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廊下に面した窓に白い裾がぼんやりと映る。それを追ってミシェルは教室を飛び出した。
角を曲がり、階段を下りた。誰かが後ろから名を呼んでいる気もしたが、振り返れば少女を見失ってしまうような気がして、足を止められなかった。
やがて渡り廊下を抜けた先で、少女は庭園へ入った。
そこで初めてミシェルの足が止まった。目の前には、季節にそぐわない花が咲いていた。赤、紫、白の花々が、記憶の中の小径と同じように道の両脇を埋めている。
おかしいと分かっている。
今はあの夏ではないし、この花が咲く時期でもない。それなのに、香りまで感じる。
少女が振り返る。
ミシェルがその名を呼ぼうとした瞬間、肩を強く掴まれた。
「ミシェル!」
視界が揺れ、目の前の景色が崩れた。そこにいたのはオスカルだった。
先ほどまで咲いていたはずの花は消え、庭園には季節通りの草木しかない。白いワンピースの少女も、どこにも見当たらなかった。
「追いついた…………」
オスカルは息を切らしながら、ミシェルの両肩を掴んでいた。その後ろには教員と数人の生徒まで来ている。
「急に教室を飛び出して……どうしたんだ?」
ミシェルはすぐには答えられなかった。
教室からここまで自分がどの道を通ってきたのか、記憶が曖昧だった。
「誰も、いなかったのか?」
「ミシェル。君には、誰か見えてたの?」
その場が静かになった。
周囲の視線を感じて、ミシェルは自分が何を口にしたのかをようやく理解した。死んだ少女を追うように教室を飛び出し、誰もいない庭園まで駆けてきた。ミシェルには確かに見えていたが、どうやら他の誰にも見えていなかったらしい。
どう見ても、まともな行動ではない。
「ひとまず医務室へ連れて行きましょう」
後ろから声がして振り向くと、リディアが立っていた。先ほどまで教壇にいた彼女が、いつの間にかこちらまで追ってきている。
ミシェルはその顔を見た途端、反射的に一歩下がった。
「……シュデール卿」
「僕に近寄らないでくれ」
思った以上に強い声が出た。
リディアは手を伸ばしていたわけでもない。それでも拒絶せずにはいられなかった。
「失礼しました」
彼女は静かにそう答えた。その声音にもまた、説明のつかない懐かしさがある。
似ている。でも、そんなはずはない。
死んだ人間がここにいるはずがないのだから、自分が見間違えていると考える方が自然だった。彼女は死んだ。死んだんだ。
「先生」
オスカルがリディアへ向き直った。
「最近、こういうことが増えてるんです」
ミシェルは顔を上げる。
「オスカル?」
「授業中に呼んでも反応しなかったり、何もないところを見ていたり。演習中も、急に何かに気を取られたみたいになって……」
「やめろ」
「でも——」
「やめろ!」
声が庭園に響き、オスカルは口を閉ざした。
周囲の生徒たちは戸惑いを隠せない様子でこちらを見ている。心配している者もいれば、明らかに怯えた顔をしている者もいた。
そこで初めて、ミシェルは周囲から見た自分の姿を意識した。
誰もいない場所で何かを見つめ、突然教室を飛び出し、新任教師を見て取り乱す。
病気なのではないかと疑われても仕方がない。
「……医務室には行く」
低く言うと、誰も反対しなかった。
「僕も行くよ」
「来なくていい」
「でも……」
「一人で行ける」
オスカルは何か言いたそうにしたが、結局それ以上は続けなかった。
医務室へ向かう途中、ミシェルは一度だけ振り返った。
リディアはまだ庭園に立っていて、遠くからこちらを見ている。その顔には、教師が生徒を案じているというだけでは説明のつかないものが浮かんでいるように見えた。
けれど、それさえも今の自分が勝手に意味を見出しているだけなのかもしれない。
その日の夕方には、学院中に話が広がっていた。
