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そうだ。オスカルにとっても彼女は幼馴染だった。自分と同じように失った側の人間なのに、その傷口を無理やり開かせているのは自分の方かもしれない。
「……悪かった」
「いや。いいよ」
腕を離すと、オスカルは一度だけミシェルの顔を見て、そのまま書架の向こうへ歩いていった。ミシェルは追わなかった。追えなかった。
夕陽の差す書架の狭間へ姿を消す直前、オスカルが一度だけこちらを振り返った。その顔に浮かんでいたものが何だったのか、ミシェルには分からない。悲しみにも見えたし、何かを恐れているようにも見えた。
その夜、長い夢を見た。
懐かしい庭園の緑の回廊を、白いドレスの少女が歩いている。ミシェルは彼女を追っていたが、いくら名前を呼んでも振り返らない。花々の間を抜け、木漏れ日の下を進み、その背中はやがて湖へ向かっていく。
行ってはいけない、とミシェルは思った。
どうしてそう思うのかは分からない。それでも、この先へ行けば何かが起きると知っていた。
『待って』
夢の中の自分の声は幼い。少女が立ち止まり、ゆっくり振り返る。けれど逆光の中に顔は溶け、白い輪郭だけが残っている。その向こうに、もう一人の少年がいた。
背丈は自分と同じくらいだった。
顔は見えない。
ただ、その手だけが少女の背中へ伸びていく。
『やめろ!』
叫んだ瞬間、白いスカートが翻った。
大きな水音が響き、少女の姿が湖面の下へ消える。そして背後から、誰かがミシェルの名を呼んだ。
『ミシェル』
振り返っても、そこには誰もいない。
『見なかったことにしよう』
知らない声だった。けれど、どこかで聞いたことがある。
『——君のためだ』
ミシェルは目を覚ました。
窓の外はまだ暗く、月明かりだけが室内に淡く差し込んでいる。机も椅子も、脱ぎ捨てた制服も、いつもの場所にある。見慣れた寝室であるはずなのに、しばらく身体を起こすことができなかった。
夢の中で聞いた声が耳から離れない。あの言葉を、自分は……本当に聞いていたのではないか。
しかし声の主を思い出そうとすると、記憶は決まってそこで途切れた。湖面、白い服、誰かの手、そして大人たちの声。その断片を辿るうち、ミシェルは初めて、これまで考えもしなかったことに行き当たる。
自分の記憶の中には、少女が湖へ落ちる瞬間がある。もし本当に自分が彼女を突き落としたのなら、なぜその光景を少し離れたところから見ているのだろう。
翌朝、学院へ向かう途中で、正門の前に王立騎士団の紋章をつけた馬車が何台も停まっているのが見えた。寮を出た生徒たちも皆そちらへ顔を向け、何事かと騒いでいる。
「何かあったのか?」
近くにいた生徒へ訊くと、相手は待っていましたとばかりに声を潜めた。
「知らないのか? カニンガム女史だよ。今朝、騎士団が来て……なんでも、学院の研究費を何年も横領してたって話だよ」
「先生が?」
思いがけない名前に、ミシェルは正門を見た。
ちょうど騎士たちの間から、一人の女が連れ出されるところだった。昨日まで教壇に立っていたカニンガム女史だったが、いつも隙なく結い上げられていた髪は崩れ、頬も蒼ざめている。生徒たちの視線から逃れるように俯いていた彼女が、不意に顔を上げた。
その視線が、まっすぐミシェルを捉えた。女史の顔色が変わった。
「……え?」
次の瞬間、彼女は騎士の腕を振り払おうとした。
「待って!」
「カニンガム、静かに」
「違う、そうではなくて!」
何かを訴えようとする声が騒めきに掻き消される。それでも彼女はミシェルだけを見ていた。
「シュデール卿! 貴方は——」
続く言葉は聞こえなかった。騎士たちに馬車へ押し込まれ、扉が閉じる。ほどなくして馬車は正門を離れ、その場には何とも言えない空気だけが残された。
「……何だったんだ、今の」
誰かが呟く。ミシェルにも分からなかった。ただ、昨日の授業で赤くなった右手の甲が急に気になった。
カニンガム女史は、以前から自分に厳しかった。ずっと、そう思っていた。けれど本当にそうだったのだろうか……。
「ミシェル」
背後から聞こえた声に振り返ると、オスカルが立っていた。いつもの笑顔はない。
「今の、何?」
「僕が知るわけないだろう」
「そうか」
オスカルはそれ以上何も言わず、遠ざかっていく馬車を見つめていた。横顔には先ほどまでの気安さがなく、カニンガム女史の連行をどう受け止めているのか、ミシェルには読み取れなかった。
周囲ではすでに別の話題で賑わっている。
「カニンガム女史の代わり、どうするんだろうな」
「しばらく休講じゃないか?」
「いや、聞いたぞ。隣国から臨時教員を招くらしい」
「隣国?」
「向こうの王立魔法学院を飛び級で卒業した、とんでもない秀才らしいよ。まだずいぶん若い女の人だとか」
ミシェルはその会話を聞き流しながら校舎へ向かった。
すれ違いざま、風が吹く。どこかで白いリボンが翻ったような気がして、反射的に振り返った。
そこには誰もいない。ただ、正門の向こうへ続く並木道だけが朝の光の中に伸びている。
その景色の上に、一瞬だけ昔の小径が重なった。
花に囲まれた道、白い服、笑い声、そして湖。自分が覚えているもののうち、どこまでが本当なのだろう。
忘れてしまったものは何なのか。そして、もし誰かが意図して口を閉ざしてきたのだとしたら、それは何のためだったのか。
ミシェルはそれまで、答えはすべて過去の中に埋もれていると思っていた。けれど、そうではないのかもしれない。
あの日から途切れたままだった何かが、長い時間を越えて、今になって再び動き始めている気がした。




