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カニンガム女史が連行されてから数日、学院には妙な落ち着かなさが残っていた。
教師が騎士団に捕縛されるなど滅多にあることではなく、しかも理由が横領ともなれば、生徒たちが面白がらないはずもない。
昼休みになれば食堂のあちらこちらで憶測が飛び交い、どれほどの金額だったのか、共犯者がいたのではないか、実は王宮まで調査が及ぶらしいと、誰が言い出したのかも分からない話が日を追うごとに形を変えていた。
ミシェルはそうした噂に加わる気にはなれなかった。頭から離れないのは、馬車へ押し込まれる直前にこちらを見たカニンガム女史の顔と、途中で遮られたあの言葉だった。
『シュデール卿! 貴方は——』
続きを考えれば考えるほど、わからなくなる。彼女とは授業でしか関わりがない。少なくともミシェルの知る限り、自分と彼女を繋ぐものは学院しかなかった。ならば、何か告げようとしていたとしても学院に関することのはずだ。だが、まるで心当たりがない。どう考えても答えが出ないので、ミシェルはいったん考えることをやめた。
その頃から、過去の光景は以前にも増して唐突に現れるようになった。授業中に窓の外へ目を向ければ、学院の庭園へ昔の小径が重なり、廊下ですれ違った女生徒の白い袖が、あの日のワンピースの裾に見える。
食堂で銀器の触れ合う音を聞いているだけなのに、遠くで水が跳ねる音まで聞こえた気がすることもあった。
最初は疲れているのだと思った。でも、それだけで片づけるにはそうしたことが起こる頻度が増えすぎていた。
「ミシェル」
呼ばれて顔を上げると、向かいの席に座ったオスカルがこちらを見ていた。
「……なに?」
「いや、今ので二回目だから」
「そうか」
「そうか、じゃないだろう」
昼休みの食堂はいつものように賑わっていたが、オスカルの視線だけはいつになく真剣だった。冗談めかして笑ってはいるものの、こちらの顔色を確かめるような目つきが気にかかる。
「最近、本当に大丈夫?」
「またそれか」
「またって言うくらい聞かれてるなら、少しは気にした方がいいんじゃない?」
「寝不足だと言っただろう」
「でも、寝不足だけで人の話をまったく聞かなくなるかな」
その言い方が癇に障り、ミシェルは眉を寄せた。
「どういう意味だ」
「悪い意味じゃないよ。ただ、昨日の魔術理論でも先生に何度か呼ばれてたのに気が付かなかっただろう? 今日だって、さっきからずっと誰かを探しているみたいだったから」
「誰かを探してなんかいない」
思わず強く否定したものの、では何を見ていたのかと問われれば答えに困った。誰もいない場所で、死んだはずの少女の白いリボンを見たなどと口にすれば、それこそ自分の方がおかしいと思われるだろう。
「なら、何を見てたの?」
案の定、オスカルはそう訊いてきた。
「……別に」
視線を落としたミシェルを見て、近くに座っていた女生徒が心配そうに会話へ入ってきた。
「シュデール卿、医務室へ行った方がいいんじゃない? 顔色もあまり良くないわ」
「そうだよ。前から少し疲れてるみたいだったし」
別の生徒まで続けると、オスカルはすぐに同意するでもなく、困ったように笑った。
「僕も無理に行けとは言わないけど、もし病気だったら困るだろう」
「病気?」
自分でも分かるほど声に棘が混じった。
「そういう意味で言ったんじゃないよ」
「じゃあ、どういう意味だ」
「ミシェル。君、自分で思っているより疲れてるんじゃないかな」
その言葉だけを聞けば、ただの気遣いだった。昔から幾度も向けられてきた、親しい友人としての声音でもある。
だからこそ、余計に嫌だった。
もしオスカルに悪意があるのなら、反発することもできる。ただ、本当に心配されているのなら、自分の方に問題があるということになる。
ミシェルはそれ以上何も言わず席を立った。背後で誰かが「怒らせた?」と小声で訊き、オスカルが「分からない」と答えるのが聞こえたが、振り返る気にはなれなかった。
食堂を出てからも、病気という言葉が頭から離れなかった。もし本当に、自分がおかしくなり始めているのだとしたら。