シュデール公爵令息が授業中に突然教室を飛び出したこと。誰もいない廊下で誰かを追っていたらしいこと。新任教師を見るなり、ひどく取り乱したこと。
表立って何かを言う者はいない。
王弟の息子であり、公爵家の跡取りでもあり、王位継承権まで持つ相手なのだから当然だった。
それでも、廊下ですれ違う生徒たちがミシェルを見ると僅かに声を落とすようになったことで、何を思われているのかは十分に伝わってきた。
自分は本当に正常なのだろうか。そう考えること自体が、以前より増えていた。
ある日の放課後、階段を下りている途中で、背後からオスカルに呼び止められた。
「ミシェル」
「…………」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「それ、怒ってる人の言い方だよ」
隣まで追いついたオスカルは、しばらく黙って歩いていたが、やがて少し声を落とした。
「この前のこと、悪かった」
「何が?」
「みんなの前で言ったこと」
ミシェルが返事をしないでいると、オスカルは困ったように息をついた。
「でも、本当に心配なんだ。君、昔のことを思い出してるんだろう?」
その言葉に足が止まる。
「どうしてそう思う」
「分かるよ。ずっと一緒にいるんだから」
「何を覚えてる?」
思わず訊いていた。
「僕?」
「あの日のこと」
「また、その話?」
オスカルの表情が僅かに曇る。
「答えろ」
「ミシェル。今は、それより君自身のことを考えた方がいい」
「僕自身?」
「最近、見えてないものが見えてるんだろう?」
その言葉は、責めるような声音ではなかった。
むしろ、助けたいと思っているように聞こえる。
「君が何を見ているのか、僕には分からない。でも、もし昔のことが原因なら、無理に思い出そうとしない方がいいんじゃないかな」
ミシェルは何も答えなかった。
「忘れたままでいいことだってあるよ」
ゆっくり顔を上げると、オスカルはいつものように笑っていた。以前にも似たようなことを言われたな……と思い出す。
『もう何も話さなくていい』
『事故だったことにしましょう』
『君のためだ』
記憶の中に残っている声が、なぜか今のオスカルの声音に似て聞こえた。
「オスカル」
「何?」
「お前、本当に覚えていないのか」
オスカルは一瞬だけ黙った。
「……何を?」
その答えを聞いて、ミシェルはそれ以上訊くのをやめた。
「いや。何でもない」
その夜、また夢を見た。
今度は湖へ落ちる瞬間ではなく、その後の光景だった。
大勢の大人たちが湖の周囲を走り回っている。
その中で、一人の若い男が突然立ち止まり、水面へ向けて手を伸ばした。
『見つけた! ここだ、水の中にいる!』
誰かが湖へ飛び込む。
大きく揺れた水面から、やがて白い服を着た少女が抱き上げられた。
身体は力なく垂れ、濡れた髪が頬へ張りついている。
『治癒師を!』
叫ぶ声が飛び、別の誰かが少女の胸元へ手を当てた。
『まだ脈があります。魔力を切らさないでください、呼吸を戻します!』
その言葉を聞いた途端、夢の中のミシェルは息を詰めた。
少女の兄が泥だらけの地面へ膝をつき、妹の名を何度も呼んでいる。その肩を、一人の若い女性が抱いていた。
長い髪が風に揺れるのが見える。
その女性がふと顔を上げた。
——カニンガム女史だった。
そこで目が覚めた。身体中汗をかき、寝衣が肌に貼り付いて気持ち悪い。
窓の外はまだ暗く、人の気配もしない。見慣れた寝室の天井を見上げたまま、ミシェルはしばらく動けなかった。
夢だと思えば、それまでだった。
最近の自分なら、ありもしない光景を作り出していたとしても不思議ではない。
けれど、どうしても一つだけ耳から離れない言葉があった。
『まだ脈があります』
もし、あれが本当に過去の記憶なのだとしたら。
湖から引き上げられたとき、彼女はまだ生きていたことになる。
それなら、なぜ。
自分はずっと、彼女が死んだと思っていたのだろう。




