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地下室でカニンガムの残した記録を手にしたミシェルが向かったのは、実家である公爵邸ではなく、王宮の離宮だった。
現国王と鋭く対立する第一王子——ミシェルの従兄である彼に秘密裡に面会を求めることは、公爵家への明確な反逆を意味していた。
逡巡はあったが、父を凌駕する権力を持つ者を求めるなら、頼れるのは王家そのものしかない。
人払いがされた薄暗い客間で、ミシェルはテーブルの上に分厚い手帳と報告書を差し出す。
「これを、殿下にお預けします」
書類を一読した第一王子の目が、鋭く細められた。やがて、喉の奥で低く笑う。
「……なるほど。一人の令嬢の悲劇か。だがミシェル、これ単体では国王と公爵を追い落とすには弱い。奴らなら適当な側近に罪を被せてトカゲの尻尾切りをし、再び闇に葬るだろう」
「分かっています。だからこそ、殿下の力と『盤面をひっくり返す罠』が必要なのです」
第一王子は面白そうに目をすがめ、報告書の『記憶封じの術式』という文字を指で叩いた。
「この術式の実態……対象の精神を破壊し得る禁忌の魔法を、国王と公爵が都合の悪い事実を封じるために私物化していたという事実。これこそが劇薬になる。貴族という生き物は、他人の悲劇にはひどく冷淡だが、己の身に危険が及ぶ可能性には恐ろしいほど敏感だからな」
王子の目が、暗い野心を帯びて光る。
「『国王派に異を唱えた者や、都合の悪い事実を知った貴族たちに対し、密かにこの禁忌の術式を施され、記憶を封じられているのではないか』——そんな噂を、国王と公爵が実際に禁忌術式を使用させた証拠とともに、その疑念を流す。連中はたちまち疑心暗鬼に陥るだろう。自分の記憶は本物か? あの不自然な失脚も、あの突然の死も、この術式が関わっていたのではないか——とな。これは単なるスキャンダルではない。全貴族家を巻き込んだ、現体制への根源的な恐怖と反乱の種になる」
それは、国を根底から揺るがす恐ろしい罠だった。
だが、ミシェルは瞬き一つしなかった。
「その火種が十分に回ったところで、僕が内部から父の足元を崩します。その際、僕が持つ王位継承権の一切を放棄し、殿下への絶対的な従属を誓約いたしましょう。公爵家は今後、殿下が玉座へ昇るための最大の駒となります」
自らの血筋と未来を天秤に乗せた冷徹な取引に、第一王子は満足げに頷いた。
「……箱庭で悲劇の主人公を気取っていた子供が、ずいぶんと泥臭い交渉を覚えたものだな。いいだろう、お前の覚悟と忠誠、確かに買い取った。他に望みはあるか?」
「すべてが終わり、僕が公爵家の実権を握った暁には——」
ミシェルの脳裏に、術式によって心の成長を著しく遅らされた少女と、彼女を守るために自分の姿を偽るしかなかったリディアの顔が浮かんだ。
「いつか、彼女に会いに行きたいと思っています。その時、僕を拒むかどうかは……彼女自身に決めてもらいたい」
その言葉に込められた重い贖罪と決意を察したのか、第一王子は短く息を吐き、静かに頷いた。
*****
数日後。王都に構えられた公爵邸の執務室は、冬の夜のように冷え切っていた。
重厚なマホガニーの机越しに座る父に、ミシェルは第一王子に用意させた「記録の写し」を突きつけた。しかし父は、眉一つ動かさなかった。驚きも、狼狽も、罪悪感すらそこにはない。
「そうか。あの教諭は、余計なものを残していたか」
溜息とともにこぼれたのは、たったそれだけの言葉だった。
「……事実だと、認めるのですね」
「お前を守るためだ」
父の簡潔な一言が、ミシェルの感情を冷水のように叩き切った。
「現国王の甥であるお前が、婚約者を狂わせたと世間に見られる傷を負うわけにはいかなかった。あのまま彼女の存在を許せば、お前は一生、正気を失った娘に縛り付けられることになった。だから死んだことにした。伯爵家には相応の対価を払い、すべてを終わらせた」
「…………」
「公爵位を継ぐということは、泥を啜り、血を被り、それでも家と領民のために白亜の塔としてそびえ立つということだ。お前がすべてを知ったというなら、その過去も罪も、丸ごと呑み込んで当主の座に座れ。それが、大人のやることだ」
父の目から見れば、自分はずっと“守られるべき無知な子供”だったのだ。
過去の幻影に怯え、自分が何をしたのかも分からず、ただ与えられた安全な箱庭の中で悲劇に浸っていただけ。
けれど、もう違う。
父は気づいていない。目の前に叩きつけられた紙切れが単なる写しであり、貴族社会全体を巻き込む恐怖の火種が、すでに第一王子の手で有力諸侯の間へ広がり始めている。数多の貴族たちが王家と公爵家に刃を向ける巨大な罠は、もう後戻りできないところまで来ている。
「……呑み込めと、おっしゃるのですね」
「そうだ。お前は次期公爵だ。その自覚を持て」
「分かりました」
ミシェルは深く頭を下げ、静かに踵を返した。扉が閉まった瞬間、彼の目から戸惑いも悲しみも消え失せていた。
公爵家の闇を呑み込んで父に従うのではない。自ら泥を啜り、血を被り、この理不尽な箱庭ごと父を内側から食い破る。泣いて許しを請う子供の時間は、完全に終わったのだ。
翌日、学院へ戻ったミシェルを待っていたのは、信じがたい凶報だった。
侯爵家の当主と、その嫡男であるオスカル・ヴァルディエが死亡した。
王都から駆けつけた騎士団の調査によれば、オスカルが執務室で父である侯爵を殺害し、その場で自ら首を切り裂いて命を絶ったという。動機は不明。ただ、現場は目を背けたくなるほどの血の海だったと、青ざめた顔で教員たちが囁き合っていた。
学院に戻るまでこの報せがミシェルに届かなかったのは、やはり父の采配なのだろうか。オスカルの死を知れば、自分が冷静に話を聞けなくなると考えたのか。それとも、また一つ「余計な真実」から息子を遠ざけようとしたのか。今となっては分からない。
ミシェルはたった今知った事実に驚愕し、視界が明滅する。咄嗟に廊下の壁に手をついて倒れるのを防いだが、耳の奥であの地下室でのオスカルの歪んだ笑い声が響いた。
僕が彼を拒絶したから、彼は帰る場所を失い、あんな凶行に及んだのか。それとも、すべてが暴かれる前に、彼自身の手で己の血の呪縛を断ち切ったのか。
真実はもう、永久に誰にも分からないのだ。
オスカルの死は、ミシェルにとって半身をもがれるような喪失だった。どれほど悍ましい真実を知った後でも、共に過ごした年月まで一瞬で消えるわけではなかった。
けれど、立ち止まって涙を流す時間はもうない。
カニンガム女史が連行され、オスカルと侯爵が死んだ。父がいずれ異変に気づき、証拠隠滅のために伯爵家やリディアへ牙を剥くのも時間の問題だ。
ミシェルが窓の外を見上げると、冬の冷たい雨が降り始めていた。
親族を売り飛ばし、自らの家を一度焼き払い、公爵家の実権を血まみれになって奪い取る。
そしていつか必ず、奪われた時間を人より遥かにゆっくりと歩んでいる彼女に会いに行こう。
かつて彼を縛り付けていた夏の日の幻影は、もうどこにも見えなかった。




