いかけると、治癒師はすぐには答えなかった。
「今のところ、身体にも魔力にも明らかな異常はありません。ただ、心というものは身体ほど簡単には診られませんから、あなた自身が何か困っていることがあるなら、話してもらった方が判断しやすいですね」
ミシェルは一度視線を落とした。
そこにないものが見えることがある。聞こえないはずの声が聞こえることもあり、夢の中で見た光景と昔の記憶との境界まで曖昧になっている。
そう並べてしまえば、自分でも正常だと言い切る自信はなかった。
「昔のことを夢に見るだけです」
「昔のこと?」
「幼い頃のことです。それ以上は……今は話したくありません」
治癒師は無理に聞き出そうとはしなかった。
「分かりました。でしたら、まずは睡眠を取ることと、食事を抜かないこと、それから魔力の使いすぎを避けてください。それでも、起きている時に昔の光景が現れるようなことが続くなら、専門の治癒師に診てもらうことを勧めます」
「それは、幻視ということですか」
「そういう可能性も含めて、という意味です。けれど、決めつける必要はありません。記憶というものは、時として匂いや音、似た景色をきっかけに、本人の意思とは関係なく蘇ることもありますから」
最後の言葉に、ミシェルは思わず顔を上げた。
「それは……忘れていた記憶でも?」
「あり得ます。ただし、思い出したものが必ずそのまま事実だとも限りません。夢や後から聞いた話が混ざることもあります。だからこそ、無理に答えを出そうとしない方がいいでしょう」
穏やかに諭され、ミシェルは小さく頷いた。忘れていた記憶である可能性まで否定されたわけではない。
その事実だけが、胸の奥にストンと落ちた。




