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父からの手紙を読み終えたミシェルは、便箋を机の上に放り出した。
『話すべき時が来た』
その一言が意味するものはあまりにも重い。父は、真実を知っている。そして、都合の悪い真実をこれまでずっと隠蔽してきた。公爵家の巨大な権力をもってすれば、一つの事故など容易に闇に葬ることができる。
けれど、父が口を開くまで、ただ大人しく待っているつもりはなかった。次の休暇まで、まだ日数がある。その間に、学院内にあるはずの証拠——あるいは痕跡が、父の手の者によって完全に消し去られる可能性は十分にあった。
カニンガム女史だ。
彼女が騎士団に連行された「横領」という罪状が、もし父たちの手によるでっち上げだとしたら。彼女は必ず、自分が消される日に備えて何かを残しているはずだ。魔法歴史学の権威であった彼女が、無防備なまま真実を追っていたとは考えにくい。
深夜、ミシェルは音を立てずに寮を抜け出し、本校舎へと向かった。
目指すのは、騎士団の家宅捜索が入ったカニンガム女史の執務室ではなく、彼女が特別に管理を任されていた地下の古文書室だった。
授業中、彼女が一度だけ「本当に大切な記録は、歴史の表舞台ではなく、忘れられた層にこそ沈んでいる」と語った言葉が、妙に記憶へ引っかかっていたからだ。
鍵の掛かった重い扉の前に立つ。ミシェルは小さく息を吐き、杖を抜いた。通常の解錠魔法では弾かれる。彼女が授業で触れていた、古い王朝時代の魔力配列を逆算して流し込むと、カチリと乾いた音がして扉が開いた。
埃の匂いと、古い紙の匂いが鼻をつく。
月明かりすら届かない地下室で、杖の先に小さな灯りを点したミシェルは、書架の奥へと進んだ。探すべきは、彼女が残した「現在の」記録だ。
古い魔導書が並ぶ中、一箇所だけ、魔力の流れが不自然に歪んでいる棚があった。幻影の術式。ミシェルは迷わずそこへ手を伸ばし、術式を解除する。
現れたのは、革張りの手帳と、数枚の分厚い羊皮紙の束だった。
手帳を開いたミシェルの手が、数ページをめくったところでピタリと止まった。
『王家より金貨二千枚。シュデール公爵家より金貨三千枚。ヴァルディエ侯爵家より——』
それは、信じがたい金額の送金記録だった。名目は『療養費および見舞金』。受取人は、かつて隣国へ移住したはずの伯爵家、つまり、死んだはずの婚約者の家族だった。
そして、羊皮紙の束は、数年にわたる治癒師の定期報告書だった。
『身体的成長に異常は見られない。事故後には重度の幼児退行が認められた。精神年齢が五歳前後まで戻っていると思われる。その後継続した治癒により、精神機能には極めて緩慢ながら回復が見られる。ただし、その発達速度は通常の三分の一程度と推定される』
ミシェルは息を呑んだ。
死んでなどいなかった。彼女はあの湖から引き上げられ、一命を取り留めていたのだ。
しかし、その心はあの日に深く傷つき、成長する身体とは比べものにならないほど遅い速度でしか前へ進めずにいる。公爵家と侯爵家、そして王家は、子供同士の悲惨な事故が表沙汰になることを恐れ——あるいは、王位継承権を持つミシェルに「婚約者を狂わせた」という傷がつくことを防ぐため、圧倒的な金と権力で伯爵家を黙らせたのだ。
「……こんなこと」
喉から掠れた声が漏れた。
自分はずっと、罪悪感に苛まれながらも「彼女は死んだ」という結果に甘んじて生きてきた。けれど現実はもっと残酷だった。自分の家が、彼女が生きていることを隠し、その沈黙と引き換えに金を払い続けていたのだ。
「……見つけてしまったのですね」
不意に背後から声が響き、ミシェルが弾かれたように振り返った。そこには、リディアが立っていた。
彼女の手には、魔力で灯された淡い光の球が浮かんでいる。
「フェルゼン先生……どうしてここに」
「彼女が……カニンガム先生が、この部屋の鍵が開けられたら知らせが飛ぶように事前に用意していたのです。もしも開けたのがシュデール卿だったら、すべてを話すようにも言い残していました」
リディアは静かに歩み寄り、ミシェルの手にある報告書へ視線を落とした。
「先生は、あなたを恨んでなどいませんでした。幼いあなたとあの子が、どれほど互いを大切に思っていたかを知っていたから。だからこそ、大人たちの保身によって真実が歪められ、あの子がいないものとして扱われ続けることに耐えられなかったのです」
「じゃあ、先生が横領の罪を着せられたのは……」
「公爵家に気づかれたからです。カニンガム先生が、あの子の兄——私の従兄と連絡を取り合い、あなたとヴァルディエ卿に記憶を取り戻させ、真実と向き合わせようと動いていたことに」
——従兄?
