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緩やかにたなびく腰のリボンの残像が、まるで目の前にあるかのように甦る。
花々に抱かれた緑の回廊は、夏の光をやわらかく濾しながら、どこか遠い物語の奥へと続き、幾重にも重なる蔓と枝が空を隠すようにアーチを描いていた。
「ミシェル……。ミシェル、早く」
小さな、囁くような声。君は振り返り、僕の顔を見ては弾けるように笑う。彼女が纏う白という色が、儚く過ぎる夏の面影を思い起こさせ、ひととき僕の息を止める。
他の誰を見ても、どんなに美しい令嬢から微笑みかけられても、僕の心は決して動かない。記憶の輪郭がどれほど曖昧になろうとも、胸の奥に焼き付いた彼女の残像だけが、僕の時間をあの夏に縛り付けたままだ。
アーチの隙間からこぼれる陽射しが、芝生の上に静かな時間の模様を落としている。赤、紫、白の花々は、誰かが秘密の合図を残したように咲きこぼれ、道の先へ進む者をそっと誘っていた。
いまこの時だけは、緑の匂いと花の色と、二人だけが世界のすべてになる。
僕だけは忘れない。
そう誓っていたはずなのに。
何もかもが目の前からかき消えた。
やがて、小径に置かれた夏の日の思い出がそっと姿を消した。
*****
バシンッ、という無粋な音にミシェルの意識は引き戻された。魔法歴史学の教諭であるルーズベッド・カニンガム女史が振り下ろした木製のパドルは、ミシェルの右手の甲に赤い痕を残していた。
「シュデール卿、いまは魔法歴史学の時間ですよ。たとえ入学以来首席を譲ったことがなくとも、授業態度が良くないのでは、評価は落とさざるを得ませんね」
ミシェルはぼんやりと焦点の定まらぬ目で女史を見る。彼女が自分に厳しいことは分かっていたのに、今日は油断してしまった。
白昼夢に置いてきた心を揺り戻し、現実へと据え置く。ミシェルは小さく嘆息して、女史を見上げた。
「先生、すみませんでした。少し寝不足でして……ちゃんと聞きます。申し訳ありません」
カニンガム女史の片眉がくいっと上がった。しかし素直に頭を下げたミシェルをしばらく見つめると、張り詰めていたものを解くように、その声音を僅かに和らげた。
「そう、分かっていただけたなら結構です。では授業を続けますよ」
しん、としていた教室がほんの少し騒ついて、また静かになってゆく。生徒たちの動かす魔法筆の音がカリカリと響いた。
その後は平穏に授業が進み、終了の鐘が鳴るとみんなが立ち上がった。次の演習のために演習室へと移動するのだ。
演習室は本校舎から渡り廊下を隔てた西棟にあり、魔法による事故を想定して、壁も床も通常の教室より頑丈に造られている。
天井近くまである窓から午後の陽が差し込み、磨かれた石床に淡い光を広げていた。先ほどまで古い王朝の魔術制度について延々と講釈を聞かされていた生徒たちは、ようやく身体を動かせる時間になったことが嬉しいらしく、めいめい杖を取り出しながら賑やかに言葉を交わしている。
その人波を縫うように歩いていると、不意に肩へ腕を回された。
「またカニンガム女史にやられたのか」
声を聞くより先に誰なのか分かって、ミシェルは振り向きもしなかった。
「見ていたなら訊く必要はないだろう、オスカル」
「見ていたから訊いているんだよ。君、あの先生にずいぶん好かれているじゃないか」
「それを好かれていると言うなら、お前は辞書を引き直した方がいい」
ようやく横を見ると、オスカル・ヴァルディエは楽しそうに笑っていた。
「しかし珍しいね。君が授業中にぼんやりするなんて。まさか、従兄殿——第一王子の派閥争いにでも巻き込まれて気苦労が絶えないとか?」
「冗談を言うな。僕に王位を争う気はないと、彼も知っている」
「分かってるよ。君はそういう泥臭い政治劇には向いてないからね」
オスカルは日に焼けた明るい栗色の髪を揺らし、何でもないことのように笑った。
魔力実技では常に上位、剣術ならば同学年で彼に敵う者はほとんどいないうえ、侯爵家の嫡男という肩書きを持ちながら、それを笠に着るところもなかった。
上級生から名前を呼ばれれば気軽に手を挙げ、すれ違った下級生が魔導書を落とせば何でもないことのように拾ってやり、教師から叱られている同級生を見かければ、なぜか隣に並んで余計な一言を挟み、自分まで一緒に怒られる。昔から、誰かの懐へ入っていくことに躊躇のない人間だった。
「しかし珍しいね。君が授業中にぼんやりするなんて」
肩から腕を外したオスカルは、そこでミシェルの右手へ視線を落とした。甲にはまだ、パドルの跡が細長く残っている。
「寝不足って言っていたけど、本当にそれだけ?」
「それ以外に何がある」
