第五章 戦火の足音 ②
薄暗くじめじめとした地下牢は、長くいると気が滅入りそうな場所だった。
天井付近の壁には外へ続く細い切り込みがあり、わずかに光はある。だが、手持ちのランプが無ければ、前もほとんど見えないだろう。
兵の一人に連れられて、一つの牢の前にやって来た。通路側は格子戸になっており、後ろ側にはただの壁。それも整えられたものではなく、岩肌が直接見えている。
木のベッドは今にも壊れそうなほどボロく、布団は布が敷かれているだけだ。これでは、ゆっくり休めそうもない。
グレンのいる牢は、行政棟の地下だった。政治犯の留置所として使われており、中でも重罪の疑いがあるものが入れられるエリアである。
壁側を向いて寝転ぶ姿に、アンナは胸が締めつけられる思いだった。
「グレン!」
声をかけて近づくと、横たわる男はぴくりと肩を揺らして起き上がった。そして、通路を見て驚愕する。
「あ、アンナ様! どうしてこんなところに!」
慌てて近づいたグレンは、戸惑った様子で尋ねてくる。
その頬には擦り傷があり、いつもピシッとしている服はよれている。すらりと伸びているはずの背は、庇うように丸まっていた。
「こんな、酷いわ……」
「アンナ様、こんな場所に来てはいけません。今すぐお戻りください」
「貴方に会いに来たのよ、様子が見たくて。どこが痛いの? 医者を手配できないか聞いてみるわ」
「アンナ様……お気持ちは嬉しいのですが、私は今や国家転覆の疑いがある人間です。あまりここへは来られない方がいい」
「グレンは関係ないのでしょう? なら、問題ないじゃない」
アンナが言うと、グレンは疲れた顔で首を横に振った。
「いいえ、アンナ様。貴方は聖女なのです。もし私との仲を疑われては、貴方も無事では済まないかもしれない」
「仲をって……ただの護衛騎士であり、友人じゃない」
「周りがそう見るとは限らないという話です」
アンナはすぐに、グレンの言葉の意味を理解する。つまり、彼はその疑いもかけられているのだ。
聖女と護衛騎士は、男女だ。それも常に一緒にいる。口さがない連中があらぬ疑いをかけていてもおかしくはない。
聖女を利用して国家転覆を企む。おおかた、そのようなシナリオが作られているのだろう。
そしてもしそれが真実になってしまえば、神に仕えるべき聖女の神聖性まで疑われてしまう。
きっとグレンは、それを心配しているのだ。彼は自分の身よりも、アンナを優先している。
「グレン、きっと無実は証明されるわ」
「……そう願うばかりです」
「本当に、やっていないのでしょう?」
「もちろんです。私は、貴方を裏切ることは絶対にない」
グレンが強い瞳をアンナに向ける。それは、絶対的な忠誠だった。
「……貴方はどうしてそこまで、私に尽くしてくれるの? ただの命令だったはずなのに」
それは、アンナが聞かずにいた問いだった。
物心ついた頃には、グレンはすでに高い忠誠心を向けてくれていた。だがその理由について、アンナには心当たりがない。
グレンは傍の椅子に座り俯く。騎士然とした姿は失せ、どこにでもいる普通の青年のようだ。
親指同士で手遊びをしながら、彼は懐かしむ声で話し出す。
「忘れもしません。あれは、まだ貴方が生まれてから一週間ほどのことでした。貴方はよくお泣きになる方で、ご両親以外の誰が抱いても、必ず大泣きをしたのです」
アンナの両親は、五歳になる頃に事故で亡くなった。聖女お披露目式の少し前だったので、晴れ姿を見られずに可哀相だったと、聖職者たちが口にしていたのを覚えている。
「私は腕が立ちましたから、聖女付きに選ばれました。最初の任務は、貴方をお抱えすることです。きっと泣かれるのだろうと思っていました。でも、違った」
グレンが嬉しそうに、アンナを見て微笑む。それはいつものグレンではなく、幼いころからアンナを見続けてきた兄の姿だった。
「貴方は、私に微笑みかけてくださったのです。表情が豊かでもなく、抱き方だって不安定な私を、貴方は認めてくださった。それがどれほど嬉しかったか……言葉にはできません」
アンナの記憶は、グレンの腕の中から始まる。聖女のお披露目式を前にして不安だったアンナを、彼は安心させるように抱いてくれた。その温もりが心地よくて、人々の前に出るのが怖くなくなった。
それからもずっと、少し甘えん坊なアンナを、いつも抱いてくれた。授業を抜け出してさぼるアンナを見つけたのも、木登りをして落ちそうになったところを助けてくれたのも、食べてみたいと思った菓子を買ってきてくれたのも、全部グレンだった。
言葉を止めたグレンが、アンナに向けて膝をつく。片膝を立てて頭を下げるのは、忠誠の証だった。
張りのある声が、無機質な空間に響く。
「このグレン・シモムラ、誓って貴方を裏切ることはしていません。貴方に尽くすことは私の喜びであり、生きがいでした」
「……これからも、私の傍にいてくれるのでしょ?」
アンナは嫌な予感がして、確かめるように問う。しかしグレンは顔を上げると、それに答えることなく微笑んだ。そこにあるのは、騎士としての顔だった。
「必要ならば、私のことは見捨ててください。それがアンナ様のためになるというのなら、私は命さえ捧げます。私にとって、誰よりも大切にすべき神は、貴方です」
彼の言葉は、アンナにとってこれ以上ない幸いであると同時に、彼が異邦人なのだと嫌でも実感させた。
グレン・シモムラが国家転覆の罪で処刑されたのは、それから三日後のことだった。