その言葉に、ミシェルは顔を上げた。
「待ってくれ。従兄……? あなたは……アナイスじゃないのか?」
リディアは哀しげに微笑むと、首元に留めていた蔓草の意匠のブローチへ手を伸ばした。
カチリ、と留め具が外される。
その瞬間、彼女の輪郭を覆っていた薄皮のような魔力が霧散した。
現れた素顔は、確かに先ほどまでのリディアでありながら、どこか決定的に違っていた。ミシェルが「懐かしい」と感じていた幼馴染の面影は薄れ、より大人びた、見知らぬ女性の顔がそこにあった。
「私はあの子の従姉です。この魔道具で、ほんの少しだけあの子の面影を重ねていました。図書館で私の従兄をあえて『兄』と呼んだのも、すべてはあなたを錯誤させるため。あなたが奥底に封じ込めた記憶を、あなた自身の意思で引っ張り出すための、劇薬として」
「錯誤させるため……? どうしてそんな回りくどい真似を。真実を知っていたなら、なぜ最初から僕に言わなかった!」
リディアは悲痛な面持ちで首を振った。
「言えなかったのです。あの日のあなたの記憶は、ただのショックで失われたわけではありません。大人たちによって、極めて複雑で強固な『記憶封じの術式』が掛けられていた。外から真実を突きつけて無理にこじ開けようとすれば、術式が暴走し、あなたの記憶——あるいは精神そのものが完全に破壊されてしまう危険があったからです。……でも、あなたはもう、自分の記憶を辿ってここまで来た。術式は以前ほど強くあなたを縛っていません。だから今なら、私から話すことができる」
ミシェルは息を呑んだ。
精神が破壊される。その言葉が、手元の報告書に書かれた『幼児退行状態』という文字と重なり、背筋にぞわりと冷たいものが走った。
「まさか……彼女は……!」
「ええ」
リディアの目から、ひとすじの涙がこぼれ落ちた。
「あの子の心が壊れたのは、溺れたショックによる後遺症ではありません。事故の隠蔽を図った大人たちが、目覚めたばかりの幼いあの子にも、あなたと同じ『記憶封じの術式』を強引に施した結果です。あの子の心は術式の重圧に耐えきれず、深く傷つきました。記憶だけでなく、それまで形作られていた人格や精神の成長まで大きく後退してしまった……」
圧倒的な罪の意識と、大人たちへの悍ましいほどの怒りが、ミシェルの全身を貫いた。
彼女の心を壊したのは、事故ではなかったのか……。公爵家と王家が、保身のために彼女の心を壊し、人生から十年以上もの時間を奪った? そして、自分が無知な子供のままで守られていたことそのものが、彼女に対する最大の加害だった。
「私たちは、あなたたちを恨んでいないわけではない。莫大な慰謝料で身の安全を買った家族を、誇れない夜も数え切れないほどありました。
あの子の時間は止まってはいません。でも、私たちが三年を生きる間に、あの子はようやく一年ぶん前へ進む。そのくらい、ゆっくりとしか時間を取り戻せないのです。
術式によってあの子を壊し、あなただけが何も知らず、美しい悲劇の中で大人になっていくことを、私たちはもう許せなかった」
「……ミシェル。やっぱり、ここだったんだね」
その時、もう一つの声が地下室に響いた。




