12
いつからそこにいたのか。階段の影から、オスカルが静かに姿を現した。その顔からは、いつもの快活な笑みは消え去り、暗い水底のような冷たさが張り付いていた。
「オスカル……お前、まさか僕を監視していたのか」
「監視だなんて人聞きが悪いな。心配していただけだよ。君がまた、ありもしない過去の幻に囚われて、自分を壊してしまうんじゃないかって」
オスカルは歩み寄り、ミシェルの手から報告書を抜き取ろうとした。
「こんなもの、見なくていい。大人たちが処理したことだ。僕たちには関係ない」
「関係ないだと?」
ミシェルはオスカルの手を強く払い除けた。
「彼女は生きてるんだ! 心に深い傷を負ったまま、今も大人たちのせいで人生を奪われ続けているんだぞ! お前も知っていたんだろう、オスカル。お前も、彼女を失って苦しんでいたはずじゃないか!」
その言葉に、オスカルはひどく歪んだ、それでいてどこか安堵したような笑みを浮かべた。
「苦しむ? 僕が? 彼女を失って?」
クツクツと、地下室に不気味な笑い声が響く。
「違うよ、ミシェル。僕はね、彼女がいなくなって清々したんだ」
ミシェルは息を呑んだ。
一瞬、彼が何を言ったのか理解できなかった。清々した? 幼馴染が湖に落ちて、心が壊れてしまったというのに?
「……何を言ってるんだ。冗談を言うな」
「冗談じゃないよ。本当はずっと前から、彼女がいなくなればいいと思っていた」
あまりにも平坦な告白に、ミシェルは顔をしかめた。
オスカルがショックのあまり、正気を失って自暴自棄なことを言っているのだと思いたかった。でなければ、言葉の意味が通らない。
「彼女のことで、僕たち二人ともずっと苦しんできたんだ。だから——」
「だから違うって言ってるだろう!」
オスカルの声が地下室に反響し、ミシェルは言葉を失った。
オスカルは一歩、また一歩とミシェルに近づいてくる。その瞳には、今まで見たこともないほど暗く、熱を帯びた光が宿っていた。
「君はいつも、あの子ばかり見ていた。僕の光は君だけなのに、君は彼女に光を与えていた。……あの夏の日、僕が彼女の背中を押して湖へ落とした時、僕は悲しむどころか歓喜したよ。ああ、これでようやく、あの目障りな女がいなくなる。これでようやく、君は僕だけのものになるって」
傍らで、リディアが息を呑む気配がした。
ミシェルの思考が止まる。……聞き間違いだろうか。まるでオスカルが彼女を殺そうとしたように聞こえる。
その後に続いた言葉も、親友に向けられるそれではなかった。友情と呼ぶには、その独占欲はあまりにも歪んでいる。
どういうことだ。オスカルは、僕にどんな思いを抱いていたというんだ。
「彼女が消えた後、罪悪感に押し潰されて泣き崩れる君は、本当に綺麗だった」
オスカルは恍惚とした表情で、うっとりと呟いた。
「震える君の肩を抱いて、大丈夫だと囁くたびに、君は僕を頼ってくれた。僕の言葉だけを信じてくれた。もう君の視界にあの女はいない。君の悲しみも、苦痛も、すべて僕の腕の中だけで完結していた」
そこまで聞いて、ミシェルの背筋にぞわりと冷たいものが走った。
記憶がフラッシュバックする。
『君は疲れてるんだ』
『確かめられないことを、確かだと思い込むな』
『忘れたままでいいことだってあるよ』
彼がこれまで自分にかけてきた「優しい言葉」の数々。
それは、傷ついた友人を気遣う言葉ではなかった。ミシェルが真実に辿り着かないよう、視界を塞ぎ、永遠に自分のそばに縛り付けるための、巧妙に編まれた蜘蛛の糸だったのだ。
彼が求めていたのは対等な友人ではない。
自分がいなければ立っていられないほどに壊れ、盲目的に依存してくる「哀れなミシェル」という所有物だった。
「お前……」
ミシェルの喉が引き攣った。
友情だと思っていた。お互いに悲劇を背負った、かけがえのない親友だと思っていた。けれど、この男が向けていたものは、友情でもなければ、正常な愛情ですらなかった。
他者の人生を破壊し、友人の悲しみすら己の渇きを潤すために利用する、狂気じみた執着——。
オスカルが、慈しむような手つきでミシェルの頬へ触れようと手を伸ばした。
「忘れてしまおう、ミシェル。こんな汚い真実なんて、君には似合わない。君が罪悪感に泣くなら、僕がこれからもずっと慰めてあげる。僕がいれば、君は何も背負わなくていい。あの子のことは、このまま永遠に——」
「やめろ!」
バシッ、と鋭い音が鳴った。
ミシェルはオスカルの手を力一杯打ち払い、そのまま彼を突き飛ばした。
背中を棚に打ち付けたオスカルが、驚いたように目を見開く。
「僕に触るな! おぞましい……!」
ミシェルは激しく呼吸を乱しながら、後ずさった。全身の粟が立つほどの嫌悪が、止めどなく溢れてくる。
「彼女を犠牲にして、僕の心を操り、親身なふりをして……! お前はずっと、僕の悲しみを喰い物にしていたのか!」
その言葉が地下室に響き渡った瞬間、オスカルの顔からすべての表情が抜け落ちた。
「ミシェル、僕は……」
「二度と僕の名を呼ぶな。……吐き気がする」
一切の容赦のない、底冷えするような拒絶だった。
ミシェルは報告書と手帳をしっかりと抱え込み、リディアを振り返った。
「フェルゼン先生。これを持ち出し、僕は父と対峙します。王家に叩きつけてでも、あの子を隠されたままの人生から引き戻したい」
リディアは静かに頷いた。
ミシェルは、暗がりにへたり込むオスカルを一瞥することもせず、階段を駆け上がっていった。




