13
『やめろ』
その声が、今も耳の奥にこびりついて離れない。
ミシェルが僕に向けた目は、紛れもない嫌悪だった。僕という存在そのものを、視界に入れることすらおぞましいと告げる、射抜くような拒絶。
これまでどれほど彼を騙し、縛り付けてきたかを知ったのだから当然だ。けれど、あの目を見た瞬間、僕の中で何かが決定的に音を立てて崩れ落ちた。
世界でたった一人、僕を浄化してくれるはずだった神様が、僕を汚物だと切り捨てたのだ。
オスカル・ヴァルディエの人生は、傍から見れば順風満帆そのものだっただろう。
由緒ある侯爵家の嫡男。魔力も剣術も優れ、誰にでも分け隔てなく接する、明るく欠点のない青年。そんなものは、すべて僕が作り上げた虚飾にすぎない。
本当の僕は、生まれ落ちたその瞬間から呪われていた。
僕には母親がいない。
屋敷の奥で冷たい目を向けてくる侯爵夫人は、父が世間体を保つために金で雇った契約上の妻だ。彼女は僕を憎んですらいなかった。ただ、酷く汚らわしいものを見るように、一切の関心を向けなかった。
当然だ。他人の男が、実の妹との間に作って産ませた子供なのだから。
僕の実母は、父の妹だ。
禁忌の交わりの末に僕を身籠り、出産と同時に狂って死んだと聞かされた。
血の濃すぎる呪われた赤子。それが僕だった。
父は僕を愛した。けれどその愛情は、親が子へ向ける健やかなものではなかった。父は僕の顔の中に、死んだ妹の面影を探していた。成長するにつれ、父が僕へ向ける視線には、隠しきれない情欲が混じるようになった。
その粘着質な熱を帯びた目が、這うように身体を撫でるたび、吐き気がした。
無関心と軽蔑の目で見下ろす義母。狂った偏愛と欲情を向けてくる実父。そして、すべてを知りながら見て見ぬふりをする使用人たち。
ヴァルディエの屋敷は、泥のように淀んだ地獄だった。僕の血には罪が流れ、息をするだけで内側から腐っていくようだった。
そんな泥濘の中から僕を引き上げてくれたのが、ミシェルだった。
初めて会った日のことを、今でも覚えている。
公爵家の跡取りである彼は、僕の周りの大人たちとは違い、どこまでも澄み切っていた。彼の目には打算も、欲情も、軽蔑もなかった。ただ真っ直ぐに僕を見て、名前を呼んでくれた。
その瞬間、僕は浄化されたのだと錯覚した。
この人だけが、僕を血の呪いから救い出してくれる。僕の神様だと思った。
だから、彼を奪おうとするものは何もかもが許せなかった。
あの忌まわしい婚約者。彼女がミシェルの隣で無邪気に笑うたび、僕の居場所が奪われていく気がした。ミシェルが彼女へ向ける優しい眼差しを見るたび、胸の奥でどす黒いものが煮えたぎった。
あの女さえいなければ。
そう思っていたところに、あの夏の日が訪れた。
彼女の華奢で柔らかな背中を、湖へ向けて押し込んだ。
その後、大人たちが保身のために動き出し、真実を捻じ曲げていくのを、僕は静かに手助けした。
実のところ、父は僕にだけはあの術式を使わせなかった。「この子の頭に余計な真似をするな」と術師を退け、代わりに十分な金を握らせて、施術済みであるかのように記録と魔力痕を偽装させたのだ。
だから、周囲の大人たちは僕もミシェルと同じように記憶を失ったと思っていた。でも……僕はあの日のことを何一つ忘れていない。
「オスカル……お前には私だけがいればいいんだ」
何度も繰り返す父の妄執に、息が詰まりそうな環境に耐えきれず、僕はますますミシェルに傾倒した。
ミシェルの記憶が混乱し、彼自身が「自分が突き落としたのではないか」という罪悪感に苛まれ始めた時、僕は優しく寄り添った。
