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 演習の後、教師から医務室へ行くよう勧められたが、ミシェルは断った。直撃したといっても、演習用に威力を落とした魔法だ。制服の下に痣が残る程度だろう。それよりも気になったのは、先ほど見えた光景だった。


 かつての婚約者が死んだ日の午前中、一緒に庭園で遊んだことは覚えている。新しく仕立ててもらった白い服を着て、本人もひどく気に入っていた。三人で菓子を食べたことも覚えているし、オスカルが袖にクリームをつけ、彼女に笑われていたことも思い出せる。


 けれど、その先へ進もうとすると、一気に記憶が曖昧になる。


 夕方になって、彼女が湖から戻ってこないと騒ぎになった。大人たちが大勢集まり、父も母もいた。伯爵夫妻は泣いていて、父がミシェルのために王宮から伴わせていた魔法師や治癒師まで、湖の周囲を慌ただしく行き来していた。自分は誰かに肩を抱かれ、もう何も話さなくていいと言われた。


『ミシェル様は何も悪くありません』


 誰かがそう言った。


『事故だったことにしましょう』


 その言葉だけが、長い年月を経ても記憶の底へ沈まずに残っている。だから、自分はずっと疑ってきた。何かをしたのではないかと。


 子供同士で言い争いになり、彼女を湖へ突き落としたのかもしれない。あるいは咄嗟に魔法を使い、取り返しのつかないことになって、怖くなって逃げたのかもしれない。そして、その事実を周囲の大人たちが隠した。


 現国王の甥であり、王位継承権を持つ、この国唯一の公爵家の令息である自分のために。


 尋ねても、誰も答えなかった。父は忘れなさいと言い、母は泣き、伯爵家との交流は途絶えた。使用人たちは揃って口を閉ざし、オスカルもまた、あの日のことだけは話したがらなかった。


 その後、それとなく伯爵家について調べたことがある。彼女の両親は爵位を返上し、隣国の親戚を頼って移住したとのことだった。


 十歳の頃、一度だけ訊いたことがある。


『あの日のこと、覚えている?』


 オスカルはしばらく黙ってから、いつものように笑った。


『僕もあんまり覚えてないんだ』


 その答えを聞いて、それ以上は訊けなかった。オスカルも彼女を失っている。


 自分が奪ったのかもしれない少女を、彼もまた幼い頃から大切にしていたのだ。それなのに、今も変わらず隣にいてくれる相手へ、疑いをぶつけるような真似はできなかった。


 放課後、ミシェルは一人で図書館へ向かった。


 学院の中央図書館は三階まで吹き抜けになっており、高い窓を覆うステンドグラスから、色のついた光が静かに差し込んでいる。授業を終えた生徒たちの多くは寮や談話室へ向かう時間で、館内に残っている者は少なかった。


 いつもの席へ鞄を置き、魔法史の参考書を広げる。しかし、文字を追っても内容が頭へ入ってこない。紙面の向こうに、先ほど見た湖面が重なってしまう。


 彼女は泳げなかったはずだ。


 少なくとも、ミシェルがこれまで思い出せた範囲では、水を怖がり、湖へ近づくことさえ好まなかった。


 ところが、その確信を覆すように、別の光景が浮かんでくる。小舟の上で彼女が笑い、水面へ手を伸ばして、指先で掬った水を陽に透かしている。


『私、泳げるようになったのよ』

『先生に習ったの』


 確かに、そう言っていた。


 そんな記憶があったこと自体を、なぜ今まで忘れていたのだろう。


 泳げなかった彼女と、泳げるようになったと笑う彼女。時の流れとしては何も矛盾していないはずなのに、ミシェルの中では前者だけが長い間、疑いようのない事実として残っていた。


「……何だ、これ」


 思わず声に出した直後、背後で本の閉じる音がした。


「何が?」


 振り向くと、いつからそこにいたのか、オスカルが書架にもたれかかっている。


「驚かせるな」

「呼んだよ。二回くらい」

「嘘をつけ」

「三回だったかもしれない」

「どちらでもいい」


 ミシェルが胸の内を落ち着かせている間に、オスカルは向かい側の椅子を引き、当然のように腰を下ろした。


「今日、変だよ」

「お前に言われたくない」

「それはひどいな」

「用件は?」

「心配だから来た」


 冗談を挟まず、あまりにも自然に言われてしまい、ミシェルは返す言葉を失った。


 オスカルは昔からそうだった。普段は軽口ばかりなのに、こちらが本当に困っている時には、それを茶化さない。


 だからこそ、続けて投げかけられた問いに胸がざわついた。


「演習の時、何を見た?」

「別に、何も」

「嘘だね」

「どうしてそう思う」

「君がああいう顔をする時は、昔のことを考えている時だから」


 ミシェルの指先が、机の下で強張った。


「……昔って?」


 訊いてはいけないという思いがあった。それでも、口に出していた。


 オスカルはすぐには答えず、窓から差し込む夕方の光の中で、静かにミシェルを見つめた。いつもなら快活に見える顔から笑みが消えているだけで、まるで知らない誰かのように見える。


「彼(・)女(・)のこと」


 その一言で、図書館の静けさが急に遠く感じられた。


「君さ、あの日のこと、どこまで覚えている?」


 胸の奥で、これ以上聞くなと何かが警告する。


「どうして今、それを訊くんだ」

「今日の君を見ていたら、なんとなく」

「なんとなくで訊く話じゃないだろう」

「そうだね」


 オスカルはあっさり認め、それから少し困ったように笑った。


「ごめん。忘れてくれ」


 椅子から立ち上がった彼の腕を、ミシェルは咄嗟に掴んだ。


「待て。お前は覚えているのか」

「何を?」

「あの日だ。彼女が死んだ日、お前はどうしてた?」


 オスカルの表情が止まった。


 ほんの一瞬のことだった。見間違いだと言われれば、それまでだったかもしれない。それでも、ミシェルには確かに何かが消えたように見えた。いつも瞳に宿っている明るさが、不意に遠ざかったように。


「……どうだったかな。小さかったし、いろんな大人が叫んだり怒ったりしてたことは覚えてるよ。でも、細かいところは忘れてしまった」

「本当か?」

「嘘をつくようなことじゃないだろ?」

「でも、様子が変だ。僕だけじゃない。お前だって、あの日の話になるとおかしいじゃないか」


 語気が強くなると、オスカルは掴まれた腕へ一度視線を落とした。振りほどこうとはせず、困ったように眉を下げる。


「変に見えたなら、君が急にあの日の話をするから驚いただけだよ。僕だって、平気なわけじゃない」


 その言葉に、ミシェルの指から力が抜けた。

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