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 第一王子の放った罠は、音もなく、しかし劇的な速度で王国の根幹を侵食していった。

 

 彼が用いたのは武力ではなく「疑心暗鬼」という猛毒だった。カニンガム女史が残した証拠を元に、第一王子は中立派や国王派の有力貴族たちへ、密かに怪文書を流布した。

 

『王家と公爵家は、意に沿わぬ者や不都合な事実を知った者の精神を破壊し得る、禁忌の記憶封じの術式を乱用している。あなたのその記憶は、本当にあなた自身のものか』

 

 最初は誰もが荒唐無稽な陰謀論だと嘲笑った。だが、第一王子が自身の息のかかった高位治癒師たちを動かし、「無作為な魔力健診」と称して貴族たちの脳裏に残る微かな術式の痕跡を洗い出し始めると、事態は一変した。

 

 かつて国王の政策に反対した直後に急に態度を翻した辺境伯や、ある時期の記憶が不自然に欠落している有力貴族たちから、次々と同種の術式痕が見つかった。

 

 貴族社会は瞬く間に恐慌状態に陥った。

 己の思考すら王家に操作されているかもしれないという根源的な恐怖は、どんな権力や恩賞よりも強烈だった。昨日まで強固な一枚岩だった国王派の貴族たちが、次々と雪崩を打って第一王子の陣営へと寝返っていく。

 

 孤立無援となった現国王の廃位を求める声が王宮を包み込んだその日、ミシェルは自らの手で公爵邸の門を開け放ち、第一王子の近衛騎士団を招き入れた。

「……こんな結末を選ぶとはな、ミシェル」

 執務室で両腕を縛り上げられた父は、初めてその凪いだ顔に微かな疲労と苦渋を浮かべていた。

 

「お前は家を焼き払い、自らの手足を鎖で縛ってまで、あの壊れた小鳥を迎えに行くというのか」

「ええ。子供の箱庭は終わりです、父上」

 ミシェルは冷たく見下ろし、告げた。

「僕は血を被ってでも、彼女の奪われた時間を取り戻す」

 

 公爵家は実質的に第一王子の完全な管理下に入り、ミシェルは王位継承権を永久に放棄することを条件に、新たな公爵として爵位を継いだ。

 

 国内の粛清と政変後の処理が落ち着き、第一王子が新たな王として戴冠した直後、ミシェルは最低限の従者を連れて隣国へと向かった。

 

 彼の隣には、かつて学院で教師を務めていた従姉——フェルゼンがいた。

「驚かせてしまって申し訳ありませんでした。私の本当の名前は、マリディア・フェルゼン。リディアというのは、あの子のミドルネームであり、私の名前の一部です。研究の際には、あえてリディアと名乗っていました」

 馬車の中で、彼女は静かに語った。

「あなたの記憶を揺さぶるために、あの子と同じ『リディア』の名をあえて前に出していました。……今日で、その役目も終わりです」

 

 隣国の、静かで陽の光が降り注ぐ美しい別邸。

 使用人に案内されて出た中庭には、鮮やかな緑と色とりどりの花々が咲き乱れていた。

 その花壇の前に、白いドレスを着た女性がしゃがみ込んでいる。年齢はミシェルと同じはずだが、その華奢な背中はどこか幼さを残していた。

 

 足音に気づき、彼女がゆっくりと振り返る。

 夏の陽射しの中、風が彼女の髪を揺らした。ミシェルは息を詰めた。

 

 あの日、湖に落ちる直前の小径で振り返った少女の面影が、そこにあった。彼女はミシェルの顔をじっと見つめ、不思議そうに数度瞬きをする。

「……あなた、ミシェルにそっくりね! ずっとお兄さんだけど」

 無邪気に、花が綻ぶように笑った。

 

 そのあどけない声を聞いた瞬間、ミシェルの目から堰を切ったように涙が溢れ出した。声にならない嗚咽が漏れ、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えて、彼は一歩前へ踏み出す。