愛する婚約者を失ったミシェルの隣で、僕もまた、大切だった幼馴染を喪った悲劇の親友を演じ続けた。ミシェルの罪悪感をくすぐり、僕という存在なしでは立っていられないように、少しずつ、少しずつ逃げ道を塞いだ。
彼が過去の幻影に苦しむなら、僕が慰めてやる。
彼が罪の意識に押し潰されそうになるなら、僕が許してやる。
君の悲しみも、苦痛も、すべて僕の腕の中だけで完結すればいい。そうやって鳥籠を作り、誰も彼に触れられないようにした。
僕にはミシェルしかいない。ミシェルにも、僕しかいらないはずだ。
——それなのに。
リディアの登場と、カニンガム女史の残した悍ましい真実が、僕の作り上げた完璧な鳥籠を壊してしまった。
真実を知って打ちのめされたミシェルに、僕はいつものように手を伸ばした。すべてを知った上でも、僕が君を守るからと。
そして、ミシェルは僕の手を振り払った。
僕に向けられたその瞳には、義母が僕へ向けていたものと全く同じ、汚物を直視した時の嫌悪が浮かんでいた。
『やめろ!』
その一言で、すべてが終わった。
神様は、僕を見捨てたのだ。僕の愛は許されなかった。父が僕を一人の人間として見なかったように、僕もミシェルを、自分を救うための存在としてしか見ていなかった。
父の愛をあれほど憎んでいたくせに、僕がミシェルにしたことも、結局は同じだった。
気がつけば、僕は学院を離れ、馬車に乗っていた。
向かった先は、二度と帰るつもりなどなかったヴァルディエの屋敷。
門をくぐり、使用人たちが驚いた顔で頭を下げるのを無視して、真っ直ぐに屋敷の奥へ向かう。
分厚いマホガニーの扉を開けると、執務室の机に向かっていた父が顔を上げた。
「オスカル……? 急にどうしたんだ、帰るなら連絡を——」
父の顔に、いつもの甘ったるい笑みが浮かぶ。僕の顔の造作に、僕を産んで死んだ妹の影を見つけ、うっとりと目を細める。
その顔を見た瞬間、僕の中に残っていた最後の糸がプツリと切れた。
僕はこの泥から逃れたかった。
けれど、ミシェルという光を失った今、僕にはもう、帰る場所がこの腐った泥の底しかなかった。
「父上……」
僕は微笑みながら歩み寄った。誰からも愛される、完璧な侯爵令息の顔で。
「オスカル、お前、少し疲れているんじゃないか? こっちへ来なさい」
立ち上がり、僕の頬へ手を伸ばそうとした父の胸に、僕は迷いなく魔法で生成した氷の刃を突き立てた。
ごぼり、と父の口から血が溢れる。
驚愕に見開かれた目が、信じられないものを見るように僕を捉えた。父の身体が重く傾き、そのまま執務机の上へ倒れ込む。インク壺が倒れ、床に広がった血の赤と混ざり合っていった。
ひどくあっけない終わりだった。
僕の人生を狂わせた元凶は、ただの肉の塊になって動かなくなった。
執務室は静まり返っている。
僕は血まみれの手のまま、窓辺へ歩み寄った。外はもう夕暮れで、空が赤黒く染まっている。
ミシェル。
僕の、たった一人の光。
君を騙し、君の記憶を騙し、君の愛した人をこの手で湖へ突き落とし、その後の人生まで奪った僕は……きっと地獄へ落ちるだろう。君はこれから、一人で大人たちの醜い真実へ立ち向かっていく。
そこに、もう僕の居場所はない。
父の血で濡れた自分の手を見る。僕は自分の喉元へ、もう一度、鋭く冷たい氷の刃を当てた。
君が生きる世界に、僕という汚らわしい呪いは、もう必要ない。
——苦しめてごめん。
——友人のままでいられなくてごめん。
——愛して、ごめんな。本当に心から……ごめん。
刃を滑らせる。熱いものが一気に噴き出し、視界が白く飛んでいく。
遠のく意識の中で、最後にもう一度だけ、あの夏の日に笑うミシェルの顔を見た気がした。




