第七章 心からのお別れを ②
事件は突然起こった。
「ドラゴニア人撲殺事件……」
「酷いことするな。いくら疑わしいからって」
ミカドが苛立ちを隠さない声で言った。彼はドラゴニアの迫害が本格化してから、ずっと気が立っている。こういったことが嫌いなのだろう。
「国が何も言わないからだ。迫害を扇動しなくたって、やめるように言わなければ同じだよ。王は何を考えてるんだか」
「ちょっと、ミカド様。いくら貴方でも、王のことは」
「わかってる。今は俺とアンナ様しかいないだろ? オフレコで、ね。愚痴らせてよ」
彼は願うように手を合わせて言う。この仕草は、彼の住んでいた国での祈りの形らしい。
アンナはため息を吐いて、特別に許すことにした。今はミカドの部屋だから、聞き咎める者もいない。
本来であれば王宮に移り住むはずのミカドだが、相変わらずアルバートと距離が微妙なままのようで、こうして未だに居住棟の自室を使っている。
フィリップはといえば、完全にミカドを信頼しきっているので、最近ではこうして二人で過ごすことが多かった。彼は本当に、グレンとは正反対だ。
「王は、戦争を待ってるのかな」
ミカドが思いついたように言った。意味を掴みかねて、アンナは彼を見る。
ミカドは顎に手を当てながら、やや俯いてそのまま続ける。
「ドラゴニアはオルゲイトの機密情報を盗もうとした。しかも同時期に、武器や弾薬などを集めて、戦争の準備をしている。グレンが処刑されたとはいえ、それらがすべて無かったことになるわけじゃない」
「まさか、王が戦争を望むなんて……主は私欲による争いを認めないわ」
「もし私欲じゃなかったら? ドラゴニアが本当に戦争を準備していたのなら、いくら聖女がいて軍事力もそれなりにあるオルゲイトだって、かなり苦戦を強いられる。向こうが完全に準備が終わる前に叩きたい」
「……国のために?」
「うん。国の存続を望むなら、勝てる見込みのあるうちに戦うしかない。でも、こちらから戦争を仕掛けたとなれば、いろいろ厄介でしょ。帝国はこれ幸いに、秩序維持の名のもとにオルゲイトに攻め入るんじゃないかな」
そういえば、ドラゴニアに武器を売っていたのがフィンデン帝国だという話もあった。
「ほら、帝国は今、基本的には平和主義でしょ? だから、大っぴらに攻め入ることはできない。でも、機会があればいつだって領地を広げたいはずだよ」
フィンデンは現在、周辺諸国との融和を目指している。周辺諸国はかつてフィンデンにより苦労を強いられた国も多く、もしフィンデンがどこかを攻めたとなれば、一丸となって抑えつけるのが目に見えているからだ。
「ドラゴニアに戦争を仕掛けさせれば、オルゲイト側に大義名分ができる。だから、それを待ってるんじゃないかな」
「どうしてドラゴニアからならばいいの? 帝国が出てくるのは変わらないんじゃないかしら」
「ドラゴニアから戦争を仕掛けたなら、オルゲイトは被害者だ。ドラゴニアが迫害を理由に攻めるとしても、周囲は内政への干渉と見るだろうし。一応平和主義を貫く帝国がもし味方をするなら、オルゲイト側じゃなければ筋が通らない。でも、そしたら今まで懇意にしていたドラゴニアを裏切ることになる。つまりは」
「帝国は、身動きが取れなくなるのね」
もしフィンデンがオルゲイトの味方をするならばそれも良い。だが、もしドラゴニアに手を貸せば、周辺諸国は反発し始めるだろう。被害者を追い打ちするような国は、どこにとっても脅威だ。
帝国は四方八方を大小いくつかの国に囲まれていて、小国は小国同士で同盟を結んでいるから事実上それなりに大きな塊となっている。帝国だって、全方位との戦争は望まない。
アンナはミカドの考えを聞きながら、ミファールの話を思い出す。
彼の言う通り、まもなく戦争は起こるのだろう。もう避けられないところまで来てしまっているのだ。
「多くの犠牲を防ぐために、グレンは犠牲になったのではなかったの……」
「アンナ様……」
「わからないわ。戦争になるなら、多くの命が失われることになる。そのきっかけはグレンの処刑よ。これじゃあ、まるで」
アンナは口から出そうになった言葉を、咄嗟に飲み込んだ。それは、主を疑うような言葉だったからだ。
まるで、多くの犠牲のためにグレンをわざと処刑させたみたいだ。
そんなこと、思うことすら許されない。神は犠牲を減らすためにグレンの処刑を告げたのであって、犠牲を望んでいたわけではない。神は多くの神託を下すが、実際に世を治めるのは人間だ。今回の件も、神がそのように采配したわけではなく、人間が争いを起こしているにすぎないのだ。
