第七章 心からのお別れを ①
グレンの死から半年、混乱は国内全体を覆いつくしていた。
黒い髪と瞳を持つドラゴニアの民は、国を脅かす脅威として、各地で迫害を受けている。店は荒らされ、歩けば石を投げられ、隠れるように暮らしていた。
政治に関わらない立場ではあれども御前会議に出席しているアンナは、行き交う貴族たちのやりとりを眺める。
「一刻も早く事態を収束するようにと、ドラゴニアから抗議の文書が届いています」
「捨ておけ。そもそもドラゴニアが間者を忍ばせていたから問題なのだ。あの男の命一つで許してやったことを感謝してもらわんとな。本来ならば、攻め入っても良かったというのに」
「ドラゴニアは今も高い軍事力を誇ります。我々が策なしに行っても負けていたでしょう。あそこはあれで手打ちとする他なかった」
「我らとてドラゴニアに頼りきりの頃とは違うのだ。十分な兵も物資も揃っている。何より、我らには聖女様がいらっしゃる」
「ああ、そうだ。聖女様のご神託が、必ずや我らを勝利に導いてくださる」
ああでもないこうでもないと、貴族たちは好きに意見を述べている。だが、最終的に神託があるから問題ないという方向で纏まっていく。これはいつもの流れだった。
神託は万能ではないため、こちらの望み通りに下るとは限らない。それでもこうして信じられているのは、神託は必ず国にとって良い結果をもたらすからだ。
しかし、とアンナは思う。
グレンの死は、ドラゴニアとの仲を完全に分断してしまった。
国家転覆の罪は詳細が語られず、ドラゴニアとの関与についても大衆は知らない。だが、グレンのドラゴニアの容姿は、彼らを虐げる理由として十分すぎた。
はじめは、ただの不満だった。そもそもドラゴニアの文化は、オルゲイトの人々にとって異文化である。その文化の差が、小さな不満を生んだ。
やがて人々の不満は不安となり、みるみるうちに不信へと変わっていった。不信は人を強くする。正義の名のもとに行われる迫害は、民が一つの方向にまとまるのにうってつけだった。
神はより多くの民を救うために、グレンの命を捨てるようにと言った。だがこのまま戦争になってしまえば、より多くの命を失うことになるのではないか。
疑うつもりは無い。神がそう言うのならば、それが正しい。
だが多くを救うとは、何を指すのだろうか。多くの民を救うために、これからどんな犠牲が起こるのだろう。
「どうかしましたか?」
「……いいえ、何でもないわ」
新しく付いた護衛のフィリップが小声で尋ねてきたので、アンナは首を横に振る。
フィリップは、三十代の青年だ。若い層の中でもトップの実力で、教皇が選別した者である。茶色の髪に琥珀色の瞳を持つ甘い顔の彼は、廊下を歩くたびに使用人たちをざわつかせている。
「聖女様、いくら眠たくても寝てはダメですよ」
「寝ないわよ、失礼ね」
「聖女様、昨晩はいつ寝ました? きちんと寝ないと、身長伸びませんよ」
「別に身長は気にしてないわ。……って、なんで知っているのよ」
「グレンの月命日ですからね」
フィリップの言葉に、彼をじっと見る。この男は飄々と軽口を叩くが、人をよく見ているらしい。
教皇の話では、フィリップはグレンと仲が良かったのだという。国家転覆の関与について疑いがなく、グレンから聖女の話をある程度聞いていたところから、馴染みやすいだろうということで選出されたのだとか。
彼との最初の顔合わせで真っ先に言われたことが、グレンは国家転覆なんて望んでいないということだった。彼は今でもグレンを信じているし、こうして月命日も覚えている。
「聖女様は知らないでしょうけどね、あいつは口を開けばいつも貴方の話ばかりでした。お転婆でやんちゃだった貴方が立派に成長したと、あいつは誇らしげに語っていました。あいつの死は、聖女様のせいじゃない」
「……慰めなくていいの。もう、わかっているわ。私は、聖女として正しいことをした。これからも、そうするつもりよ」
「そういう意味では無くて」
「ほら、フィリップ。もう話は終わり。会議に集中しましょう」