「さあ。何か昔のことでも思い出していたのかと思って」
冗談めかした声音だったが、ミシェルはすぐには返せなかった。
ほんの僅かな沈黙だったはずなのに、それが自分の胸の内を見透かされた証拠のように思えて、無意識に視線を逸らす。その間にオスカルは、近くを歩いていた友人から声をかけられ、何事もなかったように手を上げて笑い合っていた。
それをちらりと見て、ミシェルは少しだけ息を詰める。オスカルに何を考えていたのかと問われたのではなく、誰を思い出していたのかと訊かれたような気がしてならなかった。
「シュデール、ヴァルディエ! 話していないで準備をしろ!」
演習担当の教員が声を張り上げ、オスカルが気のない返事をした。
「はいはい」
「返事は一度だ!」
「はい!」
今度は妙に威勢よく答えたせいで、周囲から笑いが起きる。ミシェルもつられて口元を緩めたが、その瞬間、オスカルが少し意外そうにこちらを見た。
「どうした」
「いや。君が笑ったから」
「僕だって笑うことぐらいあるよ」
「知ってるさ。ただ、最近はあまり見なかったから」
それだけ言って、オスカルは自分の組へと歩いていった。残されたミシェルは、ほんのしばらくその背中を見つめていた。
最近とは、いつからだろう。自分が人前で笑うことを避けるようになったのは。あるいは、誰かと同じように笑っていていいのかと、そんなことを考えるようになったのは。
今日の課題は防御魔法だった。二人一組になり、一方が簡易術式で魔力弾を放ち、もう一方が防壁を展開して受け止める。術式そのものは低学年でも扱う基礎的なものだが、魔力の出力を一定に保つことと、攻撃の軌道を正確に見極めることが求められるため、実際には気を抜けない。
組み分けの結果、ミシェルの相手は偶然にもオスカルだった。
「手加減は?」
杖を構えながらオスカルが訊く。
「必要ない」
「その顔で言われると少し怖いな」
「どういう意味だ」
「昔から君は、むっとすると余計に綺麗な顔になる」
からかうような響きに、ミシェルは不満げに眉を寄せた。顎のあたりで切り揃えられた青銀の髪がさらりと揺れる。琥珀色の瞳と、左眼の縁に小さく並ぶ二つの黒子には、どこか危うい美しさがあると令嬢たちの間でも評判だった。
長身で細身のミシェルは、普段は「優しげな顔立ち」だと評されることが多い。だが、オスカルに言わせると、こうして不機嫌に眉を寄せている時が一番見栄えが良いらしい。
「……殴るぞ」
思わず公爵令息らしくない舌打ちと共に返すと、オスカルは肩をすくめる。
「魔法演習中だよ。せめて魔法にしてくれ」
くだらないやり取りに周囲が笑い、教師まで呆れたように首を振った。だが開始の合図が響いた瞬間、オスカルの表情から戯けた色は消え、杖先に集められた魔力が鋭く弾ける。
ミシェルはほとんど反射で防壁を張った。透明な膜の表面で魔力弾が砕け、細かな光となって散っていく。二発目、三発目も危なげなく受け流し、次の攻撃に備えて視線を上げた、そのときだった。
視界の端で、白いものが揺れた。
ほんの一瞬、演習室の隅を誰かが駆け抜けたように見えた。幅の広い白いリボンが腰のあたりで翻り、柔らかな布地が光を含んで消えていく。そんなものはどこにもないと分かっていたのに、ミシェルの意識はそちらへ引き寄せられた。
花に囲まれた小径が見える。
白いワンピースの少女が振り返り、笑っている。
『ミシェル、早く』
その声はあまりにも鮮明で、今まさに耳元で囁かれたようだった。けれど、次の瞬間には景色が変わる。緑の回廊は消え、代わりに鈍く光る湖面が広がっていた。
『早く』
また声がする。
今度は彼女の声ではなかった。
男の子の声だった。
『ミシェル!』
名を呼ばれたと同時に現実へ引き戻され、目前まで迫っていた魔力弾に気づく。防壁を展開するには遅く、肩へ衝撃を受けて身体が大きくよろめいた。
「ミシェル!」
駆け寄ったオスカルが咄嗟に腕を掴み、倒れかけた身体を支える。周囲が騒めき、教師もこちらへ向かってきた。
「怪我は?」
「……ない」
「本当に?」
「ないと言っているだろう」
自分でも驚くほど強い声が出た。オスカルの表情がわずかに強張ったのを見て、ミシェルはすぐに後悔する。
「すまない。少し驚いただけだ」
「いや、それならいいけど」
オスカルは笑おうとしたようだったが、いつものようにはいかなかった。何か言いかけて口を閉ざし、しばらくしてから軽く息を吐く。
「君らしくないな」
責める口調ではなかったし、むしろ心配しているように聞こえた。それなのにミシェルには、その言葉の奥から別の意味が滲んでくるように思えた。
——忘れたのか。
そんな声が重なった気がした。