「ミシェル……?」

 戸惑う彼女を、ミシェルは強く、壊れるほどに抱きしめた。

「えっ、あの、どうしたの?」

「僕だよ……アナイス。ミシェルだよ……」

 声が知らず知らずのうちに震える。すべての感情が爆発して、あらゆる決心を吹き飛ばし、ゆっくりと知り合うという目的を忘れてしまった。


「ミシェル? お兄さんが?」

 目を白黒させた彼女は、わけがわからないというように慌てて叫んだ。

「お母様! お父様! 知らないお兄さんが泣いてるの!」

 その幼い叫び声すら愛おしく、ミシェルはただとめどなく涙を流しながらも、慌てて彼女を離した。

 その後何度も謝るミシェルに、アナイスは笑顔で接してくれたのだった。



  

 ——時は流れ。 

 隣国の別邸で長い年月を重ね、彼女が対等な伴侶としてミシェルを選んだ後、二人が人生の終着点として選んだのは、かつてあの悲劇が起きた湖畔の別邸だった。

 

 忌まわしい記憶が眠る場所。しかしミシェルは、彼女の過ごすはずだった正しい時間を奪ったその場所を、幸福な記憶で上書きしたかった。


 かつて恐ろしい暗闇に見えた水面は、今はただ穏やかに陽光を反射し、宝石のように煌めいている。あの日、幼い彼女が消えた庭の緑の回廊は、今では老いた二人が手を繋いで歩く、最も愛おしい散歩道になっていた。

 

 穏やかな夏の午後。湖を見下ろす静かな寝室には、柔らかな陽射しが満ちている。

 

 ベッドの脇に置かれた椅子に座り、ミシェルは手元の絵本をゆっくりと閉じる。すっかり白くなった髪と、刻まれた深い皺が、彼が歩んできた長い年月を物語っていた。

「……『それで二人は、幸せに暮らしました』」

 ミシェルは優しく微笑み、ベッドに横たわる老女へ目を向けた。

「さて、今日は疲れたろう? そろそろ休もうか」

 

 かつての幼い面影を残したまま歳を重ねた老女——彼の妻は、うっすらと目を開けた。その瞳には、いつもの柔らかな光とは違う、静かで透き通るような色が宿っていた。

「ミシェル……ありがとう」

「本を読むくらい、なんてことないさ」

「違うの」

 彼女はゆっくりと首を振った。その目から、ほろほろと涙がこぼれ落ちる。

 

「私、私……思い出したわ」

 ミシェルは息を呑んだ。

 長い年月をかけてゆっくりと成熟してきた彼女の心に、最後まで閉ざされていた八歳の夏の記憶が、静かに氷を溶かすように蘇っていた。

 

 それは、冷たい水底の恐怖ではない。ここで共に笑い合い、無邪気に駆け回った、本当の始まりの日の記憶。

「あなたを忘れてごめんなさい。……愛してるわ。心から。初めて会った日から、ずっと。また会えてからも、あなただけを愛してる」

 大人の女性としての、確かな愛の告白だった。

 

 ミシェルの目からも、自然と涙が溢れた。彼は震える手で彼女の手を包み込み、自分の頬へ当てた。

「僕もごめん。君をちゃんと救えなくて、本当にごめん」

「ううん……あなたは、私を迎えに来てくれた。恐ろしかったこの場所を、もう一度、私のいちばん好きな場所にしてくれたわ」

 二人は、皺だらけの手を固く握り合った。

 

 窓の外では、かつて彼女を呑み込んだ湖が、今はただ優しく凪いでいる。

 

 多くのものを失った。

 消えてしまったことも、消えなかった過去の罪も、新しく作られた偽りの平和もあった。けれど、泥を啜りながらも懸命に生き、自らの手で選び取り続けてきたからこそ、最も悲しい場所を、最も幸せな場所へと変えることができたのだ。

 

 公爵家は、すでに優秀な養子が立派に跡を継いでいた。すべてを次世代に託した二人は、緩やかに時間を過ごしていたが、やがてアナイスが静かに息を引き取った後、その手を握ったまま、ほどなくしてミシェルも長い生涯を終えた。

  

 窓の外では、夏の陽を受けた湖面が、何も知らないように静かに煌めいていた。

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