アンナが話を切り上げると、フィリップはそれ以上何も言うことができず、不服そうな表情のまま口を閉じた。
グレンはあまり表情の変わらない人だった。だがフィリップは、コロコロと表情がよく変わる。アンナには、それが少しありがたい。
少しずつ、グレンのいた気配が薄れていく。もうバラ園で彼を探すこともないし、ミカドの容姿に彼を重ねて胸を痛めることもない。この護衛騎士が彼と正反対であることが、その要因の一つだ。
もう、声も思い出せない。その手のぬくもりも、困ったように笑う表情も、自分だけに見せた優しさも遠い。
唯一はっきりと覚えているのは、たった一度だけ見せた兄としての微笑みだった。
それで良い。グレンの死は、より大きな犠牲を防ぐために必要なものだった。聖女として、正しい選択をした。グレンもそれを喜んでくれた。それで良いのだ。
「……聖女様、これだけはお伝えしておきます。どれほど理由があっても、心の奥に閉じ込めた気持ちは積もるばかりで、消えることはありません」
「……気が向いたら、覚えておくわね」
アンナの返答に、フィリップはため息を吐いて肩を竦めた。
ドラゴニアとの関係やその民への迫害の対応に関する議会は、まとまりを知らないまま進んでいく。
かれこれ三ヶ月は同じ流れなので、アンナはすっかり飽きてしまっていた。もうドラゴニアとの衝突は避けられないところまで来ていると、誰もが直感している。それでもその一言を言わないのは、彼らが誰も責任を取りたくないからだろう。
王が何かを決断するか、神託が下れば、また状況も変わるのだろう。それを望まれているのはわかっているけれど、今のところはどちらも期待できそうにない。
平和的に解決できればそれが一番だけれども。
アンナは中身のない話し合いを聞きながら、窓の外をぼんやりと眺めた。
「そろそろ、戦が起こる。備えておいた方がいいね」
ミファールは相も変わらず講壇の上で手土産の菓子を食べながら、何でもないことのように言った。
アンナは祈りの姿勢のまま尋ねる。
「それは、どういうこと?」
「そのままの意味だよ。これは神託じゃない、ただの私からの善意。君には悪いことをしたと思っているんだ。だから、お詫び」
「悪いことって」
「ほら、黒髪の彼だよ。国を救うためとはいえ、彼には犠牲になってもらっただろう? 君が傷つくのはわかっていたけれど、どうしようもなかった。だから、せめてものお詫び」
「……もう半年も前の話よ」
半ば呆れたように言えば、ミファールはアップルパイを食べる手をぴたりと止めて、きょとんとした。
「あれ、そんなに? 人間の時間はわからないな。一週間前くらいの感覚だよ」
「ということは、私はそんなに頻繁に祈っていると思われていたの?」
「いや、そうでもない。君が私を呼ぶのは一週間に一回だって理解しているからね。ただ、いつ何があったかを記憶しておくのは難しいんだ。時間の流れが曖昧だから」
ミファールの説明は半分くらいしかわからなかったが、ともかく天と人の世では時間の流れが違うので色々と曖昧になりやすいということなのだろう。
ミファールがずぼらなだけなのではないかと思ったが、言わなかった。
「今更いいわよ。それに、ミファールのせいではないもの。グレンよりも、より多くの命を選んだのは私だわ。私は聖女なのだし、当然なの」
「……まあ、アンナがそれでいいならいいよ。私も安心して神託を授けられる。主の言う通りにしていれば、すべて上手く行くのだからね」
ミファールが少しだけ怪訝そうにした後、しかしすぐに関心を失ったようにアップルパイを頬張る。
天使が菓子を好むなんて、きっとアンナしか知らない。歴代の聖女ならば知っていたかもしれないけれど、それはノーカウントだ。
ミファールが手作りの菓子を平らげるたびに、アンナはこの仕事が誇らしく思える。
なんにせよ、争いの気配があるのならば備えておくのが良いだろう。神託ではなくても、王に伝えなければ。
それからいくらかミファールと話してから、アンナは礼拝堂を後にした。




