10
授業が終わると、生徒たちはいつものように立ち上がり、次の教室へ向かう準備を始めた。ミシェルも立ち上がろうとしたが、オスカルに腕を強く掴まれた。
「待て」
「離せよ」
「追いかけるつもりだろ?」
オスカルは呆れたように深く息を吐いた。
「さっきの言葉が気になってるんだろうけど、ただの言い間違いかもしれない」
「お前、本当にそう思ってるのか」
「そう思うよ」
迷いのない即答に、ミシェルは眉を寄せた。
「どうしてそんなに簡単に言える」
「逆に、どうして全部に意味があると思うんだ」
オスカルの声音は穏やかだったが、内容は鋭かった。
「先生が君のことを昔から知っているみたいな言い方をした。それだけだろう? 君は今、少しでも昔と重なるものがあると、全部あの子に結びつけようとしてる」
「結びつけてなんか——」
否定しかけて、言葉が止まる。
……していないと言い切れるだろうか。
リディアの顔を見て、声を聞いて、年齢を聞き、出身を聞き、名前の由来まで確かめた。自分は明らかに、彼女の中へ死んだ婚約者の痕跡を探している。
オスカルはミシェルの表情を見て、少しだけ声を落とした。
「君が苦しいのは分かってる。でも、だからこそ、今見えてるもの全部を信じるのは危ないと思う。確かめられないことを、確かだと思い込むな」
その言葉は正しい。少なくとも表面上は。
ミシェル自身、治癒師から同じようなことを言われたばかりだった。
「先生を追いかけるのもやめた方がいい。これ以上やったら、本当に専門の治癒師を呼ばれるぞ」
周囲を見渡すと、まだ教室に残っている数人の生徒が、こちらを気にしながらひそひそと話している。
「……分かった」
それだけ言い、ミシェルは少し乱暴に腕を振りほどいた。
教室を出た後、ミシェルはリディアを追わなかった。追わなかったことを、自分でも少し意外に思った。
オスカルの言葉が耳に残っていた。
——確かめられないことを、確かだと思い込むな。
その通りだ。だからこそ、確かめなければならない。
午後の授業がすべて終わると、ミシェルは図書館へ向かった。探したのは、隣国の王立魔法学院が発行している研究紀要だった。
もし彼女が本当に飛び級で卒業し、その後研究職についていたのなら、何か記録が残っているはずだ。司書に頼んで過去数年分を出してもらい、ひたすらに研究員の名前を辿る。
答えは思ったより簡単に見つかった。
——リディア・フェルゼン。
年齢までは確かめられなかったが、探知魔法史、古代術式の保存、記憶と魔力感応の相関など、複数の論文に名前が載っていた。
隣国で学生として過ごし、卒業後は研究室に残っていたことも分かった。経歴に不自然なところはない。
むしろ、あまりに整いすぎている。
ミシェルは紙面を指でなぞった。リディア・フェルゼンは確かに存在する。昨日今日作られた偽名ではない。
何年も前から、この名前で学び、この名前で研究をしている。それなら、自分の考えていることの方が間違っているのかもしれない。彼女はただ、偶然似ているだけなのではないか。
そう思いかけた時、一つの論文題目が目に入った。
『水中残留魔力の長期保存性について』
ミシェルは手を止めた。
——偶然だ。
またそう思う。探知魔法を専門にしているなら、水中の魔力について研究していても不思議ではない。
けれど、その題名を見た途端、夢の中の湖がまた鮮明に浮かんだ。
『ここだ、水の中にいる!』
彼女の兄の声と、呼応する治癒師の声。そして、その傍らにいたカニンガム女史。
ミシェルは研究紀要を閉じた。頭がひどく混乱している。一度、何も考えない方がいい。そう思って立ち上がると、図書館の入口に見覚えのある姿が見えた。リディアだった。
彼女もこちらに気づき、わずかに目を見張った。それから、ミシェルが開いていた研究紀要へゆっくりと視線を落とす。
「……調べていたんですね」
静かな声だった。ミシェルが黙っていると、リディアは少し迷った後、向かいの椅子へ腰を下ろした。
「私のことを」
「……気になったので」
「そうでしょうね」
否定されなかった。むしろ当然のように受け止められ、ミシェルは戸惑いを覚えた。
「先生は、僕が何を疑ってるか分かってるんですか」
リディアはすぐには答えず、伏し目がちに手元を見つめた。
「分かっているつもりです」
「なら、教えてください。……あなたは誰なんですか」
問いかけた瞬間、リディアの表情がわずかに揺れた。けれど、すぐに冷たいほど整った元の表情へ戻る。
「私はリディア・フェルゼンです」
「そういうことを聞いてるんじゃない!」
思わず声が大きくなる。周囲に人がいないか確認し、ミシェルは身を乗り出した。
「僕は、あなたを知っている気がする。声も、顔も、癖も。なのに名前が違う。経歴も違う。全部別人だと言ってるのに、どうしてこんなに——」
言葉が詰まる。リディアは静かに、ただミシェルの言葉を待っていた。
「…………どうして、懐かしいんだ」
絞り出すように口にした。
二人の間に重い沈黙が落ち、遠くで誰かが本をめくる音だけが微かに響く。
「懐かしいと思うことは、悪いことではありませんよ。ただ……私は、少し怖いんです」
ミシェルは顔を上げた。
「……何、が?」
「あなたが、昔のことを思い出そうとしていることが」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