これまで見てきたものも、思い出したと信じているものも、過去の記憶などではなく、罪悪感が作り出した幻にすぎないのだとしたら。
そう考えてみると、それを否定する根拠がどこにもないことに気づく。
なにしろ、自分自身が肝心なことを覚えていないのだ。
その日の午後、魔法歴史学の教室へ入ると、いつも以上に騒がしかった。カニンガム女史の不在以降、授業は代講で凌いでいたが、今日から正式に臨時教員が着任するらしい。しかも隣国の王立魔法学院を飛び級で卒業したという話まで広まっていたため、生徒たちは授業よりも新しい教師そのものに興味を向けていた。
「俺たちと歳が変わらないらしいぞ」
「本当か? 教師っていうより上級生じゃないか」
「向こうでは研究職についてたらしい」
「どういう研究?」
「そこまでは知らない」
好き勝手な噂が飛び交う中、ミシェルは窓際の席へ座った。オスカルもいつものように隣へ来たが、昼のことを気にしているのか、こちらへ余計な話を振ってくることはなかった。
やがて教室の扉が開き、学院長が入ってくる。その後ろから、一人の若い女性が続いた。
ミシェルは顔を上げ、そのまま動けなくなった。
学院長が何かを話している。隣では誰かが椅子を引き、窓の外からは鳥の声も聞こえているはずなのに、そのすべてが遠くへ退いたようだった。
女性は教壇の前へ進み、静かに生徒たちを見回している。淡い金色の髪を後ろで緩くまとめ、華やかというより穏やかな印象を与える顔立ちをしていた。自分たちと同じ歳くらいだと聞いていたが、それよりも大人びて見える。
それでも頬の線や、伏せた睫毛の影、考えるときに僅かに唇を結ぶ癖に、ミシェルは理由の分からない懐かしさを覚えた。
白いブラウスの袖口には、蔓草を象った細やかな刺繍がある。それを見た瞬間、記憶のどこかで白い袖が翻った。
知っている。
何を、と訊かれても説明できない。ただ、初めて見る人間を前にしているはずなのに、彼女の中にある何かを、自分はずっと昔から知っているような気がした。
「こちらが、本日からカニンガム教諭の代わりに魔法歴史学を担当されるフェルゼン女史だ。隣国の王立魔法学院より、特別に招聘を受けてくださった」
学院長に促され、女性が一歩前へ出る。
「リディア・フェルゼンと申します。短い間ではありますが、皆さんと有意義な時間を過ごせればと思っています」
聞き覚えのない名前だった。
少なくとも、ミシェルが記憶している少女の名前とはまるで違う。その事実に、ほんの僅か安堵したはずだった。
けれど、続いて聞こえた声に、その安堵はあっけなく崩れた。
柔らかく、それでいて語尾にほんの少しだけ息の混じる話し方。
遠い夏の日、花の小径を駆けながら何度も自分の名を呼んだ声と、あまりにもよく似ている。
教壇の向こうに、緑の回廊が重なった。
白いワンピースの少女が振り返る。
『ミシェル』
記憶の中の声と、目の前の女性の声が重なった。
気がつけば、ミシェルは椅子を引いて立ち上がっていた。大きな音が教室に響き、生徒たちの視線が一斉に集まる。
その隣で、オスカルの手から魔法筆が滑り落ちた。その小さな音に、ミシェルは気づかなかった。
「……ミシェル?」
オスカルが呼ぶ。
普段と変わらない声に聞こえた。けれど、その指先は机の縁を強く掴んでいた。
ミシェルは教壇の前に立つ女性から目を離せなかった。
そんなはずはないと何度考えても、彼女の立ち姿に幼い日の面影が重なって消えない。婚約者だった少女は湖に落ちて帰ってこなかった。伯爵夫妻は泣き、父も母も口を閉ざした。自分もずっと、彼女は死んだものとして生きてきた。
それに名前が違う。
彼女ではない。
そう思わなければならないのに、胸の奥では別の何かが、頑なにそれを否定していた。
「君……君は……」
うめくような声が勝手に漏れた。
教壇に立つ女性の姿へ重なるように、白いリボンが翻った。
「待って」
自分がそう口にしたのを聞いて、教室がざわついた。
「……ミシェル?」
オスカルの声が近づいたが、少女の姿だけを追うミシェルにはほとんど届かなかった。目の前にいる女性が、もう二度と還らない少女と重なって見えた。