神の御心を疑うなど、聖女として失格である。
アンナはその場で手を組み、目を閉じて祈りの姿勢を取る。
「主よ、どうかお赦しください。私は貴方様のお言葉を少しでも疑ってしまった。もう二度と、このようなことは思いません。主は私たちを善き方へとお導きくださる方です。私は聖女として、貴方様の御心に従い尽くします」
指に力が入る。放たれる言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。
神はグレンの犠牲が、より多くを救うのだと言っていた。それならば、きっとその通りに違いないのだ。
それにもし万が一、グレンの犠牲がより多くの犠牲を生むためのものだったとしても、それが神の望むことだというのならば、従うべきである。神が世のためにならないことを言うはずがないし、人間は神によって生かされている存在であり、神が望むことを遂行する立場なのだから。
そうでなければ、グレンは何のために首を刎ねられたというのだろうか。
「アンナ様、神様は何か応えてくれた?」
ミカドがそっと尋ねた。アンナは首を緩く振る。
「……いいえ。礼拝堂でなければ、天使を呼ぶことはできないの」
「そっか。わりと不便なんだな」
「仕方ないわ。主の御使いである天使は、穢れに触れられないもの。人の世界は穢れに満ちているから、どこでも簡単に来られないのよ」
「なるほどね。……あれ、じゃあ悪魔は人間の世界にも来られるのか?」
「ええ、そうね。彼らは逆に、神聖な場には行けないの」
アンナの言葉に、ミカドが興味深そうに身を乗り出した。
「じゃあ、悪魔がそこらへんを歩いてたりもするのかな」
「どうかしら。悪魔も人とは違う世界に住まうものだから、もしいても、見えないんじゃないかしら」
「なんだ、つまんないな。何か見える方法はあるの?」
「そうね……心に魔を宿すと見えるようになると聞いたことがあるわね」
古い文献に、そのような記述があったはずだ。心に魔や影を持つと、悪魔が唆すためにやってくるのだ。普段は見えない悪魔も心に魔があれば見えるようになるうえ、とても魅力的に映るのだという。
普通の人ではまずその誘惑に抗うことはできない。だから人々は、己に魔が入り込まないように生きる。
「魔っていうのは、具体的にはどういうのなの?」
「嫉妬したり、人を騙そうとしたり、暴力をふるいたくなったりかしら。自分のことばかり考えて、他人のことは虐げても気にしないとか、そういうものね」
「そんな聖人君子いるの?」
「難しいから、修行するのよ。もし心に魔を持ってしまったなら、主に祈りを捧げ贖罪をするの。贖罪も、心に宿した魔によって、いくつか決められているのよ」
アンナがそう言うと、ミカドは苦々しそうな顔をして肩を竦めた。
「そんなとこまで……ノクスト教って、結構めんどくさいんだな」
「そんなことないわよ。ただ主を信じて従っていれば、魔が差すことなんてないもの」
主の心を疑うようなことをするから、悪魔につけ入る隙を与えてしまうのだ。主の教えに従い、ただ日々をその通りに過ごしていれば、心に魔ができることはない。
アンナもまた、完璧な人間ではない。先程のように、主の心を疑ってしまう時もある。けれどすぐに反省して、心を新たにすることで、魔は自然と心の内から消えていく。
アンナはミカドに向き直る。ミカドは、相変わらず苦虫を嚙み潰したような顔をしている。彼はノクスト教の話になると、いつもこの顔をしている。
「それに、主は間違いをお叱りにならないわ。誤りを正そうとしないことを嫌うのよ」
「……そうなんだ、懐が広いんだな」
「ええ、そうよ。……ああ、でも、取返しのつかない過ちもあるわ」
「たとえば?」
「私欲のために、人の命を奪うこと。これは絶対にお許しにならないの。それは自らを殺めることでも一緒よ」
「そういうのは、俺のいた世界でも似たようなのがあったな」
ミカドが、思い出すような口ぶりでそう言った。
ミカドは神を信仰していないようだけれど、どうやらミカドの世界にも神を信じる国はあるらしい。神を信じるならば、きっと自然と信仰の形も似るのだろう。
ミカドのいた国は異世界ではあっても、ノクストの神の造り出した世界のはず。ならば、そもそも同じ神を信仰していてもおかしくはない。