「どうして先生がそれを怖がるんです」
リディアは答えず、机の上に置かれた本へ視線を落とした。
「人は、忘れることで生きられることもあります」
「何だよそれ……!」
奥歯を噛み締める。
「みんな同じことを言う。父も、オスカルも、先生まで。忘れた方がいいって言うなら、せめて何を忘れたのか教えてください。僕は……」
リディアがゆっくりと顔を上げた。その瞳には、今までよりはっきりと感情が浮かんでいた。
深い悲しみだった。少なくとも、ミシェルにはそう見えた。
「今は言えません」
「どうして?」
「あなたが、まだ自分の記憶を信じられていないからです」
意味が分からなかった。
「今のあなたに何かを話したら、それすら夢や幻だと思ってしまうでしょう」
反論できなかった。実際、その通りだった。今ここで彼女が何かを告げたとしても、自分が望む幻を見ているだけだと疑うだろう。
「だったら、どうすればいいんです」
投げやりに言い捨てると、リディアはひどく落ち着いた声音で返した。
「あなた自身で確かめてください。誰が何を言ったかではなく、何があったのかを」
リディアはそれだけ言うと、静かに立ち上がった。
「待って!」
ミシェルも弾かれたように立ち上がる。
「もう一つだけ。……カニンガム女史を知っていましたか」
その瞬間、彼女の表情が変わった。これまでで一番はっきりと、動揺が顔に出た。
答えを聞く前に分かった。リディアは、カニンガム女史を知っている。
「……昔、お世話になったことがあります」
「いつ?」
「こちらの国にいた頃です」
「どういう関係ですか」
リディアは痛みを堪えるように一度目を閉じた。
「兄の、大切な人でした」
ミシェルの呼吸が止まった。
また夢が甦る。湖のそばで膝をつく少女の兄。その肩を抱いていた若い女性——顔を上げた彼女は、紛れもなくカニンガム女史だった。
「兄……。あなたには兄がいるんですか」
「ええ……」
「探知魔法が得意な?」
リディアの顔から、さーっと血の気が引いた。
「どうして知っているんですか」
震える声で問い返され、ミシェルは言葉に詰まった。夢で見たなどと言えば、いよいよ狂ったと思われるだろう。
言葉を探している間に、図書館の入口から声がした。
「ミシェル」
オスカルだった。どうしてここにいるのか。そう思った瞬間、オスカルの冷ややかな視線がリディアへ向く。いつもの人の良い笑顔は完全に消えていた。
「何を話してたの」
ミシェルは答えず、リディアを見た。彼女もまた、強張った表情でオスカルを見つめ返している。
二人の間に、目に見えない張り詰めた空気が漂っていた。今度こそ、気のせいではない。
オスカルがふっと息を吐き、先に作り笑いを浮かべた。
「先生まで、ミシェルの昔話に付き合わされてるんですか」
冗談めかした声だったが、リディアは笑わなかった。
「少し話をしていただけです」
「そうですか」
オスカルは歩み寄り、ミシェルの肩へ重く手を置いた。
「帰ろう。もう遅い」
その手を、ミシェルは振り払わなかった。けれど、オスカルの方へ振り返りもしなかった。
「オスカル」
「何?」
「カニンガム女史は、彼女の兄の恋人だったらしい」
肩に置かれたオスカルの手が、微かに震えた。それは一瞬だったが、ミシェルははっきりと感じ取った。
「へえ、……そうなの?」
「知らなかったのか」
「そんなの知らないよ」
返事は異常なほど早かった。
「僕たち子供だっただろ。大人の恋愛事情なんて、いちいち覚えてないよ」
もっともらしいが、十分にあり得る答えだ。それでも、ミシェルはもう、以前のように彼の言葉をそのまま信じることができなかった。
図書館を出る時、一度だけ振り返る。
リディアはその場に立ったまま、じっとこちらを見ていた。その顔に浮かんでいたものは、心配にも不安にも見え、同時に何かを決意したようにも見えた。
寮へ戻ると、自室の窓辺に一羽の使い魔が止まっていた。父へ送ったものと同じ、公爵家の紋章を刻んだ小さな鳥だった。
ミシェルはしばらくその姿を見つめた。待っていたはずなのに、すぐには手を伸ばせない。使い魔の脚には、一通の封書が結ばれている。
ようやく封を取り、机へ座る。蝋を割って便箋を開くと、ひんやりとした父の香りがした。そこには、父らしい簡潔な文字で、短くこう書かれていた。
『その件について、手紙で答えるつもりはない。次の休暇に帰宅しなさい。話すべき時が来たのだろう』
彼女の名前は書かれていない。問いにも答えていない。
それなのに、ミシェルは何度もその文面を読み返した。『話すべき時が来た』ということは、つまり話していないことがあるということだ。
これまでずっと、父は何かを知っていた。そして、僕には黙っていた。きっと使用人にも、関係者にも箝口令が敷かれているのだろう。
便箋を持つ手にじわじわと力が入る。紙が微かに音を立てて歪んだ。
怒りなのか、恐れなのか、自分でも分からない。ただ一つ確かなことは、自分はもう、以前のように何も知らないふりをして生きることはできないということだ。
父が何を隠し、オスカルが何を覚えているのか。リディア・フェルゼンとは何者で、あの日の湖では本当は何が起きていたのか。
答えはまだどこにも見えていない。だが少なくとも、自分が見たものすべてが幻だったわけではない。
答えは必ずどこかにある。
今はそれだけが、暗闇の中に立つミシェルにとって、唯一の拠り所となっていた。




